想你
 
 結果、妻は以前と何も変わらなかった。
 「まだ好きか分からない……」
 としか言わなかった。
 4月のある日、2人の思いでの場所に行くことで、
 付き合っていた頃の気持ちを思い出してもらえるのではないかと考えた。
 
 それは学生時代に2人で秘密に生活していた湘南平に咲く桜だった。
 黒の夜空に桜色の雪が舞う。
 その雪は、人間であれば誰しもが言葉を忘れて感動する光景だった。
 一年に一回だけ見ることが許される光景。
 2人の気持ちがあの頃の様に、お互いを思いやれるのであれば、
 もう一度やり直せると思っていた。
 いささかそうすることでやりなおせる自信すらあった。
 しかしそれは、自分の中でも最後の手段だった……。
 もし最悪の結末を迎えた場合、間違いなく暗闇の中に足を落として、
 2度と帰ってくるはできない。
 その安易な想像が作り出した恐怖から、長い間妻に言い出せずにいた。
 意を決して妻にその考えを伝えた時、自分が考えていた最悪のシナリオを、
 簡単に凌駕する答えが返ってきた。
 「本当に行きたくない、だから行けない」
 その言葉は、自分が考えていた浅はかな期待を綺麗に吹き消した。
 そこに元々何も無かったかのように。
 あまりの衝撃に耐えられず、その場にいることができなかった。
 防衛本能が体を部屋から追い出していた。
 車までの道すがら、後ろから追いかけてきてくれないかという絶望に似た期待をしていた……

 涙を堪えつつ、一人で車に乗り込み湘南平に向かった。
 深夜の湘南平はカップルで賑わっていた。
 一人で桜を見ている人間はどんな方法で探してもいなかった。
 3年前、4年前、妻とこの桜を見ていたと思うと胸が張り裂けそうだった。
 今でも二人の面影をその先の鉄塔に、その道に映し出すことができた。
 2人は手を繋ぎ何年経ってもこの桜を見に来ようと約束をしている。
 
 これ以上桜を見ていると、自分の中に脈打っている硬い何かが膨張して、
 胸の奥で破裂してしまいそうだった。
 逃げるように車に乗り込み、頭の中は早く湘南平を逃げ出すことしか考えていなかった。
 湘南平の帰り道、飲酒検問の網にかかる。こんなに弱った魚でも容赦はない……。
 「お一人ですか?」
 「そうです……」
 「何されてたんですか」
 「桜を見に……」
 「一人でこんな時間に花見ですか? まあとりあえず息吐きかけてください」
 明らかに怪しんでした。
 確かにこんな平日の夜中に横浜ナンバーの車が、
 わざわざ平塚まで一人で桜を見に来るのは怪しい。
 車内が必要以上に詮索される。
 でも、今はとにかく何も話しかけて欲しくないし、触れても欲しくなかった。
 「お酒も飲んでないようなので、気をつけて帰ってください。
  あと、善からぬことは考えないでくださいね」
 それだけ言い残すと、また次の獲物へと食いついていった。
 警察官も私の思いつめた顔と雰囲気を感じ、自殺願望者だと勘違いしたのかもしれない。
 自分が惨めでしょうがなかった。
 周りの楽しそうな雰囲気が余計に自分を惨めにさせていた。
 夜中2時の湘南バイパスを走っている車は、私の車以外、1台も無かった。
 暗闇から道が現れ、バックミラー越しに消えていく。
 自分の周りは漆黒の色しかなく、先は何も見えなかった。
 どこへ続いているのか分からない道のように感じた。
 それは悪魔がパズルを並べ、別の世界へ導いているかのようにも感じた。
 やり場のない怒りと悲しみだけがアクセルを踏み、
 どこへ向かっているのか分からず走っていた。
 時速は160キロに達していた。
 目の前にカーブが現れた時、
 「このまま真っ直ぐ進めば、何もない無の世界に行ける。
  そこには苦しみも、痛みも、寂しさもない……」
 何度もそう考えた……。
 でも結局できなかった。直前でハンドルをきってしまうのだ。
 気がつくと頬は濡れていた。
 もうどこにも行き場が無かった。
 桜を見ることも、家に帰ることも、どこにも行けない。
 行く場所が無かった。
 前も後ろもあざけ笑うかのように絶望感しかなかった。
 頬が濡れたのは、中学生の時に飼っていた猫が死んだ時以来だった。
 それまで自分には心がないのではないか、と思うほど涙を流したことがない。
 
 
 目が滲み、前が見えなかった。
 でもそれでよかった。
 何も現実を見たくなかった。
 車内に嗚咽が染みわたる……。
 自分からこんな声が出ることを初めて知った。
 滴り落ちる涙と嗚咽は止まらなかった……。
 家に着くまでどのぐらい時間がかかり、どのように辿り着いたか、
 それは今でも思い出せない。
 家に帰ると電気は消え、静けさの中に妻は眠っていた。
 
 さっきからこちらを睨んでいる設計書も相手をしないといけなかった。
 しかし手が動かない……。
 設計書のレビュー相手である、あの上司のことを想像するだけで手が震えた。
 どちらかというと体育会系で育った私は、とにかくあの草食系の上司が苦手だった。
 いつか殴って、蹴り殺してしまうのではないかという殺意と恐怖心で手が震えてしまう。
 仕事も、もう何カ月も前から限界だった……。
 裏切りの連続。
 誰も助けてくれない。
 それは社会人として覚悟しなければいけない競争社会。
 頭で暗記した公式のようにそれを理解していても、
 裏切りにあう度、心はすり減り疲弊していた。
 どうしても人を最後には信じてしまう。
 それは一種の癖や習慣と同じだった。
 何度裏切りにあったとしたとしても……。
 その草食系上司が話す日本語は不思議と頭に入ってこない。
 他の人が話す日本語は意識せずに理解できても、その上司だけは何を望んでいるのか、
 意思が理解できなかった。
 走らないといけない方向も分らなかった。
 ゴールが分からないマラソンを走らされているようだった。
 会社に入って6年目……初めて、「会社で一番難しいのは人間関係」という言葉の意味を知
った。
 もう会社にも家にも居場所は無かった。
 どこに居ても心の中には、暗闇を放つ青黒く燃える炎だけがある。
 どこにも自分の居場所がない絶望感。
 それでも気がつくと社会の歯車としてまた明日この会社に出社してしまう。
 歯車はどんなに叫び、訴えても止まることはできない。
 そしてその複雑に入り組んだ歯車から一度外れてしまうと、簡単には戻れない。
 一度「欠陥品」というレッテルを貼られた歯車は誰も使いたがらないのだ。
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