キスでさよなら~マジョの恋
※
今日は日曜だ。
明が送るというのを、美紀はかたく断った。
胸が苦しくて、息ができなくなりそうだ。
彼のそばにいると、あの悪夢が大音響の恐怖音楽を響かせて、目の前に迫ってくるような気がした。
大げさなのかもしれない。キスひとつに、ここまで引きずられるなんて、子どもっぽいのかもしれない。けれど、美紀にとっては水に流せないことなのだ。今、あの悪夢のキスの犯人がわかったとして、怒りをぶつけることもできそうになかった。
明の横顔をみてしまっては、何も言えなかった。
電車が動き出すと、美紀は北条のサロンに向かった。
着替えの中に、メガネが見あたらなかったことに気づいたのだ。
締め切られた店の前で立ち尽くしていると、やけに明るいクラクションが鳴らされた。振り返ると、青いオープンカーに乗った北条が、見事に縦列駐車をしたところだ。
「どうしたの、マジョちゃん」
店に招き入れられると、北条はにべもなく言った。
「もういらないでしょ、黒縁の分厚いのなんて。フレームもくたびれて、ひん曲がってたわよ。明ちゃんからもらったそれで、十分じゃないの」
涙がこみあげてきた。
「何があったの」
ぶざまだろうと、涙は美人にしか似合わないと言われようと、かまわない。美紀はしゃくりあげた。
北条は黙って話を聞いてくれた。相づちのひとつもなかった。
ほんとうに聞いているのか、爪に息を吹きかけたりしていたが、とにもかくにも話し終えると、美紀のまえに湯気の立つ紅茶を差し出した。
「で、あんたは明ちゃんのことを、どう思ってるの」
「・・・・・・嫌えない」
「それだけ?」
北条の声はやさしかった。
美紀はそっと心をさぐってみた。記憶の中にある明の面影をなぞってみた。こみあげてくる感情は、ひとつにくくれるものではなかった。
「苦しい。好きだけど、嫌い。だけど、憎めない」
北条はため息をはいた。
「からかいだろうが、なんだろうが、相手を傷つけるためにキスするなんて、最低ね。その手のたぐいのことが、どんなに卑怯かも、よくわかる」
北条はカップを手に取り、紅茶を飲み干した。
「でも、明ちゃんは、ようするに、あんたのことが好きなのよ。昔はどうあれ、今はオトナよ。オトナが、正直に厨二行為を告白したんだもの。許してあげたら?」
ぬるくなった紅茶を飲み干すと、苦みのあとにさっぱりとした甘さが舌のうえに残った。
「ゆっくりしてきなさいよ。・・・・・・少しくらい、待たせたらいいわ」
北条は外をちらと見た。いつの間にか、赤いクーペが店の外に停車していた。
鳴り出した胸を落ち着かせようと、美紀はひとつ深呼吸をした。北条に頭を下げ、店の外にでると、人通りの少ない道に立つ明と目があった。
「美紀」
「マジョに、なにか用?」
そう言ったつぎの瞬間に、美紀は手を引かれ、きつく抱きしめられていた。
「きみには、悪かったと思ってる」
腕を解かないまま、明はゆっくりと言った。
「許されなくても。もう一度、きみにキスしたかった」
「キスしたら、さよならよ」
美紀はようやく言った。口にして、やっと胸の重石が軽くなるような気がした。
それが、答えだ。
今は、さよならしか言えない。すべてをなかったことにできるほど、あの出来事は軽いものではなかった。
許せないのは、美紀の心が狭いからなのか。
明はゆっくりと近づいてきた。
美紀の頬を指先でそっとなでた。見下ろしてくる彼の瞳は、何か言いたいことをこらえているように揺れていた。
唇が、重なる。思いのこもった、やさしいキスだ。
やさしくて、かなしい、こっけいなキスだ。
手のひらを合わせ、指をからめた。
この人が好きだ。でも、許せない。許せないけれど、好きだ。
二つの気持ちに引き裂かれそうだった。
あたたかな手。大きな手。ずっと包まれていたい。つないでいたい。
それでも。
唇がそっとはなれた。絡み合わせた指を、さいごの一本までほどいたら。
それがさよならのときだ。
今日は日曜だ。
明が送るというのを、美紀はかたく断った。
胸が苦しくて、息ができなくなりそうだ。
彼のそばにいると、あの悪夢が大音響の恐怖音楽を響かせて、目の前に迫ってくるような気がした。
大げさなのかもしれない。キスひとつに、ここまで引きずられるなんて、子どもっぽいのかもしれない。けれど、美紀にとっては水に流せないことなのだ。今、あの悪夢のキスの犯人がわかったとして、怒りをぶつけることもできそうになかった。
明の横顔をみてしまっては、何も言えなかった。
電車が動き出すと、美紀は北条のサロンに向かった。
着替えの中に、メガネが見あたらなかったことに気づいたのだ。
締め切られた店の前で立ち尽くしていると、やけに明るいクラクションが鳴らされた。振り返ると、青いオープンカーに乗った北条が、見事に縦列駐車をしたところだ。
「どうしたの、マジョちゃん」
店に招き入れられると、北条はにべもなく言った。
「もういらないでしょ、黒縁の分厚いのなんて。フレームもくたびれて、ひん曲がってたわよ。明ちゃんからもらったそれで、十分じゃないの」
涙がこみあげてきた。
「何があったの」
ぶざまだろうと、涙は美人にしか似合わないと言われようと、かまわない。美紀はしゃくりあげた。
北条は黙って話を聞いてくれた。相づちのひとつもなかった。
ほんとうに聞いているのか、爪に息を吹きかけたりしていたが、とにもかくにも話し終えると、美紀のまえに湯気の立つ紅茶を差し出した。
「で、あんたは明ちゃんのことを、どう思ってるの」
「・・・・・・嫌えない」
「それだけ?」
北条の声はやさしかった。
美紀はそっと心をさぐってみた。記憶の中にある明の面影をなぞってみた。こみあげてくる感情は、ひとつにくくれるものではなかった。
「苦しい。好きだけど、嫌い。だけど、憎めない」
北条はため息をはいた。
「からかいだろうが、なんだろうが、相手を傷つけるためにキスするなんて、最低ね。その手のたぐいのことが、どんなに卑怯かも、よくわかる」
北条はカップを手に取り、紅茶を飲み干した。
「でも、明ちゃんは、ようするに、あんたのことが好きなのよ。昔はどうあれ、今はオトナよ。オトナが、正直に厨二行為を告白したんだもの。許してあげたら?」
ぬるくなった紅茶を飲み干すと、苦みのあとにさっぱりとした甘さが舌のうえに残った。
「ゆっくりしてきなさいよ。・・・・・・少しくらい、待たせたらいいわ」
北条は外をちらと見た。いつの間にか、赤いクーペが店の外に停車していた。
鳴り出した胸を落ち着かせようと、美紀はひとつ深呼吸をした。北条に頭を下げ、店の外にでると、人通りの少ない道に立つ明と目があった。
「美紀」
「マジョに、なにか用?」
そう言ったつぎの瞬間に、美紀は手を引かれ、きつく抱きしめられていた。
「きみには、悪かったと思ってる」
腕を解かないまま、明はゆっくりと言った。
「許されなくても。もう一度、きみにキスしたかった」
「キスしたら、さよならよ」
美紀はようやく言った。口にして、やっと胸の重石が軽くなるような気がした。
それが、答えだ。
今は、さよならしか言えない。すべてをなかったことにできるほど、あの出来事は軽いものではなかった。
許せないのは、美紀の心が狭いからなのか。
明はゆっくりと近づいてきた。
美紀の頬を指先でそっとなでた。見下ろしてくる彼の瞳は、何か言いたいことをこらえているように揺れていた。
唇が、重なる。思いのこもった、やさしいキスだ。
やさしくて、かなしい、こっけいなキスだ。
手のひらを合わせ、指をからめた。
この人が好きだ。でも、許せない。許せないけれど、好きだ。
二つの気持ちに引き裂かれそうだった。
あたたかな手。大きな手。ずっと包まれていたい。つないでいたい。
それでも。
唇がそっとはなれた。絡み合わせた指を、さいごの一本までほどいたら。
それがさよならのときだ。