一夜一緒にいれば、奪えるのに

本性


 リビングに入るなり、慌ててテーブルの上を片付けている野瀬が、微笑ましい。

 私は、ソファにバックと紙袋を置き、中の封筒を出して、更に、封筒の中を覗いた。

「ほんとに700万ある……」

 野瀬も興味津々でこちらを見た。

「……」

 野瀬に見えるように、封筒を傾けた。

 もちろんこれは隆夫の貯金であり、ただ普通口座から引き出しただけの現金だ。

「……怖いね……、こんなにあると」

 はっと思い出したように、野瀬はカーテンを閉めた。実にいい流れである。

「私、こんなに現金見たの初めてです」

「俺もだよ」

 良かった。さすがに見慣れていることはないとは思っていたが、野瀬の表情が真剣そのもので完全にこのストーリーに入り込んでいる。

 私は、封筒を元に戻すと、ローボードの上に置きながら、

「すみません、変なことに巻き込んでしまって」

 心を込めて、謝罪した。

「いやでも、家で1人で持っとくより良かったんじゃない? ほんとに変なのにつけられてたら、その時点でアウトだよ」

「そう考えたら怖いですよね……」

 実際ここに来るまで、ほんの数分だがそれでも確かに怖かった。

「よくある話だしね、逆に良かったよ、お金が無事で」

 と、野瀬は自らを正当化しようとしているようにも見える。

「……明日の夕方まで長いですね…………何か食べましょうか」

「うん……そうだね」

 野瀬が軽い声で応えてくれたのでホッとした。

「冷蔵庫見て来ます。何もないかもしれないし」

「いや、昨日買い物行ったから結構あるって言ってたよ」

 その声を聞きながら、キッチンに入る。冷蔵庫を開けて、何を作ろうか考えようと思っていたら、すぐ後ろに野瀬がいて驚いた。

「手伝うよ」

 野瀬は言葉通りのやる気満々でキッチンの引き出しをあちこち開けてまず、まな板を取り出した。

「何がある?」

 目を見て聞かれる。

 顔は見たことがある。そう何度も。だが、今日のメガネなしの素顔が、本当に目がくらむほどの眩しい美形であり、目のやり場に困ることこの上なかった。

「ええーと……」

 一度見たつもりだが、もう一度扉を開けて確かめる。

「肉がいいな……」

 買い物に行ったというわりにはあまり食材が入っていなかったが、野瀬はその中からブロックベーコンとレタスを取り出した。

「ベーコン炒め生レタス」

 ネーミングで今からやろうとしていることが完全に理解できた。

 野瀬は更に引き出しを開けてフライパンを取り出し、IHの上に置く。

「……これ、どこでガスつけるの?」

「課長……電気です」

 私は電源ボタンを押した。一度だけ、隆夫に干物を焼かされたことが今になって生きてくる。

「あそうか、電気か。いいなあ。IH。危なくなくていいね」

 野瀬は手慣れた様子で、ベーコンを開封し、切りはじめる。

 その間に私はレタスを洗い、手でちぎってお皿に盛ることにした。

「レタスって包丁で切らないんだ……」

 野瀬は小声で呟く。

「いや、切ってもいいとは思いますけど」

 私はレタスを千切る理由が思い浮かばず、苦笑いをしただけだが、逆に野瀬は、

「慣れてるんだね、料理」

と評価した。

 こんな些細なことで!? と驚きながらも、心地よくなる自分がいる。

「課長は料理しないんですか?」

「うーん、しない。彼女もしないけどね。結婚したら、どうしよって感じ」

 思いもよらぬ穴に、ほっとする。

「でも、交代でできるからいいですよね。1人の負担にならないで済むっていうか」

 まずは精一杯フォローしておく。

「さあ、どうだろ。できればしてくれる人の方が良かったけどね」

「でも、それ以上にすごく良いところがあったんですね、彼女さん」

 もしかして、もう妊娠したとかそういう感じ?

 慎重に言葉を選びながらも探りを入れていく。

「どうだろ」

 野瀬は笑いながら、話を切り上げた。ここで深く掘り下げるのは印象が悪い。

 私はすぐに話題を変えた。

「他にも何か作りましょうか、野菜炒めとか作れますよ。あんまり彩はよくないかもしれませんけど」

 三度冷蔵庫を覗きながら、もやし、玉ねぎ、鶏肉があることを確認する。

「うん、食べたいな。……やっぱいいね、料理できると」

 視線を感じて、パッと野瀬を見た。

 目が合う。

 咄嗟に逸らした。

 3秒経って、ようやく手が動き始める。そうだ、まず食材を冷蔵庫から出して、肉を切らなければならない。

 次にフライパンで肉を焼き、その間に野菜を切って後から肉の中に投入する。

 その一部始終を、味つけが終わり、皿にのせるまでの間を、野瀬は黙ってずっと見ていた。

「……なんか、見られていると思うと緊張しますよ。仕事より緊張します」

 私が恥ずかしさを忍んでそう言うと、

「仕事に余裕がある証拠だな」

と、いつもの大人びた笑いを見せた。

 あまりにも和やかな時間がスタートしたせいで、今、何が起こっているのか、ローボードの上の封筒を見るまで忘れそうになっていた。

 リビングにつまみを並べ、2人はそれぞれソファに腰かけて、ビールと酎ハイで乾杯をした。

 あまりにも自然な乾杯だったため、缶に口をつけてから、封筒に目がいき、もう一度あえて思い出す。そうだ、あまり調子に乗ってはいけない。

 いや……野瀬も少し忘れかけている、か……?

 ちらと隣を見る。

 すると、相手もこちらを見ていたので、あやうく缶を落としそうになった。

「わっ!!」

「大丈夫?」

 笑いながら、野瀬は野菜炒めを食べ始める。

「うまいね……。いいね、本当に、料理上手な子」

「…………」

 こちらを見て言われている気がしたが、怖くて野瀬の方を見られなかった。

野瀬は褒め上手だ。仕事でも意味もなく褒められることも多い。だけどこうやって、2人きりで同じようにされると、さすがに戸惑ってしまう。

「でも、料理の慣れとか、レシピとか、そういうのよりは、愛情なのかもしれないね」 

 愛、情……。

「愛情が籠ってる感じがするよね」

「…………」

 特に意味はないのか……。野瀬は目の前のテレビを見ながら、そう評価する。

「あ……ありがとうございます」

 久しぶりに私は、自分が部下だということを思い出した。

「すぐ酔っちゃうね。食が進むと酒が進む」

 言うなりビールを1缶空けてみせる。更に野瀬はキッチンに入り、冷蔵庫からもう一本取り出してくると、どかりとまた再びソファに腰かけた。

 気のせいだろうか。いや、気のせいばかりではない。

 近い。

 ソファに腰をかけたはいいが、お互いの距離が近くなっている。

「……酔っちゃうな……」

 言いながら、ソファの後ろに腕を置き、更に深くどすんと背をもたせた。

「…………」

 缶を握り締め、テレビを見ているふりをしている私は、隣が気になって仕方ない。

 そんなまさか、相手は結婚しようとしている女性がいるのに、こともあろうに会社の社員に手を出すはずがないし、そういう人ではない。
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