バージニティVirginity
若くしてカナダに渡った加集。
非業な死を遂げたけれど、彼の人生は短くとも人の何倍も濃く充実したものであったに違いない。
それにしても、運命とは無情なものだ。
この世を去るのに36歳と言う年齢はあまりにも若過ぎる。
「神様っていないんですね…」
玲はすすり泣きながら、頬の涙を指先で拭った。
ーーありがとうございます…
加集さんの事を聞けて良かったです。
玲は二人の男たちに礼を言って、道場を後にした。
身体がふらついていた。
自分がここに存在する気がしない。
ただ、足が勝手に動いている。
ビルの階段を降りていて、あと一段という時、玲の足は階段を踏み外した。
「あっ!」
ガクッと足元から崩れ落ち、玲は一階の踊り場のマットに膝をついた。
弾みでバッグが手から離れ、中の化粧ポーチや手帳や財布があたりに散乱した。
「嫌だ……」
座り込んだまま、呆然とつぶやいた時、今まで必死に押さえていた悲しみが、大きな波のようになって、どうしようもなく襲ってきた。
嗚咽が込み上げてくる。
「や…嫌だよぅ…加集さん…
死んじゃうなんて嫌ぁ…嘘だよねぇ…?」
玲は身も世もなく、声を上げて泣き始めた。
涙が床に敷かれたグレーの泥除けマットの上に落ち、次々にシミを作った。
(誰かが来てしまうかもしれない……)
そう思ったが、玲の慟哭は止まらなかった。
加集の死を知った玲は、その日から大きな喪失感に苛まれた。
寝た男より、寝なかった男の方が後からドラマを作りやすい。
あまりにも美化してしまう。
加集がカナダに行くことがなければ、玲と加集は恋人同士になっていたかもしれない。
少しのボタンのかけ違いで、運命は大きく変わってしまう。
かけ違うのは、自分自身の選択のせいだ。
玲は加集を追わなかった。
夢を追う加集に付いて行くことが出来なかった。
玲の中で25歳だった加集の笑顔、加集の声、言った言葉が次々に蘇る。
ーー玲ちゃんは男を見る目なさそうだから、離婚するかもな。
ーー玲ちゃん、自分自身を大事にしな。
ーー簡単に身体許しちゃ駄目だよ……
昔、加集が何気なく玲に言った言葉。
十四年経った今、それは見事に玲への訓示となっていた。
もう一度、加集に逢いたい。
ハガキの返信を出さなかったことを謝りたい……
そして、夫を裏切ってしまった自分がどうすればいいのかを聞きたかった。
加集との出会いは、今となっては一期一会となり、会うことが叶うのは、夢でしか出来なくなってしまった。