一夜一緒にいれば、奪えるのに
一夜だけ
野瀬課長
「堺(さかい)さん、空いてる?」
せわしないオフィスの中で、その低い声は、何にもかき消されることなく耳に入ってくる。
野瀬(のせ)に呼ばれると予感していた私は、一度呼吸を整えてから、明るい返事をする。
「はい」
「これ、期限が明後日になったから、誰か空いてる人と手分けしてやってくれるかな」
声が胸に響いてくる。だけど、声に集中せず、その内容をしっかり聞いていなければいけない。
「はい!」
私は、現実をみなければ、と少し大きめの声で返事をした。
「いいなぁ、堺さんはいつも元気で……」
野瀬は言いながら、自分の席へすんなり帰ってしまう。
その姿をちらりと盗み見る。自然を装って、少しだけ。
33歳で課長の野瀬は、会社の誰もが知る美形の男性社員だ。
それは、入社した時、先輩がまず一番最初に教えてくれたことだった。
180以上もある身長に、ピシっと着こなしたスーツ。また、スーツの上着を脱ぎ薄いストライプのワイシャツになると、胸板が厚いのが一目でわかり、ウエストはキュッと締まる逆三角形があらわれる。
白い肌に、長い睫、二重の切れ長の目は、魅惑的に瞬く。なのに、それを隠すように、細く黒いフレームのメガネが邪魔をする。
誰もが、コンタクトにすればいいのに、と呟く。
だけど本人は、「コンタクトは疲れるから」らしい。
独身、課長、美形。その上優しく、人望も厚く、会社からも期待された存在でありながら、それら全てを鼻にかけない性格がまた、人目を引く。
いつもは男性社員に混ざって、自動販売機の前で缶コーヒーを右手に左手をポケットに手を突っ込んでいるのに、ふと、女性社員からもらったカップコーヒーをストローで飲んでいる姿がおちゃめで可愛いとみんな思っている。
みんな彼のことが好きだと思う。告白している子なんて、その辺り中にいる。
だけど、社内の人とは付き合ったことはない。
会社の人には手を出さないタイプ、そんな噂が定着している中、退社して告白した子もいる。
だけど、それでもうまくはいかなかった。
「それがさ、相手はどっかの社長令嬢だって。もう33だし、そこで手を打とうってことなのよね。それじゃあみんな振られるわけだわ」
今月の初め、野瀬が結婚前提で付き合っている女性がいるという噂を同僚が嗅ぎ付け教えてくれた。
私に魅力がないのか、それとも、出会うタイミングが悪かったのか、そればかり考えていたが、そうではなかったらしい。
やはり、出会うべき人というのが、その人に合った人というのが世の中にはいるのだろう。
だけどもし、私がいつもの私でなかったのなら、告白するチャンスがあったのかもしれない。
……選んでくれていたのかもしれない。
せわしないオフィスの中で、その低い声は、何にもかき消されることなく耳に入ってくる。
野瀬(のせ)に呼ばれると予感していた私は、一度呼吸を整えてから、明るい返事をする。
「はい」
「これ、期限が明後日になったから、誰か空いてる人と手分けしてやってくれるかな」
声が胸に響いてくる。だけど、声に集中せず、その内容をしっかり聞いていなければいけない。
「はい!」
私は、現実をみなければ、と少し大きめの声で返事をした。
「いいなぁ、堺さんはいつも元気で……」
野瀬は言いながら、自分の席へすんなり帰ってしまう。
その姿をちらりと盗み見る。自然を装って、少しだけ。
33歳で課長の野瀬は、会社の誰もが知る美形の男性社員だ。
それは、入社した時、先輩がまず一番最初に教えてくれたことだった。
180以上もある身長に、ピシっと着こなしたスーツ。また、スーツの上着を脱ぎ薄いストライプのワイシャツになると、胸板が厚いのが一目でわかり、ウエストはキュッと締まる逆三角形があらわれる。
白い肌に、長い睫、二重の切れ長の目は、魅惑的に瞬く。なのに、それを隠すように、細く黒いフレームのメガネが邪魔をする。
誰もが、コンタクトにすればいいのに、と呟く。
だけど本人は、「コンタクトは疲れるから」らしい。
独身、課長、美形。その上優しく、人望も厚く、会社からも期待された存在でありながら、それら全てを鼻にかけない性格がまた、人目を引く。
いつもは男性社員に混ざって、自動販売機の前で缶コーヒーを右手に左手をポケットに手を突っ込んでいるのに、ふと、女性社員からもらったカップコーヒーをストローで飲んでいる姿がおちゃめで可愛いとみんな思っている。
みんな彼のことが好きだと思う。告白している子なんて、その辺り中にいる。
だけど、社内の人とは付き合ったことはない。
会社の人には手を出さないタイプ、そんな噂が定着している中、退社して告白した子もいる。
だけど、それでもうまくはいかなかった。
「それがさ、相手はどっかの社長令嬢だって。もう33だし、そこで手を打とうってことなのよね。それじゃあみんな振られるわけだわ」
今月の初め、野瀬が結婚前提で付き合っている女性がいるという噂を同僚が嗅ぎ付け教えてくれた。
私に魅力がないのか、それとも、出会うタイミングが悪かったのか、そればかり考えていたが、そうではなかったらしい。
やはり、出会うべき人というのが、その人に合った人というのが世の中にはいるのだろう。
だけどもし、私がいつもの私でなかったのなら、告白するチャンスがあったのかもしれない。
……選んでくれていたのかもしれない。