HAPPY CLOVER 2-ないしょの関係-
清水くんは私をきちんと立たせると階段の踊り場に落ちているポリ袋を拾い上げ、また階段を下り始めた。今度は私に合わせているのか、ゆっくりと。
「これで完璧にバレたね。たぶん学校中に……」
清水くんの後ろ姿を見ながら、小さくため息をつく。
「なんかもう、どうでもいい。どうせ遅かれ早かれ大変なことになるっていう気はしてたから」
階段を下りきった清水くんは私を振り返った。真面目な顔だ。
「舞、本当に大変なのはこれからだよ」
――これから……。
私の足が勝手に止まる。
「ここで待ってて。走って捨ててくるから。すぐ戻る」
小さく頷いたが、それを見もせずに清水くんは玄関へ走り去った。
何かを考えようと思うが頭が全然働かない。現実に起こっている出来事が、まるで本に描かれている出来事のように実感がないのだ。
もしさっき階段から落ちて、彼が受け止めてくれなかったとしても、痛みなんか感じなかったんじゃないだろうか。
そう思うと突然胸がドキドキした。清水くんの顔が接近しても無反応だったのに、だ。
――試してみようか。
私は階段を踏みしめて上る。
踊り場にたどり着き、振り向いて下を見た。結構な高さがある。
――どうやって落ちてみようか。
――今なら飛び込みみたいに大きくジャンプして頭から落下できるんじゃないだろうか。
そうしたら私はどうなるのだろう。心臓の音が大きくなる。唾を飲むと喉がゴクッと鳴った。
目を閉じて大きく深呼吸する。
思い切って飛び込むポーズを取ったその瞬間、タッタッタッと足音が聞こえたかと思うと、止まった。
――え……!?
「なに……してるの?」
目を開けると階段の下には、もう我慢できないという様子で盛大に吹き出している清水くんがいた。
「そんなところで、そのポーズ?」
気がつけば、私は中腰でお尻を突き出し、両手を後ろに振り上げ、スキージャンプ競技の踏み切り直前のようなスタイルで踊り場の上に佇んでいたのだ。
「こ、これは……ですね」
「うん」
「め、め、瞑想……?」
「ぶーーーっ!!」
清水くんは本気で笑い転げ、しばらくして目尻の涙を拭いながら階段を上がってきた。
「瞑想ってそんなバリエーションがあったんだ」
「そうですよ。何事も極めると奥が深いんです」
意地になって言い張るが、微妙に語尾が丁寧語になってしまい、口から出まかせを言っていることはバレバレだった。その証拠に清水くんは可笑しくて仕方がないという目をしている。
「……っていうか、危ないよ」
「はい。でも急に母の言葉を思い出しました」
私は階段を上りながら、目を閉じた瞬間頭に浮かんだ言葉を復唱する。
「『人間、死ぬ気になればなんでもできる』って」
「へぇ」
隣の清水くんは感心したように頷いた。それから急に私の腕をつかむ。
「俺の見ていないところで変なこと考えない」
「何も考えてないって!」
瞬間的に突っ撥ねる。清水くんは少し考えるような顔をして、私の腕を解放した。
「そっか。舞は瞑想してたんだっけ?」
私は口を尖らせてしきりに首を縦に振る。だけど心の中ではヒヤッとし、話題を変えようと慌てて思考を巡らしていた。……いや、本気で落ちてみようなんて思ってたわけじゃないんだけど。
でもこの悪魔を騙すのは容易ではない。何か言えば言うほどボロが出そうで怖かった。
そんな私を見越したのか、先に清水くんが口を開く。
「ま、幸いもうすぐ夏休みだし、少しは落ち着くと思うけど」
夏休みという言葉で私は急に思い出した。
「あ、あの、私も予備校に行く!」
隣を歩く人の表情が突然ほころんだ。その笑顔を見た途端、身体中がボッと熱くなる。今まで切れていた電源がいきなりONになったような感覚だ。
「楽しみだなぁ」
「うん。あと、ケータイも買う!」
「え、マジ!?」
「マジです」
ちょうど二階と三階の間にある踊り場に差しかかったところだった。上のほうから、朝のホームルームを終え、一時間目の準備をする生徒たちのざわめきが聞こえてくる。
清水くんは素早く周りを確認して、ギュッと私の両肩を掴んだ。
――え、何する……?
そう思った瞬間、額に何か暖かいものが触れた。慌てておでこを手で押さえ、そのまま彼から数歩離れる。
「なっ……!?」
清水くんはニッコリと微笑むと、何もなかったように先に階段を上り始めた。
「さすがに校内ではここまでが限度だな」
「え、ちょっ、だっ!」
意味不明の言葉を口走る私を、清水くんは上から見下ろす。いや、ちょっと、だって、校内でもここまでしちゃダメじゃない!?
「大丈夫。誰も見てない」
「そ、そりゃそうだけど。いや、そうじゃなくて!」
彼に近づきながらパニくる頭の中を何とか整理しようと思うが、全然上手くいかない。それどころかふと見上げた清水くんの顔に、私は思わず釘付けになった。
「このことは誰にも内緒」
唇に人差し指を立てて「シーッ」のポーズをすると、ニッと笑う。その蠱惑的な表情に、私の脳は全ての思考活動の放棄を高らかに宣言したのだった。
こうして「腐敗刺身異臭事件」は皮肉にも清水くんと私の距離をほんの少し縮めるきっかけとなったのだが、犯人はそうとも知らずに今もどこかでほくそ笑んでいるかもしれない。
それはそれでかわいそうなことだと思った。
勿論私だって全然ショックを受けなかったというわけではない。
ただ剥き出しの悪意は見るものに憐憫の情を催させる痛々しいものだけど、それ以上でもそれ以下でもない。
それが私を不思議にも悲しくて虚しい気分にさせるのだろう。
しかし、ロッカーが壊されたことも、腐った刺身を入れられたことも、清水くんのおでこにちゅーで全て吹っ飛び、どうでもよくなってしまった。
おそろしや、おでこにちゅー……。
……ってことは、他のところにちゅーなんかしたら大変なことになるよね? そういえば清水くんも言ってたな、「大変なのはこれからだよ」って……。
あ、あれはそういう意味じゃないか。そうだよね。あはは、何考えているんだろう、私。
いかんいかん。こんな調子で清水くんと一緒に予備校に通ったりして大丈夫なんだろうか?
しっかりしろ、高橋舞! 恋にうつつを抜かしていたら将来を棒に振ってしまうぞ!
でも、もう一回おでこにちゅーしてほしいな、なんて……密かに思っていたりする自分が、ちょっとかわいいなと思ったりして。
そして、はじめて恋をした私の、はじめての夏が始まった――。
「これで完璧にバレたね。たぶん学校中に……」
清水くんの後ろ姿を見ながら、小さくため息をつく。
「なんかもう、どうでもいい。どうせ遅かれ早かれ大変なことになるっていう気はしてたから」
階段を下りきった清水くんは私を振り返った。真面目な顔だ。
「舞、本当に大変なのはこれからだよ」
――これから……。
私の足が勝手に止まる。
「ここで待ってて。走って捨ててくるから。すぐ戻る」
小さく頷いたが、それを見もせずに清水くんは玄関へ走り去った。
何かを考えようと思うが頭が全然働かない。現実に起こっている出来事が、まるで本に描かれている出来事のように実感がないのだ。
もしさっき階段から落ちて、彼が受け止めてくれなかったとしても、痛みなんか感じなかったんじゃないだろうか。
そう思うと突然胸がドキドキした。清水くんの顔が接近しても無反応だったのに、だ。
――試してみようか。
私は階段を踏みしめて上る。
踊り場にたどり着き、振り向いて下を見た。結構な高さがある。
――どうやって落ちてみようか。
――今なら飛び込みみたいに大きくジャンプして頭から落下できるんじゃないだろうか。
そうしたら私はどうなるのだろう。心臓の音が大きくなる。唾を飲むと喉がゴクッと鳴った。
目を閉じて大きく深呼吸する。
思い切って飛び込むポーズを取ったその瞬間、タッタッタッと足音が聞こえたかと思うと、止まった。
――え……!?
「なに……してるの?」
目を開けると階段の下には、もう我慢できないという様子で盛大に吹き出している清水くんがいた。
「そんなところで、そのポーズ?」
気がつけば、私は中腰でお尻を突き出し、両手を後ろに振り上げ、スキージャンプ競技の踏み切り直前のようなスタイルで踊り場の上に佇んでいたのだ。
「こ、これは……ですね」
「うん」
「め、め、瞑想……?」
「ぶーーーっ!!」
清水くんは本気で笑い転げ、しばらくして目尻の涙を拭いながら階段を上がってきた。
「瞑想ってそんなバリエーションがあったんだ」
「そうですよ。何事も極めると奥が深いんです」
意地になって言い張るが、微妙に語尾が丁寧語になってしまい、口から出まかせを言っていることはバレバレだった。その証拠に清水くんは可笑しくて仕方がないという目をしている。
「……っていうか、危ないよ」
「はい。でも急に母の言葉を思い出しました」
私は階段を上りながら、目を閉じた瞬間頭に浮かんだ言葉を復唱する。
「『人間、死ぬ気になればなんでもできる』って」
「へぇ」
隣の清水くんは感心したように頷いた。それから急に私の腕をつかむ。
「俺の見ていないところで変なこと考えない」
「何も考えてないって!」
瞬間的に突っ撥ねる。清水くんは少し考えるような顔をして、私の腕を解放した。
「そっか。舞は瞑想してたんだっけ?」
私は口を尖らせてしきりに首を縦に振る。だけど心の中ではヒヤッとし、話題を変えようと慌てて思考を巡らしていた。……いや、本気で落ちてみようなんて思ってたわけじゃないんだけど。
でもこの悪魔を騙すのは容易ではない。何か言えば言うほどボロが出そうで怖かった。
そんな私を見越したのか、先に清水くんが口を開く。
「ま、幸いもうすぐ夏休みだし、少しは落ち着くと思うけど」
夏休みという言葉で私は急に思い出した。
「あ、あの、私も予備校に行く!」
隣を歩く人の表情が突然ほころんだ。その笑顔を見た途端、身体中がボッと熱くなる。今まで切れていた電源がいきなりONになったような感覚だ。
「楽しみだなぁ」
「うん。あと、ケータイも買う!」
「え、マジ!?」
「マジです」
ちょうど二階と三階の間にある踊り場に差しかかったところだった。上のほうから、朝のホームルームを終え、一時間目の準備をする生徒たちのざわめきが聞こえてくる。
清水くんは素早く周りを確認して、ギュッと私の両肩を掴んだ。
――え、何する……?
そう思った瞬間、額に何か暖かいものが触れた。慌てておでこを手で押さえ、そのまま彼から数歩離れる。
「なっ……!?」
清水くんはニッコリと微笑むと、何もなかったように先に階段を上り始めた。
「さすがに校内ではここまでが限度だな」
「え、ちょっ、だっ!」
意味不明の言葉を口走る私を、清水くんは上から見下ろす。いや、ちょっと、だって、校内でもここまでしちゃダメじゃない!?
「大丈夫。誰も見てない」
「そ、そりゃそうだけど。いや、そうじゃなくて!」
彼に近づきながらパニくる頭の中を何とか整理しようと思うが、全然上手くいかない。それどころかふと見上げた清水くんの顔に、私は思わず釘付けになった。
「このことは誰にも内緒」
唇に人差し指を立てて「シーッ」のポーズをすると、ニッと笑う。その蠱惑的な表情に、私の脳は全ての思考活動の放棄を高らかに宣言したのだった。
こうして「腐敗刺身異臭事件」は皮肉にも清水くんと私の距離をほんの少し縮めるきっかけとなったのだが、犯人はそうとも知らずに今もどこかでほくそ笑んでいるかもしれない。
それはそれでかわいそうなことだと思った。
勿論私だって全然ショックを受けなかったというわけではない。
ただ剥き出しの悪意は見るものに憐憫の情を催させる痛々しいものだけど、それ以上でもそれ以下でもない。
それが私を不思議にも悲しくて虚しい気分にさせるのだろう。
しかし、ロッカーが壊されたことも、腐った刺身を入れられたことも、清水くんのおでこにちゅーで全て吹っ飛び、どうでもよくなってしまった。
おそろしや、おでこにちゅー……。
……ってことは、他のところにちゅーなんかしたら大変なことになるよね? そういえば清水くんも言ってたな、「大変なのはこれからだよ」って……。
あ、あれはそういう意味じゃないか。そうだよね。あはは、何考えているんだろう、私。
いかんいかん。こんな調子で清水くんと一緒に予備校に通ったりして大丈夫なんだろうか?
しっかりしろ、高橋舞! 恋にうつつを抜かしていたら将来を棒に振ってしまうぞ!
でも、もう一回おでこにちゅーしてほしいな、なんて……密かに思っていたりする自分が、ちょっとかわいいなと思ったりして。
そして、はじめて恋をした私の、はじめての夏が始まった――。