執事ちゃんの恋
「あがっておいで」
いつもの返事が聞こえたところでヒヨリは口角をグイッとあげて草履を脱ぐ。
ギシギシと音がなる廊下。黒光りしているその廊下は、きっと今までの住人が磨き上げてきた証拠だ。
しかしながら、今現在の家主はこの廊下をせっせと掃除しているかは謎だ。
ただ、いつもキレイなところを見るとハウスキーパーを雇っているのだろうか。
こんな山奥にまで仕事に来てくれるハウスキーパーがいるのだろうか。
ヒヨリは、感じた疑問を抱きながら長く続く廊下を歩いていく。
「……また、こんなところで寝てる」
この家の家主である健は、本を枕代わりにしてひなたぼっこを楽しんでいた。
寝転がっている健を、呆れた顔をして見下ろすヒヨリ。
彼女をチラリと見て、健は苦笑した。
「おじさんは疲れるんですよ。ヒヨリみたいに若さいっぱいって年でもないからね」
「その発言、ますますオヤジ化が進んじゃっている気がするよ? 健せんせ」
縁側に座り、足をブラブラとさせながら苦言を言うヒヨリを、健は眩しそうに見た。
鈴木 健(すずき たける)。
ヒヨリの記憶が正しければ、御年35歳。ヒヨリより15歳も年が離れている。
スラリとした容姿に、甘いマスク。
そして年々磨かれていく渋さにクラリと眩暈さえも覚える女も多いことだろう。
健は、この人里離れた茶畑にある古民家で10年前から住み始めた。
有名な画家らしいのだが、ヒヨリにしたら絵画についての趣味も知識もないので、どれほど有名な画家なのかわからない。
なんでも、時おり個展なども開かれるということで定期的に上京をしている。
フラリとひと月ほど家を空けることもあって、風のような人だとヒヨリは思う。
そんな健のことを10年前から好きで想いをずっと内緒で抱えている。
年の問題もあって、なかなか好きだと切り出せずにいた。
健からみたら、20歳前の女なんて子供も同様だろう。
それに、この友達のような距離をいまさら変えることはできない。
怖いのだ。
この関係が崩れ去ることが。
この閉塞された土地で、顔を合わさず生活するなんて無理な話しだから。
と、なれば失恋した痛みを抱えながら、笑顔で何事もなかったように過ごさなくてはならないということだ。
――― そんなの無理。絶対に無理だ。それに……。
ヒヨリは健に見つからないように小さくため息をついた。
年齢や、これまでの関係以外にもヒヨリの心を雁字搦めにする理由がある。
それは目の前の健にも絶対に言えない家の秘密。
絶対に誰にも言えない。
ヒヨリは痛む心を隠して、いつものように健に笑顔を向けた。