想你
 
 五月、妻の誕生日に自分が考えられる全てをぶつけた。
 手紙、昔の写真、プレゼント、2人の思いでの場所でデート、花、本……
 妻は優しく微笑み言った。
 「まだ好きかどうか分らない」
 妻の気持ちは、何も感じることができなかった……藁をも攫む、その藁の影さえ見えなかった

 そこにはただ絶望しかなかった。
 もがけばもがくほど蟻地獄に入っていく。
 もう自分の中は空だった。
 妻にどうすれば心を戻してもらえるのか、方法が思いつかなかった。
 もしかすると、この時すっきりと別れた方が良かったのかもしれない。
 どんなに考えても何をすればいいのか……最善の策は何も思いつかなく空だった。
 また上辺だけの取り繕いの生活に戻る。
 それでも別れるという選択はできなかった。
 妻は私のことを理解してくれる親と同じ唯一無二の存在だった。
 こっちを睨みつける設計書を尻目に、上司に進み寄った。
 そして昨日の心療内科での診察結果を告げた。
 「お忙しいところ申し訳ございません。今お時間よろしいでしょうか?」
 「いいよ。会議室予約するか?」
 「お願いします……」
 とうとうこの事を告げなければならない。
 先の事はどうなるか分らない。
 でもこの答えしか出すことができなかった。
 「昨日心療内科で診察を受けて、うつ病だと診断されました」
 「そうなんだ。じゃあどうするの?」
 「会社を辞めさせてください」
 「分った。上の人間にもそう伝えておく」
 「なので今日は、今の仕事を整理して引き継ぎ資料を作成したら帰ります。」
 それだけで終わった。
 あっさりと。
 お互い犬猿の仲であることは分かっていた。
 だから必要最低限の会話だけで十分だった。
 
 昼過ぎに帰り仕度をしていると、草食系上司から報告を受けたであろう
 部長が後ろに立っていた。
 「ちょっとコーヒーでも飲みに行くか」
 「分りました」
 特にやることもなく、部長に対しては個人的に好意を抱いていたので、
 話すことは苦にならなかった。
 また、部長には入社当時からお世話になっていたこともあり、
 事の顛末を説明する義理もあると思った。
 沈黙のまま部長の後をついていき、コーヒーとステーキがお勧めという喫茶店に入る。
 客は私と部長以外誰もいなかった。
 「どうした? あいつから話は聞いたけど、なんでまた会社を辞める必要があるんだ?」
 部長もうつ病であることは、知っているはずだった。
 おそらく本人からうつ病になった原因を説明させたいのだと思い、事実を告げた。
 「一昨日自殺未遂をしてしまいまして……。
  それで、昨日お休みをいただき心療内科に行ってまいりました、
  そこでうつ病と診断されまして……」
 「なんでまた自殺を……」
 「家庭も……仕事も……もう限界……でした。
  居場所がどこにもありませんでした……あの上司の方とも……
  うまくいっていなく、声を聞くだけ……震えが止まらないのです……
  すみません……」
 部長への説明は会話ではなく、単語と単語を繋ぎ合わせた塊でしかなかった。
 「分った。とにかく休め。
  あいつと一緒にならないように、
  他のプロジェクトに行けるようにおれがどうにかしてやる。
  ただ今すぐにはできない。
  だからお前はしばらく会社を休んでおれに時間をくれないか? 
  お前はうちの会社に必要な人間だから。
  次が決まっていないならそう考え直してくれないか?」
 部長の言葉は、誰かに必要とされることが、
 こんなにも乾いた心に水を与えるということを思い出させてくれた。
 「分りました、お言葉に甘えて、そうさせていただきます」
 それは一昨日のことだった。
 ここ何週間かインターネットで自殺の方法ばかり調べていた。
 もうそうするしかないと……。
 インターネットには情報が溢れていた。
 まるで自殺を推奨しているかのように。
 首つり、薬物、リストカット、一酸化炭素中毒、飛び降り、電車、集団自殺……。
 他人に迷惑をかけない方法を探していたが、どの方法にせよ、
 他人に迷惑をかけない死に方はなかった。
 そして、一昨日の夜、風は突然吹いてきた。
 その風は眠りにつこうとしている私の体を優しく起こし、 
 補助輪なしの自転車を練習する時に、親がそっと手を離すように私の体を押してくれた。
 
 部屋のドア上端にある、衝撃吸収用の補助部品に紐をかけて椅子に乗った。
 紐はどこのコンビニでも売っている、ゴミなどを縛る白いビニール紐だった。
 「死ぬ気になればなんでもできる」
 誰が言ったか分からないが、よく聞くこの言葉……本当は違う。
 
 本当に死ぬ気になった時、人は何もする気力がない。
 
 ご飯を食べることも、話すことも、誰かと接することも……。
 何も気力が無い。
 「そんなことを今さら分かってもしょうがないか……」
 
 と脾肉にも笑った。
 その行為はまるで他人ごとだった。
 そこまですることに一瞬の迷いもなく。
 まるで自分自身のドラマを見ているような客観的な感覚だった。
 首元が締めつけられて熱が生まれる。
 頭の中がブラウン管のテレビが映し出す灰色がかった世界に変わっていく。
 顔の皮膚が紅潮し張る……。
 薄れていく意識の中で親への感謝と申し訳なさでいっぱいだった。
 ただ、ただ「ごめんなさい」と心の中で叫ぶことしかできなかった。
 幸せにできなかった妻への謝罪の気持ちもあった。
 そんなことが走馬灯のように出ては白く消えていく。
 あとはかろうじて椅子に残っている片足で、蹴れば終わりだった……。
 走り幅跳びのように片足を踏みきりさえすれば、向こう側の世界に着地できた。
 でもその最後の踏みきりをすることはできなかった……。
 朝目覚めた時、昨日の自分がとった行動を思い出し、精神状態が異常なこと気がついた。
 自殺の原因は分っていたが、誰かに「うつ病」であることを認めて欲しかった。
 
< 3 / 9 >

この作品をシェア

pagetop