キスでさよなら~マジョの恋
目覚めたあとは、ぞっとした。
昨日の醜態、体があちこち痛む。
そこは簡素な部屋だった。ベッドがひとつ、そして本棚がひとつ。
書名を目でたどるまでもなく、見知った背表紙が棚を埋めているのに気づいて、美紀はなんとなく意外な気持ちがした。
古事記、万葉集、日記文学。
今は絶版になって手に入らない全集が、乱雑だがチェリーウッドの本棚にちゃんとおさまっている。
「おはよう」
開け放された窓から、涼しい風が吹き込んでくる。静けさのうちに眠ったような街並みが見えた。窓辺に置かれたポトスに水をやっていた明は、振り返って苦笑した。
「きみが目を覚まさなかったから、うちにつれてきたよ。一人住まいだから、気兼ねしなくていい」
「どうして・・・・・・」
「どうして? それをきいてどうするの」
「どうして、私なの」
明は床をきしませて近づくと、ベッドに腰掛けて美紀の髪をなでた。
「最初は、きみが気にくわなかった」
目を伏せて、明は話し始めた。
「いいや、全部気にくわなかったんだ。何もかもが」
そういう明の横顔が、ふと傷つきやすい少年のそれのように見えて、美紀ははっとした。
「父親の言うことをなんでも聞き入れて、しまいには一人で死んでいった母のことも。周りからもてはやされて、にこにこ笑顔を振りまいていた城田の兄のことも」
薄暗い図書室で、窓辺の席に腰かけて、ふと外を眺めていた人の横顔に、明の物憂い表情がかさなるようだった。線の細い、繊細そうな少年の顔。いつもぼやけた感じでよく見えなかったが、そのほうがいいとさえ思っていた。メガネをかけたら、現実に引き戻されそうな気がして。
「おれが愛人の子だってわかっているくせに、兄はおれをよく気にかけてくれた。おれは、兄貴のことを慕っていたんだよ、きみに、会うまでは」
とても静かな声なのに、胸をえぐられるような気がした。
「おれは二年のとき、図書委員だった。きみのことは、いつも見てたよ。山ほど本を借りていったね。毎日、毎日」
明はおかしそうに笑った。
「まじめに読んでるわけないと思ってた。でも、下校の時に、歩きながら読んでるのを見て、あきれたよ。あきれて、笑っちゃったよ」
ちらりと、明は美紀を見やった。その目にどんな感情がかくれているのか。考え出したら、そこのない水の下のずっと下の方まで引きずられていきそうな、そんな言いしれぬ悲しみに満ちた目だ。
「兄にその話をしたんだ。そうしたら、興味を持ったらしくてね。きみに会いに行ったんだ」
図書委員は、学ではなかったのだろうか。
「兄さんは、生徒会だよ。あんまり前にでる役目じゃなかったけど」
やさしい言葉で追いつめられるような気がする。美紀は息をつめた。
「きみは、読書するときはメガネをとるね。夕方、あの奥の席に座っているきみのそばにいくと、静かで・・・・・・でも満たされる気持ちがした。ほっとしたんだ。声をかけたら、きみは笑ってくれた」
「城田先輩」
鳥のさえずりが、空に響いた。
「兄さんとおれは、よく似てる。背丈も、髪型も。あのころは、よく間違えられたよ。でも、きみにそう呼ばれたときほど、ぐっさりきたことはなかった」
「・・・・・・ごめんなさい」
明は声もなく笑った。
「きみは悪くない。名乗らなかったおれが悪かったんだ。兄と間違えられて、名乗る勇気がなかったおれが悪いんだ」
美紀は言葉をなくしてしまった。
それでは、いつも図書室にいたあの人は、学ではなくて、明だったというのだろうか。信じられなかった。
寝癖のついた髪をかきむしると、明はうめくように続けた。
「でも、そのときは、腹が立って。その気持ちをどこにぶつけたらいいのか、わからなかった。もう、とっくにきみにひかれていたのかもしれない」
伸びをして、明は立ち上がった。
「兄さんは生まれながらに、全部を手に入れてる。おれは、二番目の女性から生まれたってだけで、どこか後ろめたい思いをしているのに。兄さんはやさしいよ。でも、そのやさしさは、特別をつくらない。みんなに同じくらいやさしい。おれも、その他大勢にすぎなかった」
「そんなこと」
言い掛けた美紀は、それ以上何もいえずに口をつぐんだ。
「特別なんて、思いこみだよ」
明のまなざしが、誰かとだぶって見えたのだ。
美紀を冷たくののしったあの子。
やるせない怒りをにじませて、美紀の前に立っていたあの子と。
「兄さんをはじめてにくんだよ。そのときは、そうせずにはいられなかった。きみのことも、にくかった。うわべの薄い優しさを、知らずに受け取ってにこにこしているきみが」
明は顔を両手で覆った。ふたたび美紀を見つめた目は、ただ笑んでいた。気持ちを隠して、自分を守る鎧。彼の笑みは、そうしたたぐいのものなのかもしれない。
「きみを傷つけたかった。泣かせたかった」
そういう人の方が泣き出しそうに見える。
「・・・・・・きみにキスしたのは、おれだよ」
昨日の醜態、体があちこち痛む。
そこは簡素な部屋だった。ベッドがひとつ、そして本棚がひとつ。
書名を目でたどるまでもなく、見知った背表紙が棚を埋めているのに気づいて、美紀はなんとなく意外な気持ちがした。
古事記、万葉集、日記文学。
今は絶版になって手に入らない全集が、乱雑だがチェリーウッドの本棚にちゃんとおさまっている。
「おはよう」
開け放された窓から、涼しい風が吹き込んでくる。静けさのうちに眠ったような街並みが見えた。窓辺に置かれたポトスに水をやっていた明は、振り返って苦笑した。
「きみが目を覚まさなかったから、うちにつれてきたよ。一人住まいだから、気兼ねしなくていい」
「どうして・・・・・・」
「どうして? それをきいてどうするの」
「どうして、私なの」
明は床をきしませて近づくと、ベッドに腰掛けて美紀の髪をなでた。
「最初は、きみが気にくわなかった」
目を伏せて、明は話し始めた。
「いいや、全部気にくわなかったんだ。何もかもが」
そういう明の横顔が、ふと傷つきやすい少年のそれのように見えて、美紀ははっとした。
「父親の言うことをなんでも聞き入れて、しまいには一人で死んでいった母のことも。周りからもてはやされて、にこにこ笑顔を振りまいていた城田の兄のことも」
薄暗い図書室で、窓辺の席に腰かけて、ふと外を眺めていた人の横顔に、明の物憂い表情がかさなるようだった。線の細い、繊細そうな少年の顔。いつもぼやけた感じでよく見えなかったが、そのほうがいいとさえ思っていた。メガネをかけたら、現実に引き戻されそうな気がして。
「おれが愛人の子だってわかっているくせに、兄はおれをよく気にかけてくれた。おれは、兄貴のことを慕っていたんだよ、きみに、会うまでは」
とても静かな声なのに、胸をえぐられるような気がした。
「おれは二年のとき、図書委員だった。きみのことは、いつも見てたよ。山ほど本を借りていったね。毎日、毎日」
明はおかしそうに笑った。
「まじめに読んでるわけないと思ってた。でも、下校の時に、歩きながら読んでるのを見て、あきれたよ。あきれて、笑っちゃったよ」
ちらりと、明は美紀を見やった。その目にどんな感情がかくれているのか。考え出したら、そこのない水の下のずっと下の方まで引きずられていきそうな、そんな言いしれぬ悲しみに満ちた目だ。
「兄にその話をしたんだ。そうしたら、興味を持ったらしくてね。きみに会いに行ったんだ」
図書委員は、学ではなかったのだろうか。
「兄さんは、生徒会だよ。あんまり前にでる役目じゃなかったけど」
やさしい言葉で追いつめられるような気がする。美紀は息をつめた。
「きみは、読書するときはメガネをとるね。夕方、あの奥の席に座っているきみのそばにいくと、静かで・・・・・・でも満たされる気持ちがした。ほっとしたんだ。声をかけたら、きみは笑ってくれた」
「城田先輩」
鳥のさえずりが、空に響いた。
「兄さんとおれは、よく似てる。背丈も、髪型も。あのころは、よく間違えられたよ。でも、きみにそう呼ばれたときほど、ぐっさりきたことはなかった」
「・・・・・・ごめんなさい」
明は声もなく笑った。
「きみは悪くない。名乗らなかったおれが悪かったんだ。兄と間違えられて、名乗る勇気がなかったおれが悪いんだ」
美紀は言葉をなくしてしまった。
それでは、いつも図書室にいたあの人は、学ではなくて、明だったというのだろうか。信じられなかった。
寝癖のついた髪をかきむしると、明はうめくように続けた。
「でも、そのときは、腹が立って。その気持ちをどこにぶつけたらいいのか、わからなかった。もう、とっくにきみにひかれていたのかもしれない」
伸びをして、明は立ち上がった。
「兄さんは生まれながらに、全部を手に入れてる。おれは、二番目の女性から生まれたってだけで、どこか後ろめたい思いをしているのに。兄さんはやさしいよ。でも、そのやさしさは、特別をつくらない。みんなに同じくらいやさしい。おれも、その他大勢にすぎなかった」
「そんなこと」
言い掛けた美紀は、それ以上何もいえずに口をつぐんだ。
「特別なんて、思いこみだよ」
明のまなざしが、誰かとだぶって見えたのだ。
美紀を冷たくののしったあの子。
やるせない怒りをにじませて、美紀の前に立っていたあの子と。
「兄さんをはじめてにくんだよ。そのときは、そうせずにはいられなかった。きみのことも、にくかった。うわべの薄い優しさを、知らずに受け取ってにこにこしているきみが」
明は顔を両手で覆った。ふたたび美紀を見つめた目は、ただ笑んでいた。気持ちを隠して、自分を守る鎧。彼の笑みは、そうしたたぐいのものなのかもしれない。
「きみを傷つけたかった。泣かせたかった」
そういう人の方が泣き出しそうに見える。
「・・・・・・きみにキスしたのは、おれだよ」