キスでさよなら~マジョの恋
「そう」
「一度体をこわしてね。さっき部屋にいた女性、あの人が奥さんだよ」
 やさしそうな人だった。控えめな笑顔がきれいで、可憐だった。
「残念?」
 明はたずねた。
 なぜそんなことを聞くのだろう。
 高校の時、ほんのすこし学と接点があったことなんて、明には知る由もないだろうに。
 少しの違和感をなかったことにして、美紀は下へ降りるエレベーターの中で明に詰め寄った。
「いったい、どういうことなの?」
 明のことは、きらいではない。経営者として、尊敬してもいる。
 ただ、こんな嘘をついて縁談から逃れようとするなんて、姑息だ。 
「罪がない嘘っていうものさ」
 明は平気な顔をして言った。
「婚約者なんかを押しつけられてたまるか。おれはまだ結婚する気なんてないし、あてがわれた相手と結婚なんてできるわけない」
 エレベーターの中で、明は手を差し出した。
 メガネもあるし、手助けは必要ない。
 その手を押しのけるように美紀は無視した。
「いいわけを聞かせる相手が違うんじゃありませんか」
 にらみつけると、明は肩をすくめた。
「自分の本当に欲しいものにしか興味がないだけだよ」
「そのために、うそをついてもいいっていうの?」
「うそだとバレなきゃいいだろ」
 子どもっぽい。本当に、あきれてしまう。
 欲しいものとやらを、本気で探している風にも見えない。
 近くで彼を見ているからこそ、言えるのだ。
 つきあう相手をころころ変える。最長で、一年。それ以上は恋人関係が続いたためしがない。傷心はフリだけだということは、目を見ればわかる。彼が心底うちのめされたのなんて、見たことがない。
 会社が軌道に乗り始めて、オンオフの区別も一切なく働きづめに自分を追い込んでいた。自分から崖のふちに追いつめられて、あと一押しされるのを待っているみたいだった。
 彼にとって、その隙間を埋めるのが恋愛だった。少なくとも、美紀にはそんなふうにみえたのだ。
「本当に欲しいものなんて、あなたにあるの?」
「どうだろう。わからないな」
 明は美紀の手をとった。
「社長」
 苦笑いする人を、美紀は戸惑いながら見つめた。さりげなく重ねられた手。大きな彼の手のひらのうちにそっと握られた自分の手が、ひどく華奢で女らしくみえて、落ち着かない。
(この人は、憎めない)
 無理を言われても、なんだかんだで受け入れてしまうのは、明がなんとなく自分に似ていると思うからだ。
 恋で彼は泣かない。心を揺さぶられない。
 まるではじめから恋なんて信じていないように。
 それなのに、明の手はこんなに熱い。まるで、本当に彼に求められているような錯覚に陥ってしまいそうだ。
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