お医者様に好かれるだなんて、光栄なことだと思ってた
1
小児科部長と売店の主婦
「200円のお返しになります。ありがとうございましたー」
今年26歳になる吉住真紀は、レジスターのドロアを閉めながらふぅっと一息ついて、白い壁を見渡した。
売店の中には、まだ数人の客が商品を見ているので、レジで会計をしに来るのも時間の問題だ。
すぐに判断してもう一度ドロアを開け、棒金の一円を下ろしておく。あと5枚くらいはコインケースの中に残っていたが、手間取るとお客さんを待たせてしまう。
4店舗ものフーズバーのオーナーである吉住を夫に持つ真紀は、数年懇願してようやくこのパートの地位を手に入れたことに、今は大変満足していた。
朝は幼稚園に長男を、残りの3人の息子は保育園に預けてこの病院の売店に来るには大変なエネルギーが必要で、朝帰りの夫の朝食もまともに作れない状態だが、それでも、自分の時間を作るということにとても感動しながらこの1か月働いてきた。
夫の客であるというこの病院の看護婦長のコネを使って入ったが、実際婦長と会ったのは最初の一度きりであり、妙な監視の目もなく気楽に仕事に打ち込めるところも気に入っている。
「あ、本間先生」
30半ばの白衣の医師はこの病院に十数人いるが、その中でも毎日野菜ジュースを購入してくれるのは、この人しかいない。
「いつものお願いします」
本間は、にっこり笑顔で注文すると、真紀はわざわざレジから一旦出て、ショーケースまでパックのジュースを取りに行った。
「お疲れ様です。今日は混んでますね」
「そうだねぇ、小児科じゃないからいいんだけど」
本間は笑顔を崩さず、ヴィトンのコインケースから100円硬貨を出す。
「はい、ありがとうございます」
真紀はもちろん結婚指輪を嵌めた白い手でその硬貨を受け取り、レジの中にしまった。
「…………、吉住さん、今日何時まで?」
本間は真顔で聞いてくる。
「えっと、今日は3時です。役所行こうと思ってちょっと早めに……」
「あそう。渡したいものがあるから、4時くらいに一旦会いたいんだけど、どうかな」
そう言われても、3時上がりなんですけど……。
「無理なら今から持ってくるけど、いい?」
「あ、はい。大丈夫です」
言うなり、客がレジに並ぶ。
「じゃあ、取って来るからちょっと待ってて」
本間は白衣を翻し、売店から出ていく。
真紀はその後ろ姿をちらりと確認してから、2つのスナック菓子の会計を済ませた。
入社したその日に本間小児科部長と初めて出会い、それから毎日彼は野菜ジュースを買いに来てくれる。医者の不養生とはこのことで、背丈もあるが恰幅がよく、健康のために、と野菜ジュースを毎日購入しているのであった。
年は36歳、もちろん既婚者で小学生の子供が2人。表情が若いせいか目元がきりりとしていて、子供からすれば少し怖いお医者さんに見えるかもしれないが、メガネで剥げた医師が多い中、本間は目立つ存在だった。
その本間の日課に自分が介入していると思うと、優越感に浸れたが、それが仕事に行きたいという気持ちに繋がっているのかもしれない、と少しだけ思う程度ではっきり自覚はしたくない。
ここで自覚をしてしまい、本間に会いに仕事へ来ているなんて、そんな自分を許せるはずがなかった。
もちろん、10も年上の心配性の夫も許すはがない。
「ごめん、ごめん、これこれ」
本間は数分して、1枚の白い封筒を手に小走りでやって来た。
「あ、はい」
何も考えずに受け取る。
「3枚もらったから、どうかなあと思って」
「中、見てもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
本間は真顔で、言う。
真紀は、それに合わせて中を覗いた。
「映画……ですか?」
有名女優と人気の俳優がバイクで2人乗りしている絵が載ったチケットが、1枚入っている。
「そう。良かったら、どうぞ」
ということは、おそらく残りの2枚は自分で使うのだろう。夫婦で。
「ありがとうございます……」
夫と行くためにはあと1枚チケットを買わなければならない。
「残り2枚あるんだけどそれもちょっと迷っててね。2枚必要なら、あげるけど」
どうしよう。もう1枚下さいとも言いにくい。
「それか、もう1人誰か誘って3人で行くか」
「え?」
本間の顔を見た。相手もこちらを見ている。
「僕と、吉住さんと、もう1人。受付の子でも誘う?」
だが、ここへ入ってまだ1か月で、それほど仲が良い人がいるわけでもない。
「いえ、私は誘えるような人もいませんし……」
「あそう。じゃあ、後は考えとくよ。日にちは……次いつ休み? 僕12日会議で休診するんだけど、午後からは空いてるから。よかったら、合わせてくれる?」
唐突な誘いだが、まあ、なんともラフで、妙な期待と勘違いをして断るのも恥ずかしい。
「あっ、はい、あの、大丈夫だと思います……」
売店の方はもう1人のパートの人に代わりに出てもらえばなんとかなるだろう。
「じゃ、決まり。会議が11時くらいには終わるかなー……。中央駅で待ち合わせして、ランチでもしてから映画行こうか」
うわ、4時に帰るのぎりぎりだな……と思いながら、頷くしかできない。
「よし、決まり。じゃあ、お疲れ様です」
本間は、さっと立ち去って行く。
なんともまあ、行動力のある人だ。
こちらの意見をあまり聞くことがないが、表情で読み取ってくれているのだろうか……それとも、医者ってそういうものだろうか……。
今年26歳になる吉住真紀は、レジスターのドロアを閉めながらふぅっと一息ついて、白い壁を見渡した。
売店の中には、まだ数人の客が商品を見ているので、レジで会計をしに来るのも時間の問題だ。
すぐに判断してもう一度ドロアを開け、棒金の一円を下ろしておく。あと5枚くらいはコインケースの中に残っていたが、手間取るとお客さんを待たせてしまう。
4店舗ものフーズバーのオーナーである吉住を夫に持つ真紀は、数年懇願してようやくこのパートの地位を手に入れたことに、今は大変満足していた。
朝は幼稚園に長男を、残りの3人の息子は保育園に預けてこの病院の売店に来るには大変なエネルギーが必要で、朝帰りの夫の朝食もまともに作れない状態だが、それでも、自分の時間を作るということにとても感動しながらこの1か月働いてきた。
夫の客であるというこの病院の看護婦長のコネを使って入ったが、実際婦長と会ったのは最初の一度きりであり、妙な監視の目もなく気楽に仕事に打ち込めるところも気に入っている。
「あ、本間先生」
30半ばの白衣の医師はこの病院に十数人いるが、その中でも毎日野菜ジュースを購入してくれるのは、この人しかいない。
「いつものお願いします」
本間は、にっこり笑顔で注文すると、真紀はわざわざレジから一旦出て、ショーケースまでパックのジュースを取りに行った。
「お疲れ様です。今日は混んでますね」
「そうだねぇ、小児科じゃないからいいんだけど」
本間は笑顔を崩さず、ヴィトンのコインケースから100円硬貨を出す。
「はい、ありがとうございます」
真紀はもちろん結婚指輪を嵌めた白い手でその硬貨を受け取り、レジの中にしまった。
「…………、吉住さん、今日何時まで?」
本間は真顔で聞いてくる。
「えっと、今日は3時です。役所行こうと思ってちょっと早めに……」
「あそう。渡したいものがあるから、4時くらいに一旦会いたいんだけど、どうかな」
そう言われても、3時上がりなんですけど……。
「無理なら今から持ってくるけど、いい?」
「あ、はい。大丈夫です」
言うなり、客がレジに並ぶ。
「じゃあ、取って来るからちょっと待ってて」
本間は白衣を翻し、売店から出ていく。
真紀はその後ろ姿をちらりと確認してから、2つのスナック菓子の会計を済ませた。
入社したその日に本間小児科部長と初めて出会い、それから毎日彼は野菜ジュースを買いに来てくれる。医者の不養生とはこのことで、背丈もあるが恰幅がよく、健康のために、と野菜ジュースを毎日購入しているのであった。
年は36歳、もちろん既婚者で小学生の子供が2人。表情が若いせいか目元がきりりとしていて、子供からすれば少し怖いお医者さんに見えるかもしれないが、メガネで剥げた医師が多い中、本間は目立つ存在だった。
その本間の日課に自分が介入していると思うと、優越感に浸れたが、それが仕事に行きたいという気持ちに繋がっているのかもしれない、と少しだけ思う程度ではっきり自覚はしたくない。
ここで自覚をしてしまい、本間に会いに仕事へ来ているなんて、そんな自分を許せるはずがなかった。
もちろん、10も年上の心配性の夫も許すはがない。
「ごめん、ごめん、これこれ」
本間は数分して、1枚の白い封筒を手に小走りでやって来た。
「あ、はい」
何も考えずに受け取る。
「3枚もらったから、どうかなあと思って」
「中、見てもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
本間は真顔で、言う。
真紀は、それに合わせて中を覗いた。
「映画……ですか?」
有名女優と人気の俳優がバイクで2人乗りしている絵が載ったチケットが、1枚入っている。
「そう。良かったら、どうぞ」
ということは、おそらく残りの2枚は自分で使うのだろう。夫婦で。
「ありがとうございます……」
夫と行くためにはあと1枚チケットを買わなければならない。
「残り2枚あるんだけどそれもちょっと迷っててね。2枚必要なら、あげるけど」
どうしよう。もう1枚下さいとも言いにくい。
「それか、もう1人誰か誘って3人で行くか」
「え?」
本間の顔を見た。相手もこちらを見ている。
「僕と、吉住さんと、もう1人。受付の子でも誘う?」
だが、ここへ入ってまだ1か月で、それほど仲が良い人がいるわけでもない。
「いえ、私は誘えるような人もいませんし……」
「あそう。じゃあ、後は考えとくよ。日にちは……次いつ休み? 僕12日会議で休診するんだけど、午後からは空いてるから。よかったら、合わせてくれる?」
唐突な誘いだが、まあ、なんともラフで、妙な期待と勘違いをして断るのも恥ずかしい。
「あっ、はい、あの、大丈夫だと思います……」
売店の方はもう1人のパートの人に代わりに出てもらえばなんとかなるだろう。
「じゃ、決まり。会議が11時くらいには終わるかなー……。中央駅で待ち合わせして、ランチでもしてから映画行こうか」
うわ、4時に帰るのぎりぎりだな……と思いながら、頷くしかできない。
「よし、決まり。じゃあ、お疲れ様です」
本間は、さっと立ち去って行く。
なんともまあ、行動力のある人だ。
こちらの意見をあまり聞くことがないが、表情で読み取ってくれているのだろうか……それとも、医者ってそういうものだろうか……。
< 1 / 9 >