HAPPY CLOVER 2-ないしょの関係-
予備校とケータイの件を父に掛け合ってみたところ、三十分ほどお小言を頂戴したが、案外あっさりと承諾を得ることができた。ものすごく勇気を出して口にしたのだが、父にきちんと理解してもらえてホッとした。何より「舞ももう自分で考えて行動できる年齢だと思っている」と私自身を認めてもらえたのが嬉しい。
しかし翌日、あまりの嬉しさに鼻歌が出そうなウキウキした気分で登校した私を待ち受けていたのは、かなり残酷な現実だった。
学校に到着し、教室へ向かう階段を上っていると、部活動の朝練習を終えたサッカー部の男子が私を追い越して駆け上がっていった。運動部独特の汗のにおいがして一瞬顔をしかめたが、彼らが通り過ぎると何もなかったように階段はシンと静まり返った。
でも階段を上りきった私の耳にこんな声が聞こえてきて、また顔をしかめる。
「おい、なんかこのへん、におわない?」
「そう言われると、なんか臭いな。なんだ、このにおい?」
「何かが腐ったようなにおい?」
ウチのクラスの前でサッカー部の田中くんと菅原くんが二人してしきりに鼻をクンクンさせながら話していた。その様子を遠くから見るとかなり笑えるのだが、私は表情を変えないようにして教室へと向かう。
「ロッカーの中か?」
「……かもな」
近づいていくと二人はますます鼻をひくひくさせてにおいの元を探索していた。その場所を見て私は「あれ?」と思う。
昨日破壊された私のロッカーの扉は、清水くんが昼休みに再度直してくれて、鍵はかかるようになったのだけど、下端に少しだけ隙間が残ってしまった。でもどうにか指が入る程度の隙間なので、ロッカー内のものを盗むことは不可能なはずだ。
ここまで直してもらえたら私は何の文句もない。そう思って昨日は大満足で下校したのだ。
しかし、田中くんと菅原くんは明らかに私のロッカーの前で鼻を寄せ合っている。
「……近いな」
「間違いない。このへんだ」
私が廊下にいることに先に気がついたのは菅原くんだった。
「おはよう、高橋さん」
「お、高橋さん。ちょっとこっち来てよ。なんかここにおわない?」
田中くんはそこが私のロッカー前だと気がついていないような気軽さで、私を手招きした。私が気まずい顔で硬直しているのを、菅原くんは眉をひそめて観察している。
「おはよー。どうしたの、みんな? 私のロッカー、開けたいんだけど」
そこに教室からひょいと顔を覗かせたのは高梨さんだった。ロッカーの順序は出席番号順なので、私の上は高梨さんのロッカーなのだ。
「高梨。お前もちょっとこっち来て、においを嗅いでみろよ」
「におい?」
三つ編みにしたおさげを揺らして高梨さんは廊下にやって来た。今度は三人で鼻をクンクンさせる。
すぐに高梨さんは鼻を指でつまみ、顔を思い切り歪めた。
「うっ……。アニキ、これはにおいますぜ」
「ふざけてる場合じゃねぇよ。お前のロッカーじゃねぇの?」
菅原くんが高梨さんの頭を小突きながら言うと、高梨さんは慌てて自分のロッカーを開ける。
「見たところ、何もない。あるとすれば……最近ジャージを洗っていない、とか」
「お前、持って帰って洗え! 女のクセにどういう神経してるんだ!」
「そんなこと言ったって荷物になるし面倒なんだもん。それに持って帰ったら家に忘れてくるかもしれないしー」
菅原くんと高梨さんが言い合っている間、田中くんはまだ自身の鼻探知機でにおいの元を探っていた。
「いや、高梨じゃねぇな」
やけにきっぱりとした田中くんの声に、私は立ちすくんだまま自分の顔が青ざめていくのがはっきりとわかった。
「私のロッカー、かな?」
言いながら私は三人のもとへ近づいた。そして注目を集める中、鍵を取り出して自分のロッカーを開けてみる。手が震えてすんなりとはいかないが、ガチャリと音がして鍵が外れた。
ポトッ。
扉を手前に引っ張った途端、小さなポリ袋が床に落ちる。
「な、なんだこれ?」
田中くんが真っ先に声を上げた。私たちはポリ袋をじっと見つめる。周囲には刺激的な腐敗臭がかなりの勢いで漂い始めた。
「くっせぇー! 何かが腐ってる!」
私を含めたポリ袋を囲む四人は一斉に鼻をつまんだ。そしてじりじりと後退りする。
登校してきて廊下を通りかかった人だけでなく、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが集まり始めた。
「え、イタズラなの? なにこれ、くっさーい!」
同じクラスの女子グループが教室の戸口でこちらを見ながら冷やかすように大声で言う。
そちらに視線をやると、一瞬、西さんと目が合った。彼女は何食わぬ顔ですぐに教室内に消える。
「どうする? このままにはしておけないよな」
菅原くんが田中くんに話しかけた。その間にも思わず顔をしかめたくなる腐敗臭は空気を汚染し、クラスの前には人だかりが増え続けている。
私は意を決して片手で鼻をつまんだまま、空いている手でそのポリ袋を拾おうと屈んだ。
だが、つかもうと思った瞬間、別の手がポリ袋に伸びる。
「これ、刺身だな」
私は自分と同じように屈んでいる隣の人物の顔をおそるおそる見た。その間も彼は口が開いたままのポリ袋の中身を探っている。
「昨日の昼に寿司を買って、放課後にでも高橋さんのロッカーにできた隙間から忍び込ませておいたってところか? わざわざ手の込んだことを……」
呆れたようにも、感心しているようにも受け取れる嘆息を漏らして、彼は身を起こした。拾い上げたポリ袋の口をくるくると捻り、最後にギュッと縛る。
そして周りを見渡した。
「それで何がしたいわけ?」
シーンとなった廊下で誰かが堪え切れないように「プッ」と笑う。
「清水、誰に向かって言ってるんだよ。こんな姑息な手を使うヤツが答えるわけねぇだろ!」
菅原くんだった。
廊下にはまたざわざわとした空気が戻ってきて、清水くんは小さくため息をついた。
「ま、そうだけど。でもこんなことしかできないってことは、最初から高橋さんに勝てないと自ら証明しているわけだ」
――え?
私は清水くんを見上げる。彼はこちらを見ると、口角をきゅっと上げて微笑んだ。
「そうだね! そうだよ! 清水くん、たまにはいいこと言うね! キミ、実は頭いいんじゃない?」
突然隣から明るい声がして、高梨さんが「ぎゃはは!」と笑う。そして笑っていたかと思うと急に真剣な顔で言った。
「ホント、こんなことするなんてバカみたい! どんな頭悪いヤツだ、隠れてないで出て来いっつーの!」
彼女は本気で怒っていた。胸に何かがこみ上げてきて、唇を噛んでそれをグッとこらえる。うつむいた私を庇うように、両隣から清水くんと高梨さんがそれぞれ私の肩に手を置いた。
それを契機に野次馬は散り、清水くんはポリ袋を持って立ち去ろうとした。ぼーっとしていた私は慌てて後を追う。
「外のゴミ箱に行くんでしょ? 私が捨ててくる」
チラッと振り返った清水くんは、そのまま何も言わずに前を向き階段を下りる。私もその後をついて行ったが、清水くんの足が速くて急がなくてはならない。
「あっ!」
足がもつれて、身体が宙に浮いた。何が起こったのかわからない。
空白の時間の後、気がつけば清水くんの腕に抱きとめられていた。
遠くで朝のホームルームが始まるチャイムの音が聞こえる。
「危なかった」
「……うん」
それでも私の頭の中はぼんやりとしていた。これは現実の出来事なのだろうか、と頭の片隅で疑問が湧き起こる。
「少し保健室で休んだら?」
私の顔を覗き込む清水くんの顔が近すぎるが、なぜかドキドキしない。彼がガラス一枚を隔てた向こうの世界にいる人みたいに見えた。
「どこも痛くない」
「無理しなくていいのに」
――無理? ……してないのにな。
そんなふうに見えるのかなと思いながら首を横に振った。今の自分がどんな顔をしているのか、よくわからない。ただ顔の筋肉が強張って笑うのは難しい気がする。
しかし翌日、あまりの嬉しさに鼻歌が出そうなウキウキした気分で登校した私を待ち受けていたのは、かなり残酷な現実だった。
学校に到着し、教室へ向かう階段を上っていると、部活動の朝練習を終えたサッカー部の男子が私を追い越して駆け上がっていった。運動部独特の汗のにおいがして一瞬顔をしかめたが、彼らが通り過ぎると何もなかったように階段はシンと静まり返った。
でも階段を上りきった私の耳にこんな声が聞こえてきて、また顔をしかめる。
「おい、なんかこのへん、におわない?」
「そう言われると、なんか臭いな。なんだ、このにおい?」
「何かが腐ったようなにおい?」
ウチのクラスの前でサッカー部の田中くんと菅原くんが二人してしきりに鼻をクンクンさせながら話していた。その様子を遠くから見るとかなり笑えるのだが、私は表情を変えないようにして教室へと向かう。
「ロッカーの中か?」
「……かもな」
近づいていくと二人はますます鼻をひくひくさせてにおいの元を探索していた。その場所を見て私は「あれ?」と思う。
昨日破壊された私のロッカーの扉は、清水くんが昼休みに再度直してくれて、鍵はかかるようになったのだけど、下端に少しだけ隙間が残ってしまった。でもどうにか指が入る程度の隙間なので、ロッカー内のものを盗むことは不可能なはずだ。
ここまで直してもらえたら私は何の文句もない。そう思って昨日は大満足で下校したのだ。
しかし、田中くんと菅原くんは明らかに私のロッカーの前で鼻を寄せ合っている。
「……近いな」
「間違いない。このへんだ」
私が廊下にいることに先に気がついたのは菅原くんだった。
「おはよう、高橋さん」
「お、高橋さん。ちょっとこっち来てよ。なんかここにおわない?」
田中くんはそこが私のロッカー前だと気がついていないような気軽さで、私を手招きした。私が気まずい顔で硬直しているのを、菅原くんは眉をひそめて観察している。
「おはよー。どうしたの、みんな? 私のロッカー、開けたいんだけど」
そこに教室からひょいと顔を覗かせたのは高梨さんだった。ロッカーの順序は出席番号順なので、私の上は高梨さんのロッカーなのだ。
「高梨。お前もちょっとこっち来て、においを嗅いでみろよ」
「におい?」
三つ編みにしたおさげを揺らして高梨さんは廊下にやって来た。今度は三人で鼻をクンクンさせる。
すぐに高梨さんは鼻を指でつまみ、顔を思い切り歪めた。
「うっ……。アニキ、これはにおいますぜ」
「ふざけてる場合じゃねぇよ。お前のロッカーじゃねぇの?」
菅原くんが高梨さんの頭を小突きながら言うと、高梨さんは慌てて自分のロッカーを開ける。
「見たところ、何もない。あるとすれば……最近ジャージを洗っていない、とか」
「お前、持って帰って洗え! 女のクセにどういう神経してるんだ!」
「そんなこと言ったって荷物になるし面倒なんだもん。それに持って帰ったら家に忘れてくるかもしれないしー」
菅原くんと高梨さんが言い合っている間、田中くんはまだ自身の鼻探知機でにおいの元を探っていた。
「いや、高梨じゃねぇな」
やけにきっぱりとした田中くんの声に、私は立ちすくんだまま自分の顔が青ざめていくのがはっきりとわかった。
「私のロッカー、かな?」
言いながら私は三人のもとへ近づいた。そして注目を集める中、鍵を取り出して自分のロッカーを開けてみる。手が震えてすんなりとはいかないが、ガチャリと音がして鍵が外れた。
ポトッ。
扉を手前に引っ張った途端、小さなポリ袋が床に落ちる。
「な、なんだこれ?」
田中くんが真っ先に声を上げた。私たちはポリ袋をじっと見つめる。周囲には刺激的な腐敗臭がかなりの勢いで漂い始めた。
「くっせぇー! 何かが腐ってる!」
私を含めたポリ袋を囲む四人は一斉に鼻をつまんだ。そしてじりじりと後退りする。
登校してきて廊下を通りかかった人だけでなく、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが集まり始めた。
「え、イタズラなの? なにこれ、くっさーい!」
同じクラスの女子グループが教室の戸口でこちらを見ながら冷やかすように大声で言う。
そちらに視線をやると、一瞬、西さんと目が合った。彼女は何食わぬ顔ですぐに教室内に消える。
「どうする? このままにはしておけないよな」
菅原くんが田中くんに話しかけた。その間にも思わず顔をしかめたくなる腐敗臭は空気を汚染し、クラスの前には人だかりが増え続けている。
私は意を決して片手で鼻をつまんだまま、空いている手でそのポリ袋を拾おうと屈んだ。
だが、つかもうと思った瞬間、別の手がポリ袋に伸びる。
「これ、刺身だな」
私は自分と同じように屈んでいる隣の人物の顔をおそるおそる見た。その間も彼は口が開いたままのポリ袋の中身を探っている。
「昨日の昼に寿司を買って、放課後にでも高橋さんのロッカーにできた隙間から忍び込ませておいたってところか? わざわざ手の込んだことを……」
呆れたようにも、感心しているようにも受け取れる嘆息を漏らして、彼は身を起こした。拾い上げたポリ袋の口をくるくると捻り、最後にギュッと縛る。
そして周りを見渡した。
「それで何がしたいわけ?」
シーンとなった廊下で誰かが堪え切れないように「プッ」と笑う。
「清水、誰に向かって言ってるんだよ。こんな姑息な手を使うヤツが答えるわけねぇだろ!」
菅原くんだった。
廊下にはまたざわざわとした空気が戻ってきて、清水くんは小さくため息をついた。
「ま、そうだけど。でもこんなことしかできないってことは、最初から高橋さんに勝てないと自ら証明しているわけだ」
――え?
私は清水くんを見上げる。彼はこちらを見ると、口角をきゅっと上げて微笑んだ。
「そうだね! そうだよ! 清水くん、たまにはいいこと言うね! キミ、実は頭いいんじゃない?」
突然隣から明るい声がして、高梨さんが「ぎゃはは!」と笑う。そして笑っていたかと思うと急に真剣な顔で言った。
「ホント、こんなことするなんてバカみたい! どんな頭悪いヤツだ、隠れてないで出て来いっつーの!」
彼女は本気で怒っていた。胸に何かがこみ上げてきて、唇を噛んでそれをグッとこらえる。うつむいた私を庇うように、両隣から清水くんと高梨さんがそれぞれ私の肩に手を置いた。
それを契機に野次馬は散り、清水くんはポリ袋を持って立ち去ろうとした。ぼーっとしていた私は慌てて後を追う。
「外のゴミ箱に行くんでしょ? 私が捨ててくる」
チラッと振り返った清水くんは、そのまま何も言わずに前を向き階段を下りる。私もその後をついて行ったが、清水くんの足が速くて急がなくてはならない。
「あっ!」
足がもつれて、身体が宙に浮いた。何が起こったのかわからない。
空白の時間の後、気がつけば清水くんの腕に抱きとめられていた。
遠くで朝のホームルームが始まるチャイムの音が聞こえる。
「危なかった」
「……うん」
それでも私の頭の中はぼんやりとしていた。これは現実の出来事なのだろうか、と頭の片隅で疑問が湧き起こる。
「少し保健室で休んだら?」
私の顔を覗き込む清水くんの顔が近すぎるが、なぜかドキドキしない。彼がガラス一枚を隔てた向こうの世界にいる人みたいに見えた。
「どこも痛くない」
「無理しなくていいのに」
――無理? ……してないのにな。
そんなふうに見えるのかなと思いながら首を横に振った。今の自分がどんな顔をしているのか、よくわからない。ただ顔の筋肉が強張って笑うのは難しい気がする。