魅惑のくちびる

当然いつものスーツ姿でもなく、こないだの私服のような決めた格好でもない。

グレーのTシャツにカーゴパンツを身に付けた松原さんの姿は、わたしの気分を更に楽な方へと導く。

シートベルトを締めたのを確認すると、松原さんは車を発進させた。


「オレの記憶力に寄れば、その服、会社で見た時のままな気がするけど。

……もしかして家に帰ってないとか?」


この状況にそぐわない、軽快なBGMの音楽を切ると、車内は一気に空気が重たくなる。

目の辺りにある水たまりはどんどんかさを増してゆき、容量を超えると一気に氾濫して留まることができなくなった。


「彼氏に、もう終わりかもって言われました……。

松原さんみたいに、すべて察してわたしを理解してくれる人なら、どんなに楽なんだろう」


泣きながら訴えるわたしの言葉に、松原さんは何も言ってはくれなかった。

まっすぐ前を見つめ、いつもより難しい顔をしたまま運転を続けている。


……車の外も中も真っ暗なまま、ウィンカーの音だけが規則的なリズムで耳に刻まれていた。

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