遠い日の夢の中で
遠い日の夢の中で
どういうわけか今、僕は大型の帆船に乗っている。
水夫だろうか。
月の出ていない夜みたいで、服の詳細は確かではないが、よく西洋の映画でみるようなセーラーを着ているのである。ただし、世間の女子生徒が着ている学生服のセーラー服とは違うその元祖というか、原型になった水夫の服である。
どういうわけだか僕は今乗っている船の名前まで覚えていた。いくつもの大洋を曳航する大型の帆船『スターアロー号』。
僕は潮風に当たろうと船縁に立って水しぶきの上がる海水面を見つめていた。潮風にあたろうとしていたぐらいなのだから、それは当然気持ちいいのだろうが、実際はそうではなかった。
海から吹き上げる風は生暖かく、潮がぬらぬらと顔にへばりつくような気持ちの悪い潮風であった。
それからさっきことわっておいたが、月が出ていなかったせいか海水面の様子まではっきり見えなかった。でも、僕はそこに鯨がいることに気づいた。最初はなぜ女の声がするのだろうと思っていたが、話の内容から推してそれはどうやら鯨が僕に語りかける声であったのだった。
その鯨は船縁にいる僕に向かって話しかけてきた。
「トニー、あなたは昔私たちと同じ鯨でした。あなたは私たちとよく一緒に遊んでくれましたね。確か、あなたは鰯の群れを誘き寄せるのが上手かった。でも、決して貪るような真似はしなかった。それどころか、私たちに命の尊さを教えてくれました。あの頃のことを思い出すとなんだか懐かしい気持ちになります。そんなあなたは私よりも先に若くして亡くなりました。私はあなたがいなくなってから悲しくて、悲しくて毎日泣いてばかりいました。ひょっとしたら、人間に生まれ変わったあなたは鯨が泣くなんておとぎ話じゃあるまいしと不思議に思うかもしれません……」
鯨はまだ話している途中であったが、私は何だか可笑しくなって笑ってしまったのである。
「何で笑うのです」
「だって、あまりにも可笑しいから」
「あなたは人間に生まれ変わって、少し心が汚れたみたいですね」
「そんな、大袈裟な」
すると、鯨は次のようなことを言って船から離れるようにして去っていってしまった。
「あなたとせっかく再会できたのに残念です。もうあなたに会うことはないでしょう。さようなら」
翌朝、甲板に出ている同僚の水夫であるトーマスにこの話をした。
「それは、お前の幻覚だ。まぁ、厳密に言うと幻覚と幻聴だな。はっはっはっは。少し、カウンセリングしてもらったらどうだい。きっと、長旅のせいで疲れているんだろう」
(やはり、信じてもらえないか)
僕はこれ以上話しても仕方ないと思い、「あぁ、そうかもしれない。そう言われると君のいう通りだな。全く、船旅も長く続くと不思議なことが起こるものだ」と適当に応えた。
この日の夜、非番だった僕は布団の中で眠られぬ夜を過ごした。あの鯨が話していたことが頭から離れない。その言葉の一部一部が頭の中で反芻し、何度も寝返りを打った。
それが治まったと思ったら、今度は様々な変な夢の世界に導かれ、一つの話が終わるごとに目を覚ました。
そして、それを何度繰り返したものか。気づくと僕は全身に大量の汗をかいていた。タオルで拭いたが顔以外は水に浸かっていて拭けないのである。
そう、僕はいつの間にか真っ暗闇の海の中にひとり取り残されてしまっていたのである。
僕はどうすることもできず、ただ海水面に浮いていた。
そして、また小一時間ほど時が過ぎた。よく耳を澄まして聴いていると、またあの鯨の声がした。
しかし、今度は声の調子が微妙に違うのであった。僕の耳元で囁くのである。
「トニー、 あなたの肩で眠らせて。トニー、愛してるって言って。私たちが出会った頃のように優しい笑顔を見せて」
この声は妻の声だ。アンナだ。
「アンナ!」
目覚めると、朝になっていた。真夏の朝日は目に眩しく、窓辺には白いカーテンが時折吹くやわらかい風に揺れていた。
朝の涼風に当りながら、昨日のことを思い出していた。夕べ、僕は数年前に亡くした妻のことを考えながら、布団に入ったのだった。
「 今日はアンナの命日か……」
水夫だろうか。
月の出ていない夜みたいで、服の詳細は確かではないが、よく西洋の映画でみるようなセーラーを着ているのである。ただし、世間の女子生徒が着ている学生服のセーラー服とは違うその元祖というか、原型になった水夫の服である。
どういうわけだか僕は今乗っている船の名前まで覚えていた。いくつもの大洋を曳航する大型の帆船『スターアロー号』。
僕は潮風に当たろうと船縁に立って水しぶきの上がる海水面を見つめていた。潮風にあたろうとしていたぐらいなのだから、それは当然気持ちいいのだろうが、実際はそうではなかった。
海から吹き上げる風は生暖かく、潮がぬらぬらと顔にへばりつくような気持ちの悪い潮風であった。
それからさっきことわっておいたが、月が出ていなかったせいか海水面の様子まではっきり見えなかった。でも、僕はそこに鯨がいることに気づいた。最初はなぜ女の声がするのだろうと思っていたが、話の内容から推してそれはどうやら鯨が僕に語りかける声であったのだった。
その鯨は船縁にいる僕に向かって話しかけてきた。
「トニー、あなたは昔私たちと同じ鯨でした。あなたは私たちとよく一緒に遊んでくれましたね。確か、あなたは鰯の群れを誘き寄せるのが上手かった。でも、決して貪るような真似はしなかった。それどころか、私たちに命の尊さを教えてくれました。あの頃のことを思い出すとなんだか懐かしい気持ちになります。そんなあなたは私よりも先に若くして亡くなりました。私はあなたがいなくなってから悲しくて、悲しくて毎日泣いてばかりいました。ひょっとしたら、人間に生まれ変わったあなたは鯨が泣くなんておとぎ話じゃあるまいしと不思議に思うかもしれません……」
鯨はまだ話している途中であったが、私は何だか可笑しくなって笑ってしまったのである。
「何で笑うのです」
「だって、あまりにも可笑しいから」
「あなたは人間に生まれ変わって、少し心が汚れたみたいですね」
「そんな、大袈裟な」
すると、鯨は次のようなことを言って船から離れるようにして去っていってしまった。
「あなたとせっかく再会できたのに残念です。もうあなたに会うことはないでしょう。さようなら」
翌朝、甲板に出ている同僚の水夫であるトーマスにこの話をした。
「それは、お前の幻覚だ。まぁ、厳密に言うと幻覚と幻聴だな。はっはっはっは。少し、カウンセリングしてもらったらどうだい。きっと、長旅のせいで疲れているんだろう」
(やはり、信じてもらえないか)
僕はこれ以上話しても仕方ないと思い、「あぁ、そうかもしれない。そう言われると君のいう通りだな。全く、船旅も長く続くと不思議なことが起こるものだ」と適当に応えた。
この日の夜、非番だった僕は布団の中で眠られぬ夜を過ごした。あの鯨が話していたことが頭から離れない。その言葉の一部一部が頭の中で反芻し、何度も寝返りを打った。
それが治まったと思ったら、今度は様々な変な夢の世界に導かれ、一つの話が終わるごとに目を覚ました。
そして、それを何度繰り返したものか。気づくと僕は全身に大量の汗をかいていた。タオルで拭いたが顔以外は水に浸かっていて拭けないのである。
そう、僕はいつの間にか真っ暗闇の海の中にひとり取り残されてしまっていたのである。
僕はどうすることもできず、ただ海水面に浮いていた。
そして、また小一時間ほど時が過ぎた。よく耳を澄まして聴いていると、またあの鯨の声がした。
しかし、今度は声の調子が微妙に違うのであった。僕の耳元で囁くのである。
「トニー、 あなたの肩で眠らせて。トニー、愛してるって言って。私たちが出会った頃のように優しい笑顔を見せて」
この声は妻の声だ。アンナだ。
「アンナ!」
目覚めると、朝になっていた。真夏の朝日は目に眩しく、窓辺には白いカーテンが時折吹くやわらかい風に揺れていた。
朝の涼風に当りながら、昨日のことを思い出していた。夕べ、僕は数年前に亡くした妻のことを考えながら、布団に入ったのだった。
「 今日はアンナの命日か……」