キスでさよなら~マジョの恋
豪勢な百合の花が生けられたエントランスは明るい。
都内のホテルの一フロアをすべて貸し切りにしたパーティは、すでに招待客でにぎわっていた。腕の届くところまでしかよく見えない美紀は、少々癪ではありながら、ただ明にうながされるままについて行くことしかできなかった。
「和光くん、久しぶりだね。相変わらず元気かい」
「そちらのお嬢さんは?」
「和光社長、ぜひご一緒したい企画があるんですが」
次々と話しかけられる明は、にこやかに、かつ人の気を逸らさずにそれに応えている。
美紀は感心した。背筋もすっとのび、驚くべきことに顔つきにもだらけた甘えたところがなくなっている。意識してそうしているのかどうかはわからないが、明は大勢の人に囲まれるときは、それにふさわしい振る舞いをすることができるのだった。
美紀は自分がうまくほほえんでいられるか、ずいぶん自信がなかった。明がさっき言ったことも、気になっていた。
(恋人、この人の?)
冗談じゃない。こんな勝手で、女たらしで、口も悪い奴の、だれが恋人になんか。
「笑顔、笑顔」
飲み物を手渡しながら、明はおかしそうに言った。
「眉間にしわが寄ってるよ。美紀」
口に含んだものを吹きこぼしそうになるのを、なんとか美紀はこらえた。
「やめてください、社長」
明は何食わぬ顔で、美紀の耳元に唇を近づけた。そのあまりの近さに、背筋がぞくっとした。
「色気ないな。お芝居がばれるよ、そんなんじゃ」
「お芝居なんて、むりです」
美紀はこっそりたずねた。
「どうして、こんなことを?」
明は唇を笑わせた。遠くで会釈をする人がいたのだ。
「むりでも、やるんだよ。でないと、ここで」
明はほほえんだ。
「きみにキスでもしようか」
足でも踏んでやろうか、口の中で毒づいた美紀は、明が口で言うほど平気な様子ではないということに気づいた。
リラックスしているようではあるが、どことなく顔に血の気がない。伏せた目にはどこか落ち着きがなく、美紀の手を握りしめる力はさっきよりずいぶんと強くなっていた。
「社長・・・・・・明、さん?」
明はためいきまじりに言った。
「そばにいてくれないか」
ほんのささやかなつぶやき。聞き返そうとしたとき、誰かが目の前に立ったのがわかった。
「明さん、久しぶりね」
美紀は頭を下げた。それから目を細めて、小柄な女性をこっそりみつめた。どこか尖った声だ。
「お仕事がお忙しいんじゃなくて?」
「おかげさまで」
明の声は固かった。
「あなたは一年で独立なさって。その勇気も決断力も本当にすばらしいわ。ゆくゆくは、城田の幹部にともいうことだったのに」
美紀はぎくりとした。
表だっては明らかにされていないことだが、明の父は城田ビルディングという企業の役員をしている。彼が城田を名乗らないのは、そうできない事情があるというのが公然の秘密なのだった。
会場の照明が落とされ、設えられた壇上に恰幅のよい男が立った。
城田ビルディングの創業祝いのパーティーが、今夜、まさにこのホテルで行われることを、今まですっかり忘れていた。去年も一昨年も明は欠席をした。でもなぜ、今年は出席しようという気になったのだろう?
挨拶が終わり、明るくなった会場にざわめきが戻ってきた。グラスのぶつかり合う音、そこかしこで交わされる談笑。
「兄さんは、どちらですか? 探しているんですが」
「何かご用でも」
ひるむほどの冷たい声だった。明は平気な風で、ほほえんだ。
「ご挨拶をと思っただけです。この人をぜひ兄さんにお目にかけたくて」
急に引き合いに出されて、美紀は息をのんだ。
女性は一歩踏み込むようにして、美紀に近づいた。
「こちらの方が、例の?」
ぼやけていた視界のなかに、フェミニンな白いスーツを着込んだ女の姿がようやくはっきり見て取れた。
「結婚を前提に、おつきあいされているという方ね」
(冗談でしょう)
そう問いつめたくなるのをこらえて、美紀はつとめてにこにこしていた。
頬の肉がそげたようにやせているその人は、いまいましそうに顔をゆがめた。
「こんなすてきなお嬢さんがいらっしゃるなら、はじめに言ってくれないと。先方に大変な失礼をしたこと、わかっている? 明さん」
「ご迷惑をおかけしました。お母さん」
そう言った瞬間、かろうじて刻まれていた笑みは消え、彼女はにらむように明を凝視した。どうみても好意的とは思えない、嫌悪に満ちた表情だ。
明をこんなふうに見つめる人がいるなんて、信じられなかった。彼はどこへ行っても、すぐに誰とでも打ち解けることができる。相手の心をつかみ、すばやく懐に飛び込むすべを生まれつき知っているかのようだった。年下には慕われ、年上には目をかけられる。
それなのに、彼が「お母さん」と呼んだ人は、まるで憎むべき敵でも見るようにかたくなな表情をしていた。
「上に行ってごらんなさい。あなたを追い返したと知ったら、あとであの子に叱られるもの」
それから、つんと顔をそむけた。ほかの来客のもとへ向かう横顔には、穏やかな人なつこい笑みが浮かべられていた。
都内のホテルの一フロアをすべて貸し切りにしたパーティは、すでに招待客でにぎわっていた。腕の届くところまでしかよく見えない美紀は、少々癪ではありながら、ただ明にうながされるままについて行くことしかできなかった。
「和光くん、久しぶりだね。相変わらず元気かい」
「そちらのお嬢さんは?」
「和光社長、ぜひご一緒したい企画があるんですが」
次々と話しかけられる明は、にこやかに、かつ人の気を逸らさずにそれに応えている。
美紀は感心した。背筋もすっとのび、驚くべきことに顔つきにもだらけた甘えたところがなくなっている。意識してそうしているのかどうかはわからないが、明は大勢の人に囲まれるときは、それにふさわしい振る舞いをすることができるのだった。
美紀は自分がうまくほほえんでいられるか、ずいぶん自信がなかった。明がさっき言ったことも、気になっていた。
(恋人、この人の?)
冗談じゃない。こんな勝手で、女たらしで、口も悪い奴の、だれが恋人になんか。
「笑顔、笑顔」
飲み物を手渡しながら、明はおかしそうに言った。
「眉間にしわが寄ってるよ。美紀」
口に含んだものを吹きこぼしそうになるのを、なんとか美紀はこらえた。
「やめてください、社長」
明は何食わぬ顔で、美紀の耳元に唇を近づけた。そのあまりの近さに、背筋がぞくっとした。
「色気ないな。お芝居がばれるよ、そんなんじゃ」
「お芝居なんて、むりです」
美紀はこっそりたずねた。
「どうして、こんなことを?」
明は唇を笑わせた。遠くで会釈をする人がいたのだ。
「むりでも、やるんだよ。でないと、ここで」
明はほほえんだ。
「きみにキスでもしようか」
足でも踏んでやろうか、口の中で毒づいた美紀は、明が口で言うほど平気な様子ではないということに気づいた。
リラックスしているようではあるが、どことなく顔に血の気がない。伏せた目にはどこか落ち着きがなく、美紀の手を握りしめる力はさっきよりずいぶんと強くなっていた。
「社長・・・・・・明、さん?」
明はためいきまじりに言った。
「そばにいてくれないか」
ほんのささやかなつぶやき。聞き返そうとしたとき、誰かが目の前に立ったのがわかった。
「明さん、久しぶりね」
美紀は頭を下げた。それから目を細めて、小柄な女性をこっそりみつめた。どこか尖った声だ。
「お仕事がお忙しいんじゃなくて?」
「おかげさまで」
明の声は固かった。
「あなたは一年で独立なさって。その勇気も決断力も本当にすばらしいわ。ゆくゆくは、城田の幹部にともいうことだったのに」
美紀はぎくりとした。
表だっては明らかにされていないことだが、明の父は城田ビルディングという企業の役員をしている。彼が城田を名乗らないのは、そうできない事情があるというのが公然の秘密なのだった。
会場の照明が落とされ、設えられた壇上に恰幅のよい男が立った。
城田ビルディングの創業祝いのパーティーが、今夜、まさにこのホテルで行われることを、今まですっかり忘れていた。去年も一昨年も明は欠席をした。でもなぜ、今年は出席しようという気になったのだろう?
挨拶が終わり、明るくなった会場にざわめきが戻ってきた。グラスのぶつかり合う音、そこかしこで交わされる談笑。
「兄さんは、どちらですか? 探しているんですが」
「何かご用でも」
ひるむほどの冷たい声だった。明は平気な風で、ほほえんだ。
「ご挨拶をと思っただけです。この人をぜひ兄さんにお目にかけたくて」
急に引き合いに出されて、美紀は息をのんだ。
女性は一歩踏み込むようにして、美紀に近づいた。
「こちらの方が、例の?」
ぼやけていた視界のなかに、フェミニンな白いスーツを着込んだ女の姿がようやくはっきり見て取れた。
「結婚を前提に、おつきあいされているという方ね」
(冗談でしょう)
そう問いつめたくなるのをこらえて、美紀はつとめてにこにこしていた。
頬の肉がそげたようにやせているその人は、いまいましそうに顔をゆがめた。
「こんなすてきなお嬢さんがいらっしゃるなら、はじめに言ってくれないと。先方に大変な失礼をしたこと、わかっている? 明さん」
「ご迷惑をおかけしました。お母さん」
そう言った瞬間、かろうじて刻まれていた笑みは消え、彼女はにらむように明を凝視した。どうみても好意的とは思えない、嫌悪に満ちた表情だ。
明をこんなふうに見つめる人がいるなんて、信じられなかった。彼はどこへ行っても、すぐに誰とでも打ち解けることができる。相手の心をつかみ、すばやく懐に飛び込むすべを生まれつき知っているかのようだった。年下には慕われ、年上には目をかけられる。
それなのに、彼が「お母さん」と呼んだ人は、まるで憎むべき敵でも見るようにかたくなな表情をしていた。
「上に行ってごらんなさい。あなたを追い返したと知ったら、あとであの子に叱られるもの」
それから、つんと顔をそむけた。ほかの来客のもとへ向かう横顔には、穏やかな人なつこい笑みが浮かべられていた。