キスでさよなら~マジョの恋
 まだ胸がどきどきしている。
 明のほうを見られなくて、美紀はだいぶ困った。なんて言葉をかけたらいいのか、わからなかったのだ。
「びっくりしたろう」
 明はため息をはいた。
「父の戸籍上の妻だよ。今日はずいぶん穏やかなほうだ」
 手を引かれて、美紀はテラスに連れ出された。休憩のためのソファとテーブルがおいてある。静かな夜の気配が空を塗り染めていく。
 明は上着の内ポケットから、何かを取り出した。
 ふちのない楕円のレンズ、飴色の細いつるをしたメガネだ。
「せめてもの、お詫びのしるしだよ。かけてごらん」
 いいにくそうに、明は続けた。
「本当はサロンで渡そうと思っていたんだけど。きみにみとれて、すっかり頭からとんでた」
「また冗談」
 メガネをかけた美紀は、胸がうずくような気がした。
 こちらをみつめる明の顔つきは、真剣だった。
 息が詰まるような苦しさを感じて、美紀は目をそらした。
「おいで。会わせたい人がいる」
 エレベーターに乗り込むと、明は最上階に美紀をともなった。落ち着いたダークブラウンの家具で統一された部屋は、明かりも落とされ、間接照明だけがぼんやりと壁に掛けられた絵画を照らしていた。
「失礼します」
 明はためらわずにじゅうたんを踏みしめて、奥の続き部屋に足を運んだ。
 寝室だ。キングサイズのベッドの枕元に、上着を脱いで深く腰掛けた人がいた。その人は顔を両手で覆っていたが、ゆっくりとこちらに向き直った。
「明か」
 すこしやつれてはいるが、やさしい笑顔は、確かに見覚えがある。
(城田先輩)
「こんばんは、学兄さん」
 夕暮れの図書室で、学と語り合ったこと。
 ほかのだれも知らないような、深い話題で共感をわかちあえたこと。
 やさしく美紀をみつめていたあの瞳を、まっすぐにのぞきこめたあの時間を思い返すたびに、美紀は胸がうずくのを感じる。
 学は立ち上がり、手を差し出した。
「明の兄の、学です。明も水くさいな。こんなすてきな人がいるなんて、はやく紹介してくれればいいのに」
 学は、目を細めた。
「どこかで会ったことがあるかな。お名前は?」
 問われて、すぐには答えることができなかった。
「美女木、美紀です」
 ようやく口からおしだしたが、学は少しも表情を動かさなかった。
「はじめまして、美女木さん」
 握手したあとも、学の姿から目を離せなかった。
 すっかり忘れられていた、ということよりも、彼の左手の薬指に光る指輪に気づくと、何か気の抜けるような、さびしいような、ほっとした感じがこみあげてきたのだ。  
「あなたのことは、明から聞いているよ。あなたなら、明を支えてくれるんじゃないかって。いつもそう思っていた。どうか、こいつをよろしく」
 思わず明をみると、本人はすました顔をしている。
「はあ・・・・・・」
(どうしよう)
 よろしくされてしまった。
 初恋の人はとっくに結婚していて、そのうえ彼から「弟を頼む」と言われるなんて。
 城田学。城田財閥の御曹司。
 高校生の頃は女子のあこがれの王子様だった学は、じっさい本物の王子様だったのだ。
 再会できたのに、少しもうれしくない。キレイになった姿を、見せることができたなら。そんな淡い望みが果たせたはずなのに、ただみじめなだけだった。
 図書室での出来事を覚えていたのは、美紀のほうだけだったのだ。それを思い知るくらいなら、会わなかったほうがましだ。
 部屋を出ようとしたとき、水を持った女性と目があった。
 会釈をかわすと、明は美紀の手を引いて廊下へ出た。
「兄さんは、結婚したんだよ、半年前に」
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