アネモネの丘
日常
「花楓ー!」
自室の窓辺の椅子に腰かけて遠くに見える丘を眺めていると、エマさんに呼ばれた。エマさんをお母さんと呼ばないのは、元の世界にも親はいてややこしいから呼ばなくていいといわれたからだ。その時、ディルクさんが大層残念な顔をしていたのは今でも笑い話として出てくる。
「今いくー」
私は髪を一つに結うと、机の引き出しの中にある薄汚れたハンカチを手にとった。
猫の刺繍がしてあるピンクのハンカチ。端っこに≪花楓≫と名前が書いてある。これが唯一の私と元の世界をつなぐもの。毎朝このハンカチを手に取るのが私の日課。忘れないために。
私はハンカチを片づけると、鞄を持ってエマさんのところに向かった。
キッチンに入るとすでにエマさんが朝食を作ってくれていた。おいしそうな匂い。エマさんの料理は王都一だと思う。
「おはよう、エマさん」
「おはよう花楓。ご飯食べてね」
私はテーブルに着くと、エマさん手作りのパンをほおばった。焼きたてはやっぱりおいしい。いっつもこんなおいしいものが食べられて私は幸せ者だといつも思う。
「今日も忙しいの?」
お客さん用の朝食を作っているエマさんに話しかけると、器用に野菜を切りながら私の方を向いた。
「うーんまあまあかな。来週は城で舞踏会があるから忙しくなるだろうけどね」
「あーあの誰でも参加していい仮面舞踏会ね」
年に一度レイティス王国とブルク公国・ヒアス公国・レチェル公国の三公国の十六歳以上の独身男女が参加する舞踏会が開かれる。ちなみに、私は行ったことがない。遠方から王都に来る人も多くて宿屋も忙しくなるから、いつも手伝いで忙しい。
それに、正直行くのも面倒。着飾るのも面倒。そんなことしているくらいなら手伝ってた方が私はいい。
去年、学校の友達でこの国の王女のルチアに去年誘われたけど断った。
「花楓、行きたいのなら行っていいのよ?」
「別にいいよ。私は手伝っていた方が楽しいし」
行きたいと思ったことなんてないから行かなくてもいい。行くくらいなら手伝いをした方が楽しい。