神さまに選ばれた理由(わけ)
それぞれのシーズン
車では夫は横浜まで2時間何もしゃべらなかった。
私も眠ってしまった。
家では子供がふつーに迎えてくれた。。
土日の2日間をリハビリに当てて月曜日から会社に復帰した。
2週間の検査入院は驚くほど私の身体から
体力をうばっていた。食事もまずく、病気のショックもあって
後半はあまり食べなかったので体重も落ちていた。
出産も入れて7回の入院経歴をもっているが
食事は今回の病院がダントツ美味しくなかった。
会社は相変わらずにぎやかだった。
あちこちでけたたましくなっている電話、課長の怒鳴り声、
女子の笑い声が入交り、不快以外のなにものでもなかったが
妙に落ち着いた。
仕事の電話をとったが「ーーでございます。」という社名がはっきり言えなかった。
今に始まったことではない。去年の秋頃からだ。
最初は笑ってすましていたが、長く続くとおかしな目で見られるようになる。1つ2つとそんな言葉が
増えていって、そのうち日常意会話まで言葉が出づらくなっていった。
歩き方もそうだ。
最初はバランスが悪く少しふらついてただけだが、最近は足が絡まらないように
みっともない歩き方だ。太ったおじさんに「どうしたのその歩き方?」と
指摘されたこともある。「自分の歩き方だって人には言えないだろう。
充分へんだ。」と思うが・・・・・・
確かに私の足は意思が効かなくなった。もう病気を隠せない。
同じく右腕もそうだ。
昔は字が綺麗と有名だった。社内のお香典封等に名前を書くのをよく頼まれたものだが、
いつの頃か腕が言うことを効かず自由に動かなくなった。
パソコンのキ-ボードを打つのも間違えて時間がかかるようになった。
パソコンが遅くなったのが1番早い変化だったかもしれない。
なにより変わったのは人だ。仲のよかった女子は気を使ってか何も聞かず足早に去ってゆく。
化粧室でもそうだ。
私も変調を自分から語りたくなかった。
会社の総務に書類を提出した。例の松岡医師が病状をグレーにと言う
私の願いを断って病名をはっきり書いたやつ。
おかげで即刻関係者が呼ばれて
会社生活において気をつけなければいけないことが再確認された。
メンバーは産業医と看護師、総務とうちの上長と私。
通勤途中で具合いが悪くなった時の対処の仕方とか・・・・だ
病気は知られたがありがたかった。
結局松岡医師は正解だったのだろうか・・・・・・・
会社の先輩と食事に行った。
病気のことを初めて会社の友人に打ち明けた。
自分のためにもなるべく仕事は続けて子供のために頑張れとはげまされた。
「あと10年発病が先だったら仕事も子育てもすべて終わっていたのに」と言う私に
「全部終わっていたら頑張れないよ.今だからやることいっぱいで子供のために頑張れるでしょう。」と言う友人。
確かに子育てはまだ途中なのであった。
今年の冬は特別寒い日が多く足が必要以上に重かった。
ますます歩き方がおかしくなった。
天気も悪く、春も遅かった。
退院の前日、先生のメールアドレスを無理やりもらった。
はじめて名前を聞く病気でわからないことも多いだろうから
というのが理由だ。
なんどかやりとりをした。
ここでも医師は患者とメールのやりとりをするのは・・・・」という。
本意ではないのだろう。でも私にはどうしても答えの出せないことがあった。
私がこの病気になった理由である。
例えばがんならタバコの吸いすぎや、暴飲暴食のつけなど自分なりの
理由があるから仕方ないが、理由、原因のないこの病気に
なぜ私がなるのだ。
医師は完治不能な病気になったからと必ずしも不幸ではないという。
神は単に完治不能という不幸を背負わされるだけでなく、その試練に
耐えうるだけの幸せもくださるという。
それに気がつくかどうかは自分しだいらしい。
ならばこの病気になった私はどうなのだろう。
素晴らしいことが起こると引き換えに神様に選ばれたのか、
流れ弾に当たっただけの損な役回りなのか
それは自分次第だと彼は言うだろう。
わかっている。わかっているけど
だれかに嘘でもいいから言ってもらいたかった。
けして流れ弾に当たっただけではないと・・・・・
そうすれば今年50才になるおばさんが、わざわざ若い青年を困らせることはないのだ。
でも「神様なんていない」と癌で苦しんだ友人は言った。
私も眠ってしまった。
家では子供がふつーに迎えてくれた。。
土日の2日間をリハビリに当てて月曜日から会社に復帰した。
2週間の検査入院は驚くほど私の身体から
体力をうばっていた。食事もまずく、病気のショックもあって
後半はあまり食べなかったので体重も落ちていた。
出産も入れて7回の入院経歴をもっているが
食事は今回の病院がダントツ美味しくなかった。
会社は相変わらずにぎやかだった。
あちこちでけたたましくなっている電話、課長の怒鳴り声、
女子の笑い声が入交り、不快以外のなにものでもなかったが
妙に落ち着いた。
仕事の電話をとったが「ーーでございます。」という社名がはっきり言えなかった。
今に始まったことではない。去年の秋頃からだ。
最初は笑ってすましていたが、長く続くとおかしな目で見られるようになる。1つ2つとそんな言葉が
増えていって、そのうち日常意会話まで言葉が出づらくなっていった。
歩き方もそうだ。
最初はバランスが悪く少しふらついてただけだが、最近は足が絡まらないように
みっともない歩き方だ。太ったおじさんに「どうしたのその歩き方?」と
指摘されたこともある。「自分の歩き方だって人には言えないだろう。
充分へんだ。」と思うが・・・・・・
確かに私の足は意思が効かなくなった。もう病気を隠せない。
同じく右腕もそうだ。
昔は字が綺麗と有名だった。社内のお香典封等に名前を書くのをよく頼まれたものだが、
いつの頃か腕が言うことを効かず自由に動かなくなった。
パソコンのキ-ボードを打つのも間違えて時間がかかるようになった。
パソコンが遅くなったのが1番早い変化だったかもしれない。
なにより変わったのは人だ。仲のよかった女子は気を使ってか何も聞かず足早に去ってゆく。
化粧室でもそうだ。
私も変調を自分から語りたくなかった。
会社の総務に書類を提出した。例の松岡医師が病状をグレーにと言う
私の願いを断って病名をはっきり書いたやつ。
おかげで即刻関係者が呼ばれて
会社生活において気をつけなければいけないことが再確認された。
メンバーは産業医と看護師、総務とうちの上長と私。
通勤途中で具合いが悪くなった時の対処の仕方とか・・・・だ
病気は知られたがありがたかった。
結局松岡医師は正解だったのだろうか・・・・・・・
会社の先輩と食事に行った。
病気のことを初めて会社の友人に打ち明けた。
自分のためにもなるべく仕事は続けて子供のために頑張れとはげまされた。
「あと10年発病が先だったら仕事も子育てもすべて終わっていたのに」と言う私に
「全部終わっていたら頑張れないよ.今だからやることいっぱいで子供のために頑張れるでしょう。」と言う友人。
確かに子育てはまだ途中なのであった。
今年の冬は特別寒い日が多く足が必要以上に重かった。
ますます歩き方がおかしくなった。
天気も悪く、春も遅かった。
退院の前日、先生のメールアドレスを無理やりもらった。
はじめて名前を聞く病気でわからないことも多いだろうから
というのが理由だ。
なんどかやりとりをした。
ここでも医師は患者とメールのやりとりをするのは・・・・」という。
本意ではないのだろう。でも私にはどうしても答えの出せないことがあった。
私がこの病気になった理由である。
例えばがんならタバコの吸いすぎや、暴飲暴食のつけなど自分なりの
理由があるから仕方ないが、理由、原因のないこの病気に
なぜ私がなるのだ。
医師は完治不能な病気になったからと必ずしも不幸ではないという。
神は単に完治不能という不幸を背負わされるだけでなく、その試練に
耐えうるだけの幸せもくださるという。
それに気がつくかどうかは自分しだいらしい。
ならばこの病気になった私はどうなのだろう。
素晴らしいことが起こると引き換えに神様に選ばれたのか、
流れ弾に当たっただけの損な役回りなのか
それは自分次第だと彼は言うだろう。
わかっている。わかっているけど
だれかに嘘でもいいから言ってもらいたかった。
けして流れ弾に当たっただけではないと・・・・・
そうすれば今年50才になるおばさんが、わざわざ若い青年を困らせることはないのだ。
でも「神様なんていない」と癌で苦しんだ友人は言った。