執事ちゃんの恋
「なんで逃げるの?」
「えっと……」
「ここはヒヨリの部屋だよね?」
「そうですよ。なのに、なんで健せんせがいるの?」
そうだ、とヒヨリは思い直す。
ここはヒヨリの父である宗徳が、男のヒナタとして偽り続けているヒヨリの苦労を思い、「リラックスできる空間を」ということで用意してくれたマンションの一室。
そこに健がいるというのが、まずおかしい。
そして、シャワーを浴びて当然のようにこの空間にいること自体もおかしい。
「ってか健せんせ。どうやってここに入ったの?」
このマンションの存在は誰にも知られていないはず。
知っているのは、このマンションを用意してくれた宗徳、使用人頭のヨネしか知らないはずだ。
ヒヨリは強気で健に聞くと「ああ」と気の抜けた返事がきた。
「霧島に脅しをかけてね。ここの部屋の鍵を手に入れたんだ」
「お、お、脅しって」
物騒な言葉が健の口から飛び出して、あとずさるヒヨリに健は不敵な笑みを浮かべ一歩近づいた。
「ふふ。コウの執事をしているのは本当はヒヨリのほうだって兄さんに言ってやるぞってね」
「う、うわぁー悪党」
ヒヨリが顔を歪めて言うと、健はクスクスと楽しげに笑う。
その表情は本当に悪党のようで、ヒヨリはますます眉を顰めた。
文月家当主の弟である健にそんな脅しを言われたら……主従関係の霧島家が強気に出られるわけがない。
まったくいい性格をしている、とヒヨリは肩を竦めた。
一方の健はというと、ヒヨリを自分の腕の中に誘いこみ満足げだ。
「ということで、ヒヨリ」
「はい?」
「このマンションにいる間は、女のヒヨリに戻って」
「な、なにを……言って?」
口ごたえをする前に、ヒヨリはソファに押し倒されていた。
吃驚して口をパクパクするだけのヒヨリを見て、健は楽しげだ。
「この空間にいるときは、ヒナタじゃなくてヒヨリですよ」
「健せんせ?」
「言ったはずですよ、ヒヨリ。執事の格好をしているときは邪魔はしないと。しかし今は違いますよね?」
「っ!?」
スッとTシャツの裾から健の指が入ってきた。
そしてヒヨリのわき腹をゆっくりと指でなぞる。
くすぐったい感覚と、官能的な感覚。
健の指によって両方の感覚がヒヨリに襲いかかる。
「かわいい、ヒヨリ。今は私だけのヒヨリになってください」
「健……せんせ」
いいですね、とヒヨリの返事も聞かず、健はヒヨリの服を脱がしていく。
甘い言葉とキスで、ヒヨリの身体はすでに言うことを聞いてくれない。
頭の片隅に、健の好きな人のことが過ぎったヒヨリだったが打ち消すように健から仕掛けられたキスに夢中になる。
――― 今だけ。今だけ私だけの健せんせでいて。
恋は盲目。
好きな人の手を離したくない。
でも、今ここにいる大好きな人の心は別のところにあるだなんて……。
それなのに、私はこの人に抱かれるの?
いけないとは思っても、心は正直だ。
健の甘い言葉を鵜呑みにしたくなる。
――― 今だけ。今だけだから。
ヒヨリは、健の背中に腕を回した。