一夜一緒にいれば、奪えるのに
「あの、結婚したい人いるんですよね!? だって、このことがバレたらマズイって言ってたじゃないですか!」

 野瀬から身を大きく離しながら言った。

 驚いたように目を丸くさせる野瀬。

「いるよー」

 ところが今度は逆に笑顔で、強く抱きしめ、耳元で

「けど、朱莉ちゃんが俺のこと好きなら、いいじゃない」

 完全に頭にきた。

「離してください!」

 野瀬から離れようと、大きく腕を振ったが、捉えられる。身体は野瀬の思うがままにソファに倒れ込み、上から乗りかかられて、頭と背中が完全にクッションの中に入っていた。

「好きじゃない? 俺のこと」

 馬乗りになられて、上から微笑混じりに聞かれたからといって、この5年の想いがそう簡単に変わるわけではない。

「…………」

 顔を逸らすのが精一杯だ。頬はかなり紅潮しているのが自分でもよく分かる。

「俺、会社の子には手ぇ出さないんだよね。面倒なの分かってるから」

 え、ちょっと。私、まだ辞めてませんけど!?

 目を逸らしていて気付くのが遅れた。

 野瀬はどんどんこちらに顔を近づけてきている。

「ちょっ!?!?」

「…………」

 だが、顔は唇をよけ、耳元で停止した。

「けど俺が、最初から朱莉ちゃんだけ好きだったって言ったら?」

 怒りを通り越して、悲しくなってくる。

「そんなの信じられません」

「あそう?」 

 野瀬の返事は軽い。

「好きなんだけどなあ……」

 頬に、いくつもキスを落としてくる。だが、その間も野瀬の腰が少し揺れていて、まるで自分自身を焦らしているかのようだった。

「課長……離してください」

「嫌だよ。ずっと朱莉のこと、好きだったんだから」

 その言葉が、どうも嘘にしか聞こえない。

「ほら、目ぇ背けないで。上司が話してるのに」

 人の上にまたがっておいて、上から見下し、顔を固定させて、何が上司だ……。

 そして、無理矢理目を合させる。

「好きだよ。朱莉」

 唇に、ゆったりとしたキス。

 嘘だ、酔っているんだ、起きたら忘れているか、忘れているふりをするに決まっている。

「その証拠にしないからね」

 一時停止してから、野瀬を見た。

「されると思ってるかもしれないけど、俺はしないよ。そういうつもりはないから」

「……じゃどいてください」

 その、「じゃ」の意味が自分ではよく分からなかったが、もうどうでもいいやと、怒り顔を決め込んだ。

「つれないなあ……」

 そのまま野瀬は本当に身体から離れてしまい、更にリビングから出ていく。

 1人、ソファに取り残される私。

 まさか、野瀬がそういう人だったなんて……最低だ……。

 起き上がり、着くずれをさっと正す。

 大きく溜息をついた。

 信じられない。最低だ。

 こんな人のことが今まで何年も好きで、仕事まで辞めようとしていた自分が、バカバカしくなる。

 悲しくなる。

 やるせなくなる。

「あれーって、泣いてる?」

 トイレから帰ってきた野瀬は、水を注いだグラスを片手に再びソファに腰かけると、こちらをじっと見つめた。

 涙は目尻に少し溜まったが、どうにか流れないよう回避はできた。

「……ほんとに俺のこと好きだったって……こと?」

 上司だということは完全に忘れて、

「隆夫さんがそう言ってたじゃないですか!!」

「いやまあ、言ってたけど。けどさ、だとしたら、不自然すぎじゃない? この状況」

 ギクリ!!と心臓が痛いくらいに跳ねた。

「……何? 仕組んだ?」

 野瀬の声は怒りとも、何ともとれない。

 私は、暴露するべきかどうか、最大限自分の中で悩んでいた。

 まだ日付も変わっていない中、こんな形で早くもバレてしまうなんて、最悪だ。

「え、マジ……。また手の込んだこと、したね……」

 その声は冷ややか以外の何者でもなかった。

 あんなに野瀬のことを拒否しておきながら、そう冷たく離されると、好きだったという気持ちを一気に思い出す。

「え、これ、誰のお金? これは本当に隆夫さんのお母さんの?」

 何をどう答えればよいのか全く分からず、手が震えた。

「いやあの、別にいいから。そんな怒ってるわけじゃないから、正直に話してくれればいいよ。これからも仕事していかないといけないし。このままじゃ仕事できないよ。俺は」

 それは私も同じです!

「本当に聞くけど、これ、誰のお金?」

 どうしよう……ありのままに話すべきか……。どうしよう……暴露して、隆夫に怒られないか……。

「イエスか、ノーでいいよ。堺さんのお金?」

 私はさっと首を振った。

「じゃあ、よその、知らない人の、とかじゃないよね? ちゃんと知り合いのちゃんとしたお金なんだよね?」

 まあ、変なお金じゃないかって心配するか……。

「……」

 私は正直に頷いた。

「あそう……。で、隆夫さんは本当に大阪なの?」

「…………」

 少し首をかしげる。

「え、これ、隆夫さんが勝手に仕組んだの?」

「では、ないです……」

「あ、じゃあやっぱり堺さんもかんでるんだね」

 そう言われると、切ないことこの上ない。

「あそう……。俺が結婚することを隆夫さんに聞いて、まあちょっと望みあるかもって賭けたんだね」

「……仕事は辞めるつもりでした」

 正直に話す。

「えっ、何で!?」

 野瀬は大きく反応した。

「バレるとは思ってなかったけど……そこまでして、一緒に仕事できるとは思いませんでしたから……」

「いやまあ、そこまでしなくても……堺さんいなくなったら単純に困るし」

「私、そんな大した仕事してませんし」

「そんなことないよ。堺さんがいなくなったら本当に俺が困る。いつも仕事してもらってる俺が困るんだよ。

 ほんとにこんなことで辞めないでほしい。

 下らないって言ったら怒るかもしれないけど、俺はそれくらいにしか思ってないから」

「…………」

 心の中が大きく揺れる。

 今から結婚しようとしている人を好きだということがバレて……しかもこんな下手な芝居までバレて……これからも一緒に今まで通り仕事ができるだろうか。

「すみません……」

 私は大粒の涙を流しながら、心から謝った。

「いいよ、いいよ、別に。……野菜炒めうまかったし」

 野瀬は付け足しのように言う。

「それに、結婚するかどうかって、本当に決まったわけじゃないしね。するかもしれないし、しないかもしれないし。

 まあもう33だから、そろそろ落ち着きたいっていうのはあるけど、こうやって手料理出されるとちょっと心揺らぐよね」

 何気に言った一言だろうが、私は大きく反応した。

「ま、正直、結構揺らいでるのかもしれないけど」

 思い切って野瀬の方を見た。野瀬は静かに水を飲んでいる。

「……酔いは覚めたんですか?」

「あれ、酔ってると思ってた?」

 微笑しながら言われる。

「え……酔って……なかった……?」

「なわけないじゃん。酔ってるよ。吐くほど。今吐いてきたからちょっと正気に戻ったかな」

 のわりに、軽いノリはあまり変わっていない。

「……結構……記憶飛んでます?」

「どうかなあ……。どうだろうね、今はそんな感じしないけど」

 キスしたことも忘れているかもしれない。

 私はどっと疲れを感じながら、掛け時計を見た。

 オシャレな真っ白のインテリア時計は非常に見にくいが、まだ時間は9時を過ぎたところだということはなんとか分かる。

「隆夫さんに電話します……」

「まあいんじゃない? うまくいったことにすれば」

 思いもよらぬ言葉に、私は驚いて野瀬を見た。


「僕の気持ちが傾きかけてることだし」


「…………」

 野瀬の言葉を真に受けた私は、微動だにすることができず、視線さえも固まって動かすことができない。

「というか、かなり別れたいと思ってきてる」

 また髪を触れられた。指で惜しむように、撫でたり、いじったりを楽しんでいる。

「でも、結婚……」

「俺の中でね、年齢の焦りがあったのかもしれない」

 肩に手を置かれ、身体がびくんと震えた。

「……嫌、かな……」

 何のことかわけが分からず、ただ瞬きを繰り返した。

「こっち」

 野瀬はまた顎をとらえると、視線を自分の物にしようとする。

 目を見て確認するつもりだと思っていたのに、突然唇が触れた。

 柔らかく、厚い。

 そのまま、深く侵入してくる。

 奥の奥まで、口内の隅々まで。

 優しく。

 それは、愛情以外の何ものでもないのかもしれない。

 そう伝わってくる。

「おいで……」

 野瀬は座り直すと、私の膝を抱え始めた。

 反射で、首に腕を回す。

「ベッド行こう、あっち」
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