ため息と明日
伊澤さんは、落ち着いた和食のお店を予約してくれていた。
カウンターにも少し先はあるようだが、そこには数席のみで、後の奥に続く部屋はすべて個室だった。
内装もとても綺麗で、洗練された和風モダンな造りだ。
シックな黒を基調とし、石畳の道に花々も折々見え隠れする。
暖かな灯りがそれぞれの部屋の前に灯っており、中庭の池と灯篭に幻想的な風景を装っていた。
案内された個室は、窓から近くのベイエリアが美しく光って見える。
「とっても綺麗ですね。こんなところ初めて来ました」
眺める景色に思わず言葉が溢れると、それは良かった、と彼は穏やかに微笑む。
せっかく金曜だからとお酒も勧められた。
そこそこ飲めるたちではあるが、失礼にならないように、軽めの果実酒を頼んだ。
お酒が運ばれてくると、「とりあえず、お疲れ様」と互いにグラスを合わせる。
伊澤さんは、ごく自然に、話題を振ってくれ、私の話にも丁寧に耳を傾けてくれた。
食事も堅苦しくなさ過ぎず、オシャレで優雅なとても美味しい料理ばかりだった。
なぜ普段、こんなにも優しくて明るい人を敢えて遠ざけていたんだろう。
自分に対してちょっと勿体なかったかもしれないと思いながらも、楽しい会話が時間を潤していった。
デザートが運ばれてきて、少し改まった伊澤さん。
今日の食事を誘ってくれた時と同じ眼で、真っ直ぐ私を見ている。
いきなり言われてもと思うかもしれないけれど、と前置きを挟んだ彼から思いがけない言葉をもらった。
「アヤキとはもう10年近く、仕事で一緒にやってこれて、本当に感謝しているんだ」
普段こうして、二人でゆっくり話すこともないゆえに、驚きとともにとても不思議な思いだった。
「新入社員で入ってきて、公園のベンチで泣いてた君の姿を見たとき、こんな風に頑張っている子に対して、会社を絶望的な存在で終わらせたくないって思った。自分も恥ずかしくない先輩でありたいって、そう思ったんだ」
あの頃、なんだか会社での自分の立ち位置がよく分からなくなっていたんだけど、目の前のことを一つ一つクリアにして、何か出来ることを増やしていく喜びを入りたての時は感じていたことを思い出した。
アヤキを見て、もう一回自分も頑張らないとってそう思えたんだ。
だから、頑張れたのはアヤキのお陰なんだ、と。
「アヤキはとっても努力家で、泣き言も言わずに直向きに仕事と向き合って、そんな風にどんどん成長していく君が、俺にはすごく眩しく見えたよ。」
昔に思いを馳せながら、噛みしめるように話す彼の顔を見て、私は夢を見ているような心地がした。
「誰に対しても誠実に、決して投げ出さずに最後まで真剣に向き合う、そんな君の強さと、人としての優しさに惹かれたんだ。」
その瞬間、はっと鼓動が動いた。
この人は今、なんて…
「ずっと…君が好きだった。一人の女性として。俺は、君を守りたい」
あまりにも驚き過ぎて、声が出せない。
真っ直ぐに私の瞳を捉えるその表情に、息をすることを忘れるほどに…
「突然で驚いたとは思うけど… 仁科 彩希さん、
僕と結婚を前提に付き合ってもらえませんか。
ずっと、あなたを大切にします。」
力強く彼が告げた、なんだかプロポーズにも聞こえるような台詞に、鼻の奥がツンとした。
私のようなツマラナイ人間に、もうゾロ目の33歳の若くない女に、そんな風に言ってくれる男性がこの先いるだろうか。
ましてや、彼のような人として尊敬できる素晴らしい人に、出逢えるのだろうか。
私は…彼を、好きになってもいいのだろうか。
知らぬ間に目から流れていた涙を、彼が身を乗り出して、困ったような笑みを携え、大きな手の親指で溢れる涙を優しく拭ってくれた。
「あの、、、わた、し…」
言葉に詰まって、上手く話せなくとも、彼は優しい相槌を打ち、待っていてくれる。
伊澤さんのことは、ずっと遠い存在だと思っていた。
憧れの人だった。
私は伊澤さんのようにはなれないけど、伊澤さんに救ってもらったあの日があったから、ここまでこれたのだと、拙い言葉で彼に伝えた。
本当は、伊澤さんに認めて欲しかった。
近付かないように気を張っていた自分にも気付いていた。
他の女の子みたいに素直になれなかったし、なにより私は仕事でしか伊澤さんに恩返しができなかったから、ひたすらにやってきた。
だから、、、
「何にもないんです。本当に…伊澤さんが思うような、女性じゃないんです。優しくないし、仕事しかなくて振られるし、それでも未練がましく元彼のことを引きずってる30過ぎた全然ダメな人間なんです」
本当のことを話さないといけないと思った。
智樹のことも、自分の醜さも。
伊澤さんにそこまで言ってもらえたことに対して、嘘を吐いてはいけないと思った。
すると、伊澤さんはそっと私の手を握って
「そんな風に言わないで。君は俺にとって一番大切な人だよ。俺はアヤキの心を丸ごと受け止めたい。元彼のことも…今は無理に忘れなくていい。それでも俺は、君と一緒に居たい。俺じゃだめかな?」
それでも、いいのかな?
神さまは、許してくれる...?
「いい歳した男が、こんな必死になってみっともないよね。でも君以上に好きになれる女性はもう二度といない。
自分で言うのもなんだけど、ギャンブルや借金もないし、タバコも吸わないから健康。他にも君が悲しむようなことは絶対しない。
だから、どうか俺の彼女になってください。」
昔、彼氏になる人の条件は?と一度だけ伊澤さんに聞かれたことを思い出す。
その時の私は…
『ギャンブル、借金、タバコなし。ははずせないですね〜』
笑いながら言った何気ない一言...
もしかして、覚えてる?
この人にこんなに深く想われていた。
心から嬉しかった。
きっと顔がぐちゃぐちゃになっているだろう。
それでも伝えずにはいられない。
「私で良ければ…よろしく、お願いします」
三十路を過ぎたただの女が、泣きながら伝えた時の彼のはじけるような笑顔を、私は、生涯忘れないだろう。