純潔の姫と真紅の騎士
前触れ
「一匹逃がした……。あと一匹だったんだ。あと一匹のところで黒い靄がでてきて、俺たちを飲み込んできた。その靄にあてられて、チェレンが吐きそうって言い出して倒れた。俺はなんともなかったけど。それからはとにかくチェレンを助け出すことに必死だった。……すまねぇ」
ハンスの言葉をカイは眉をしかめながら聞いていた。
黒水晶が動き出したのだ。
めんどくさいことが起き出したもんだ。
「いや……チェレンを第一に考えてそこから逃げ出したお前には感謝している。あのまま靄に包まれていたらチェレンどころか、お前までいなくなっていたかもしれないしな。それに……あんな砂漠で馬もいなければ逃がした奴も生きてはいけないだろ。任務ご苦労。お前も少し休憩しろ。黒水晶の気にあてられてかは知らないが、少し顔色が悪い」
カイが悟ったそうにそう言うと、ハンスは力が抜けたかのように笑った。
「あぁ。ちょいと休むわ。ジャルーヌ様に詫びねぇといけねぇのは俺なのにな……。すまねぇ、カイ」
カイは苦笑し、しっしと手を振った。
「さっさと寝ろ。お前らしくない」
ハンスも苦笑を浮かべ、自室へと足を進めた。
その直後、シノがカイの隣に立ち、ハンスの後ろ姿を眺めてつぶやいた。
「黒水晶の靄で間違いないらしい。だが、今までの靄と違って……何かネットリしていたと聞いた」
「そうか……。向こうもそろそろ本始動というところか」
「あぁ。だが、力的にこっちが負けている。どうする、カイ」
「今はどうもできない。とりあえず黒水晶の居場所さえ掴めれば……」
「……それができたらここまで苦労はしてないがな……」
シノがため息をつきながら人形のウサギに強引にケーキを押しつけていたアネモネを抱き上げた。
「……アネモネ、人形の口が汚れてる」
「うん。なかなか食べてくれないのねぇ。ケーキ、嫌いなのかなぁ。美味しいのにねぇ。シノ~、ティッシュ取って~」
シノがため息をつきながらティッシュの箱を取った。
シノはアネモネに人形はケーキが食べれないと言わない。
言ってもアネモネには何の意味もないからだ。
少し前、ハンスがアネモネにウサギの人形は紅茶を飲まないと言ったときもアネモネは
「でもねぇ、喉が乾いたって泣いてたよねぇ。だから紅茶を飲ませてあげたら笑ったんだぁ。喜んでくれたのにぃ、紅茶をあげちゃぁダメなのぉ?」
と不思議そうにハンスを見上げていた。
それを見てからというもの、アネモネの不思議な行動に対して誰も何も言わなくなった。
ただ、さすがに限度を越えたことをしているときは、アネモネの教育係のような役目を請け負っているシノが注意することになっている。
ウサギの口を拭きながらアネモネがカイとシノを見上げた。
カイとシノはアネモネの視線に気づき、アネモネを見る。
「黒水晶にはお気に入りの女の子がいるって聞いたよぉ。その子はねぇ、黒水晶のご機嫌とりをしてるんだってぇ。だから黒水晶の靄にも耐性が強いんだってぇ。でもぉ、黒水晶の靄はその子以外にはとっても苦しいものだからねぇ、黒水晶のお気に入りの子はねぇ、黒水晶と一緒に地下奥底に監禁されてるんだってぇ。その子さぁ、すごいねぇ。黒水晶のお気に入りなんてさぁ。もし<聖剣士六士>の中の誰かがお気に入りになったら黒水晶に頼んで平和にできるのかなぁ」
シノが珍しく一瞬だけ驚いた顔をした。
その驚きはアネモネが自分たちに話しかけてきたことに驚いたのか、それともその情報に驚いたのか、どちらかはわからなかった。
「アネモネ、その情報、どこで聞いた?」
アネモネはシノが持っているティッシュ箱からティッシュをとりながら無表情に言った。
「その辺をうろちょろしてるときに聞いたよねぇ。なんだか極秘らしいけどねぇ、ペラペラ喋っちゃってたねぇ。ダメな子だねぇ」
アネモネが俺たちからの質問にまともに答えてくれる可能性はほぼ0%に近い。
だから、今回もあまり期待はしていなかった。
アネモネはカイたちに話しかけているのではなく、人形のウサギに話しかけているのだ。
「アネモネの情報が確かだとすると、その”お気に入り ”を見つけないといけないな」
「……あぁ」
カイはとりあえず報告書にアネモネの話を書き留めていく。
アネモネがウサギの人形の口を拭き終わって、シノの首にしがみつきながら報告書を見て呟いた。
「でもさぁ、可哀想だよねぇ、その子。苦しいだろうねぇ。地下深くでさぁ、光がないところで黒水晶と二人きりで怖いだろうねぇ。人が殺されていくのをみているんだろうねぇ。もしもねぇ、その子の心が綺麗だったらさぁ、人が殺されているところから目を背けたいだろうねぇ。でもさぁ、きっと黒水晶がそれを許してくれないんだろうねぇ。きっとさぁ、どこかで助けて助けてって泣いてるんだろうねぇ」
アネモネがシノの首によりいっそう強くしがみついた。
アネモネは他人の心を他人よりも強く感じる。
だから、他人の気持ちが苦しいときはいつも聞こえないようにアネモネは耳をふさいでいた。
シノがアネモネの頭をそっと撫でた。
「……アネモネは優しいな。そうだな、悲しいな。可哀想だな。だけど、きっと仕方ないことなんだろうな」
カイの書類に文字を書いていた手が止まった。
助けてと叫んでいるのだろうか。
黒水晶に魅入られてしまった少女。
光も知らず、ただ闇の中で生きる。
そんな人生は、どこか悲しい……。
「もしさぁ、助けてって叫んでいたらさぁ、助けてあげたいねぇ」
アネモネの言葉にシノとカイは何も言わなかった。