魅惑のくちびる
「雅城とちょっと喧嘩しちゃって。しばらくここから会社に通わせて」
「喧嘩って……。今までそんなことなかったじゃない。いったいどうしたの?」
雅城は、実家には同棲を始める時に一度挨拶に来ただけだけれど、とても好印象だと両親にも気に入られていたから、喧嘩という二文字がお母さんには信じがたいみたいだ。
「喧嘩もするわよ。たまにはね。」
わたしはそれだけ答えると、階段を上って自分の部屋に向かった。
タンスからひっぱりだしたTシャツとショートパンツに着替え終わる頃、お母さんがノックして入ってきた。
「この頃、あまり換気していなかったから少し窓を開けた方がいいよ。」
もう、雅城とのことは質問して来ない。
元々口うるさくないお母さんのことだから、きっと察してくれたに違いない。
「ありがとう。
ねぇ、わたし、久々にいつものとこでクッキー買って来たんだ。
コーヒー入れるから一緒に食べようよ。」
実家にいる頃は、何か理由をつけては通っていたおなじみのケーキ屋、マルシェ。
市場という名にふさわしく、品揃えが豊富なことと、ケーキは勿論だけど、並んで焼き菓子がとてもおいしくてお気に入りのお店だ。