お医者様に好かれるだなんて、光栄なことだと思ってた
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自宅の駐車場に車を入れ、玄関を開ける。
なるべく、平常心でいよう。そのことだけに集中していたかったが、玄関の中に入るなり、子供の靴がないことに気付いて一気に不安になった。
慌てて靴を脱ぎ捨てリビングに入り、
「子供は!?」
見当たらない。リビングには、ソファに深く腰を掛け、タバコを吸いながらテーブルにノートパソコンを広げている夫の姿だけだった。
「あれ? みんな、どこ?」
「直がみてる」
「え、何で?」
こちらを見ようともしない吉住を不審に思いながら、近寄った。
吉住は、突然荒い手つきでパソコンの画面をこちらに向けた。
真紀の位置から画面がよく見えず、先に吉住の顔を見た。
「……何?」
「GPSつけてるんだよ、その携帯」
自分の顔が歪んでいくのが分かるほどだった。緊張で瞬きができずに目が渇く。
吉住がこちらを見ず、忙しくタバコを吸っているのが気配だけで分かる。
真紀はその怒りに満ちた顔を見る勇気はなく、ただ立ち尽くした。
「け……けい、たい……」
なんとか、声が出る。吉住の視線を感じた。分かっていたが、視線を合わせられなかった。
「真紀さんが持ってるその携帯。GPS機能がついてる。設定してるんだよ。ちゃんと買った時から。それで、このパソコンで、どこを通ってるか確認できる」
そう言われて、画面を見た。その地図には通った所と思われる道に赤いラインが引かれていた。
ホテルに行っていることが知られた……。だが、落ち着いて考える。客室に行ったか、カフェに行ったかまでは分からない。
「時間もちゃんと出る。2時29分から5時24分。おおよそ3時間。
本間部長が大阪から帰ってきたら、即ホテルってわけか!!」
突然の大声に顔を上げた。立ち上がった吉住は、真紀の肩を掴み、強い力を入れてソファに押し倒した。
肩が相当痛い。
だが、それ以上に心が痛くて、何も口から出なかった。
馬乗りで抑え込まれたまま、どうされるのか分からず、怖くて顔を背けて目を閉じた。
しかし、ふっと力が弱まる。
「ほんとにしてたわけ? ……石鹸の匂いがする……」
唇が震えた。
目尻がだんだん熱くなる。
すぐに吉住は真紀の身体から離れると、ソファの下になだれ込んだ。
「最低……」
小さな声だがはっきり聞こえた。
手が震え、冷たい涙が流れ、耳の辺りが冷たくなる。
「最低だな……最っ低だよ!! どれだけ俺が心配したと思ってるんだよ!!
お前を外に出すの嫌だって何度も言ったろ!?
だけど、生きがいみたいに働くから我慢してきたのに……」
聞いたこともない荒い言葉遣いとお前と呼ばれたことに、驚いて声が出ない。
そんなつもりじゃなかった。
浮気したいがために、働きたいわけじゃなかった。
「……婦長が言ってたんだ……本間っていう小児科の部長がお前を狙ってるって。
だけど俺はお前が俺のこと信じてるっていうから、俺もお前のこと信じてたんだぞ!?
それにお前も俺の耳に入るの分かってんだろーが!! それとも俺に知らせたかったのかよ!?
離婚して、その医者の所に行こうと思ってんのか!!!」
そんなわけない……そうじゃないけど……。
乱暴な口調で責められて、恐ろしさと同時に悲しさが込み上げてくる。
それに、今は何を言っても言い訳にしかならない気がして、言葉が出ない。
「何か言えよ! 真紀!」
ドンッと拳で床を叩かれた。
怖くて、慌てて、言葉を探す。
「私はっ……私は……」
何をどう言えばいいのか分からない。
「…………」
吉住は、ただ黙って背中を向け、頭を垂れている。
「……私は……」
言葉はそれしか出てこない。
「お前を抱く気はしないよ」
冷たい、一言だった。あまりにも突然で、声にならない声が小さく出たが次の吉住の言葉にかき消された。
「今後、一切」
そん……な……。
「子供はベビーシッターにみさせる。
お前は直が用意したアパートに住め。
いいか、そこから出るな」
「…………」
ベビーシッター?
なんで、そんな……。
「何?」
吉住はこちらの視線を感じて少し身体をねじらせ、真紀の顔を見た。
「ベビーシッターって……」
「それが気になるくらいなら、他の男とヤルなよ。分かってるだろ、バレることくらい」
「…………ごめ……」
「謝られたくないよ。むしろ。真紀が今まで俺のことどんな風に見て来たのか、俺は知ってるようで知らなかっただけなんだろうけど。
謝るってそりゃないでしょ」
目を伏せると同時に、涙がただ流れた。
「…………お前を殺して、俺も死にたい気分だよ」
その吉住の横顔に、涙が真っ直ぐ頬をつたった。
吉住が、出会ってから今までで初めて見せた、涙だった。
それを見たと同時に、再び涙が溢れだす。
声を出してはならない気がして、歯を食いしばって必死に耐える。
「もうお前を自由にさせない」
吉住は、手の甲で己の顔を拭うと強く宣言した。
「2度とお前を外には出さない。2度と俺以外の男には触れさせない。
離婚はしない。
絶対にしない。
一生、俺の子供を孕ませさせてやる」
今、2度と抱く気がしないと言ったが、怒りで我を忘れて前後を覚えていないようだった。
ただ、その言葉がすべて本気だということは分かる。
どこにも、嘘はない。
「俺の手の中から、一生逃れられないようにしてやる」