魅惑のくちびる

家に入ると、雅城は洗面所で手を洗っているところだった。

「ただいま」

後ろ姿に小さく声を掛けてみるけど、反応は無かった。

わたしはそのままキッチンへ向かうと、コップに水を汲んで口をゆすいだ。

水道水特有の臭みが、今日はいつもより強く感じた。

何もかもが、わたしを責めている気さえしてくる――。


「出かけたのか?」

いつもならそれから始まる、詮索タイム。

でも今日は、何も言わないままネクタイを外してソファに座ると、ワイシャツを着たままでテレビを見ていた。

言われてると、信用がないなぁと滅入るお小言も、無くなると急に寂しいのは人間のわがままなんだろうか。

それとも……わたしは自分がしていることへの罪悪感から、雅城に早くいつものように戻って欲しいと願っているんだろうか。

< 86 / 240 >

この作品をシェア

pagetop