バージニティVirginity
加集は完全に仕事を放棄していた。
ベンチに座る玲の横に、加集は腰を降ろす。
男の身体が近づいてきたことで、玲は少し緊張した。
ーーだーれもいないプール見ててもしようがないし〜
加集は歌うように言った。
ーー玲ちゃんは学生?
加集はコーチではなく、ひとりの青年になって玲に尋ねた。
ーーはい。もうすぐ卒業なんですけど。
春から就職なんです。
ーへー。就職決まったんだ。すごいね。
なにやんの?
ーー照明器具の会社なんです。一応、一般職で入ったんですけど、面接の時、適性をみて営業にまわってもらうかもしれませんって、言われました。
ーーそう。がんばってね。
間近で見る加集の一重瞼の目は、慈愛に満ち、優しかった。
少しの間のあと、加集はいきなり言った。
ーー俺、高校の時、バタフライめっちゃ得意だったんです。
ーーすごいですね。バタフライって難しいもん。
玲が言い終わらないうちに、スッと加集は立ち上がり、歩き出した。
飛び込み台に立つと、額の上にずらしていたゴーグルを目の位置に戻し、美しいフォームの飛び込みを見せた。
加集のバタフライは力強く、素晴らしく完璧だった。
美しい、と思った。
美しい、という表現は、加集のような男にはそぐわないかもしれない。
だが、泳ぐ加集は美しかった。
玲は加集の泳ぎにすっかり魅了されてしまった。
ーー城ヶ崎海岸って知ってますか?
加集が言った。
プールサイドの一画に設置された、保温室の中で玲は加集と二人きりで水で冷えた身体を温めていたとき。
保温室はサウナのような密閉された空間だ。
ーー城ヶ崎海岸?
ーー伊豆の方だよ。来週、友達二人とドライブしに行くんだけど男ばっかじゃつまらないから、玲ちゃんも行かないか?
照れたように話す加集の額には、汗の粒が光っていた。
夕方、玲がスイミングスクールから出ると、薄暗くなった空に小雪がパラついていた。
わあ、寒い!……
マフラーをしっかり結び直しながらも、本当はあまり寒さを感じていなかった。
クロールで25m以上泳げるようになった。
加集のバタフライを見た。
親しく話すこともできた。
それだけではない。
男の子たちと遊びにいく約束をした。
玲はこれからの自分の人生が、バラ色に光り輝く予感がした。