ミルクの追憶
「クロエ、おいで!キミの好きなレモンパイが焼けたよ」
それから一か月ほどたったある日のことだった。
キッチンでクロエを呼ぶ二コラの声が聞こえる。
けれどクロエはそれに答えずにある決心をしていた。
(…このままこうしていても、何も始まらないもの)
二コラと二人きりで過ごす日々は幸せだった。
けれど同時に物足りなかった。
それは彼女の不足したぶんの記憶と、“幸せでしかない”毎日の連続によるものだった。
そう、狂おしいほどに幸せでしかないのだ――。
「わたしは、すべてを知りたいのよ」
クロエは静かにそうつぶやくと、あの箱の前に立った。
これを開ければすべてがわかる。
そしてもっと二コラにことを知りたい。そしてもっと彼を愛したい。
「――クロエ?こないの?冷めちゃうよ!」
「えぇ、いま行くわ!」
震えそうになる声を押しとどめて務めて明るく返事をして。
視線を大きな箱に戻した。