遠い日の夢の中で
二人の桜
高校一年の春だったろうか。僕は不思議な体験をした。
それは僕の好きな近所にある桜の木にまつわる出来事である。
僕は何かあると必ずと言っていいほど、その桜の木の下に行くのだった。
春はもちろん花満開で僕の心は華やかになる。花が散る時は散る様に美を感じる。
夏は万緑の中で生命の息吹きを感じ、元気になる。
秋は色づいた桜の葉が温かく僕を包み込んでくれる。
冬は花も葉っぱもない幹が寂しく立っているように思うだろう。でも、僕はその大きな桜の木の中に宿る命の温もりを感じるのだった。
だから、僕は季節を通してこの大きな桜の木に親しみを持っていた。
あの出来事は春、桜の花が満開であった頃だ。
僕はこの春、高校の入学式を控えていた。そんな入学式前日の夜、些細なことで母と喧嘩になった。今はなんのことで喧嘩になったのかあまり覚えてないが、おそらくこの頃の僕は親を毛嫌いしてまともに口を利かなかったせいだと思う。
夕飯中に僕は家を脱け出して、チャリを漕いで近くの河川敷にある桜の木の下に向かった。今日の夕飯は遅く、夜の八時を回っていたため外はすっかり暗くなっていた。とは言っても昔じゃないから電灯の明かりが至るところにあって自転車を漕ぐには十分明るかった。
しかし、どうも様子が違うのである。いつもと同じ道を通っているはずだが、桜の木に向かえば向かうほど、電灯が減っていくようだった。
これはいったいどういうことだろうか……。
やがて、なんとかいつもの桜の木の下までたどり着いた。いつもは電灯でライトアップされているはずの夜桜だったが、今夜は月明かりに照らされていつもとは少し趣の違った桜の木が立っていたのである。
郊外に住んでいる人は僕も含めてこんなことはありえないと思うだろう。
しかし、意外と月の明かりというのは明るいものだった。電灯のない江戸時代の人が夜桜見物をする気持ちがよくわかった。
むしろ、電灯がない方が幻想的で夢の中にいるような気分になれた。
そして、美しい。
そんな、僕の横にいつの間にか着物を着た女が立っていた。
「こんばんは」
おそらく年恰好は僕と変わらないようだ。さきに声をかけてきたのは警戒心を解くためだろう。そして、僕も挨拶を返した。
「こんばんは」
しかし、次の言葉を言い残してその場からすっと消えてしまったのである。
「いつの時代になってもこの桜は私たち人間を見守っていてくれます。季節ごとに様々な姿を見せて私たちをずっとここから見ていてくれます。だから、あなたも死ぬまで何かあるごとにこの桜の木の下に来て下さい。きっと、これからもあなたにいいことがありますよ」
僕は目の前にいる女がそう言い残して消えてしまったので驚いてもと来た道を急いだ。さっきと違い、道には電灯が点っていて普通に帰ることができた。
家に帰ると母がダイニングテーブルの椅子に小さくなって座っていた。
「さっきは、悪かったわね。母さん、慧にちょっと言い過ぎちゃたみたい」
次の日の朝、入学式早々僕は女の子に声をかけられた。人生において、こんなことは初めてだった。イマイチさえない僕が初日から声をかけられるなんて。しかも異性からである。
僕が廊下の窓から外をぼんやり眺めている時だった。
「何、見てるの?」
「ん、外」
「外だったら、上を見るといいよ。雲」
「雲か、確かに雲はいつも違う形を見せるもんね」
僕は、緊張していたせいかありきたりのことしか言えなかった。つまらない男だと思うだろうな。しかし、彼女は僕の顔を見ると笑顔になって言った。
「私、羽月桜子。よろしくね」
「俺、早川慧」
「サトシくんか。いい名前だね。漢字は?」
「あぁ、彗星の彗みたいな字に下が心」
「もしかして、下心ある?なんちゃって」
僕はその笑顔にやられた。その場で告白とまではいかなくても、アドレス交換ぐらいしておけばよかったが、その一歩が踏み出せなかった。
だが、翌日からその子は来なかった。僕はその子のクラスが知らなかったので、職員室に行って担任に聞いてみた。
すぐに、担任は名簿を調べてくれたがどこにも羽月桜子という名の生徒は見当たらなかった。
やっぱり、僕の幻覚だったのか。
もやもやする気持ちのまま放課後になり、僕はいつもの桜の木の下に行った。
僕は満開の桜が風に揺られていく様を見ていた。頭の中にあの晩に会った女と羽月桜子の顔を同時に思い浮かべていた。
あの二人はなぜ僕のもとに現れ、去っていったのだろうか。釈然としない気持ちが僕の心を渦巻いていた。しかし、桜を眺めているうちにその気持ちがすっと消えていった。
僕は最後に桜の木の幹に手を当てて「じゃあ帰るね」と言った。
自転車を跨ぐ時に「ありがとう」という声が聞こえたような気がした。
あれから僕は大人になって、普通に働いているが今でも時々桜の木の下に行く。そして、羽月桜子とその前日の夜に会った二人の女のことを思い出す。あの声と姿は同一人物としか思えなかった。
しかし、僕が羽月桜子に抱いた気持ちは今でも色褪せない。
あれ以来、会っていないけれどまだこの街のどこかであの日と変わらない笑顔でいる気がする。僕は思う。いつかまた会える日まで……。
そして、会うことができたら今度こそ僕の思いを伝えたい。
それは僕の好きな近所にある桜の木にまつわる出来事である。
僕は何かあると必ずと言っていいほど、その桜の木の下に行くのだった。
春はもちろん花満開で僕の心は華やかになる。花が散る時は散る様に美を感じる。
夏は万緑の中で生命の息吹きを感じ、元気になる。
秋は色づいた桜の葉が温かく僕を包み込んでくれる。
冬は花も葉っぱもない幹が寂しく立っているように思うだろう。でも、僕はその大きな桜の木の中に宿る命の温もりを感じるのだった。
だから、僕は季節を通してこの大きな桜の木に親しみを持っていた。
あの出来事は春、桜の花が満開であった頃だ。
僕はこの春、高校の入学式を控えていた。そんな入学式前日の夜、些細なことで母と喧嘩になった。今はなんのことで喧嘩になったのかあまり覚えてないが、おそらくこの頃の僕は親を毛嫌いしてまともに口を利かなかったせいだと思う。
夕飯中に僕は家を脱け出して、チャリを漕いで近くの河川敷にある桜の木の下に向かった。今日の夕飯は遅く、夜の八時を回っていたため外はすっかり暗くなっていた。とは言っても昔じゃないから電灯の明かりが至るところにあって自転車を漕ぐには十分明るかった。
しかし、どうも様子が違うのである。いつもと同じ道を通っているはずだが、桜の木に向かえば向かうほど、電灯が減っていくようだった。
これはいったいどういうことだろうか……。
やがて、なんとかいつもの桜の木の下までたどり着いた。いつもは電灯でライトアップされているはずの夜桜だったが、今夜は月明かりに照らされていつもとは少し趣の違った桜の木が立っていたのである。
郊外に住んでいる人は僕も含めてこんなことはありえないと思うだろう。
しかし、意外と月の明かりというのは明るいものだった。電灯のない江戸時代の人が夜桜見物をする気持ちがよくわかった。
むしろ、電灯がない方が幻想的で夢の中にいるような気分になれた。
そして、美しい。
そんな、僕の横にいつの間にか着物を着た女が立っていた。
「こんばんは」
おそらく年恰好は僕と変わらないようだ。さきに声をかけてきたのは警戒心を解くためだろう。そして、僕も挨拶を返した。
「こんばんは」
しかし、次の言葉を言い残してその場からすっと消えてしまったのである。
「いつの時代になってもこの桜は私たち人間を見守っていてくれます。季節ごとに様々な姿を見せて私たちをずっとここから見ていてくれます。だから、あなたも死ぬまで何かあるごとにこの桜の木の下に来て下さい。きっと、これからもあなたにいいことがありますよ」
僕は目の前にいる女がそう言い残して消えてしまったので驚いてもと来た道を急いだ。さっきと違い、道には電灯が点っていて普通に帰ることができた。
家に帰ると母がダイニングテーブルの椅子に小さくなって座っていた。
「さっきは、悪かったわね。母さん、慧にちょっと言い過ぎちゃたみたい」
次の日の朝、入学式早々僕は女の子に声をかけられた。人生において、こんなことは初めてだった。イマイチさえない僕が初日から声をかけられるなんて。しかも異性からである。
僕が廊下の窓から外をぼんやり眺めている時だった。
「何、見てるの?」
「ん、外」
「外だったら、上を見るといいよ。雲」
「雲か、確かに雲はいつも違う形を見せるもんね」
僕は、緊張していたせいかありきたりのことしか言えなかった。つまらない男だと思うだろうな。しかし、彼女は僕の顔を見ると笑顔になって言った。
「私、羽月桜子。よろしくね」
「俺、早川慧」
「サトシくんか。いい名前だね。漢字は?」
「あぁ、彗星の彗みたいな字に下が心」
「もしかして、下心ある?なんちゃって」
僕はその笑顔にやられた。その場で告白とまではいかなくても、アドレス交換ぐらいしておけばよかったが、その一歩が踏み出せなかった。
だが、翌日からその子は来なかった。僕はその子のクラスが知らなかったので、職員室に行って担任に聞いてみた。
すぐに、担任は名簿を調べてくれたがどこにも羽月桜子という名の生徒は見当たらなかった。
やっぱり、僕の幻覚だったのか。
もやもやする気持ちのまま放課後になり、僕はいつもの桜の木の下に行った。
僕は満開の桜が風に揺られていく様を見ていた。頭の中にあの晩に会った女と羽月桜子の顔を同時に思い浮かべていた。
あの二人はなぜ僕のもとに現れ、去っていったのだろうか。釈然としない気持ちが僕の心を渦巻いていた。しかし、桜を眺めているうちにその気持ちがすっと消えていった。
僕は最後に桜の木の幹に手を当てて「じゃあ帰るね」と言った。
自転車を跨ぐ時に「ありがとう」という声が聞こえたような気がした。
あれから僕は大人になって、普通に働いているが今でも時々桜の木の下に行く。そして、羽月桜子とその前日の夜に会った二人の女のことを思い出す。あの声と姿は同一人物としか思えなかった。
しかし、僕が羽月桜子に抱いた気持ちは今でも色褪せない。
あれ以来、会っていないけれどまだこの街のどこかであの日と変わらない笑顔でいる気がする。僕は思う。いつかまた会える日まで……。
そして、会うことができたら今度こそ僕の思いを伝えたい。