金木犀ホリック
勤務先にほど近い、商店街の端っこにある古びたアパートの三階の角部屋が、私の住まいだ。
外観はぼろぼろだが、内はそれなりに綺麗だし、南向きで日当たりがいい。一人暮らしにはちょうど良い、住みやすい部屋である。

ドアを開けようと、バッグからカギを出していると、隣の部屋のドアがギ、と音を立てて開いた。ひょっこりと顔を出したのは、源至だった。僅かに甘えをちらつかせる笑みを浮かべる。

「雪ちゃん、なんか食わしてくれない?」

「開口一番それですか」

「おかえり。腹減った。メシ作って欲しいな」

何で私が、と言いかけて、ふと今日が給料日前日であることを思い出した。源至は、普段なら三日も前から私の家の冷蔵庫を漁りにくるのだから、前日ならばまだ可愛いものか。

ドアの陰からこそこそと顔を出している源至を見れば、えへへ、と再び笑いかけてくる。

「雑炊とか、簡単なものでいいんで、お願いします」

「入りなさい」

ため息をつきつつ、言った。今日みたいな日は、一人でいるよりいいかもしれない。独りぼっちだと思考がマイナス方向まっしぐらになってしまいそうな気がする。

子犬のようにぱっと顔を明るくした源至は、自室のドアのカギをかけたかと思うと、私よりも早く部屋に入って行った。同じ間取りと言うこともあるのだろうが、勝手知ったるといった様子で電気を灯し、ベッドに腰掛けてテレビの電源を入れた。

「ねえねえ、雪ちゃんさー、今日はどこ行ってたの? お休みとってたでしょ」

「……病院です。健康診断を受けに」

 冷蔵庫の中を物色しながら答える。

「ふーん。どうだった?」

「……ふつう」

「ふーん」

ちらりと源至に視線をやる。バラエティに意識を向けているらしく、へらりと気の抜けた笑顔を浮かべていた。

白菜の中華風クリーム煮とエビチリ、ご飯を一人用の狭い食卓に二人分並べて、源至と食事をとった。源至はお腹が空いていたらしく、がつがつと男子高校生のようにご飯をかっ込むので、食欲の失せていた私の分もと勧めたらそれも平らげた。

「雪ちゃんの作るメシが一番旨いよねー」

食後に熱いほうじ茶を淹れてやると、音を立てて啜った源至はしみじみと呟いた。

「そう。よかった」

「このままずっと俺のメシ作ってもらいたいなー。ねえねえ、結婚しようよ」

「誰にでもそういうことを言う癖は治した方がいいですよ、北垣先生」

「えー。急に上司の顔しちゃ嫌だよ。ホントに雪ちゃんにしか言ってないって」

「彼女をとっかえひっかえしている人には、騙されませんよ」

北垣源至(きたがき・げんし)は、職場においての私の部下であり、高校時代の後輩でもある。
高校時代は別段親しかったわけではなく、挨拶を交わす程度であったが、社会人になって職場で再会してから、ぐんと仲良くなった。今ではこうして食事を共にするくらいだ。
親しくなった最たる原因は、職場では上司部下、私生活ではお隣さんという距離的なものだろう。
四六時中顔を突き合わせ、気配を感じていたら―アパートは安普請なので生活音が嫌でも聞こえてしまう―、自然と友人のようなものになっていたのだ。

それに加え、源至本人の資質も原因の一つだと思う。童顔な源至の笑顔には邪気がなく、もうすぐ三十に手が届くというのにも拘らず、どこか初々しさを醸し出している。
爽やかな好青年風の顔立ちで、塾の生徒たちの中では『王子』だなんて呼ばれている。そんな警戒心を与えない外見を持ってして、ぐいぐいと甘えてくるように近づいてくるものだから、気付けば懐にするりと入り込まれていた。

「ちぇ。雪ちゃんはいつもそうやってごまかすんだから」

面白くなさそうに源至が呟くが、私は肩を竦めて見せた。

「女の子たちを全員清算してから言ってみなさい」

「清算も何も、みんな友達なんだけどなあ」

男性経験がない故に、男相手には必要以上に構えてしまう私ですらこうなのだから、他の女の子たちは推して知るべし、源至は非常にモテる男だ。高校時代から彼女には事欠かなくて、いつも可愛い女の子が傍にいた。それは、今現在も変わらない。

「じゃあそろそろ帰ろうかな、っと」

お茶を飲み終えると、源至は腰を上げた。玄関へ向かうのを、見送るために追う。

「ごちそうさまでした。給料入ったらなんか奢るね」

「ビールでも買ってくれたらそれでいいです」

狭い玄関で向かい合って会話する。私の視線は、下方向に向けられていた。
源至は、身長が余り高くない。百七十に満たないと聞いたことがある。であるので、私との身長差は約十センチ。上がり框と玄関の高低差十五センチを足すと、二十五センチもの差異が生まれる。

見下ろされるのが私だったらいいのに。

源至を見送るたびに、そう思う。せめてこんな高みから見下ろすほどの背がなければ、私もいっぱしの女として彼に恋心を抱くことに抵抗感を覚えなくとも済んだだろうに。

「今日の雪ちゃん、様子おかしいね?」

ふいに、源至が首を傾げて訊いてきた。

「食欲もないし、元気もないし。どうかしたの?」

「そ、そうですか?」

驚いて、自分の頬に手を添えた。自分では沈んでいることに気付かれないよう、気を付けていたつもりだったけれど、表に出ていただろうか。

「どうかしたの?」

意図していない上目づかいで、重ねて訊かれる。
一瞬、源至に乳癌かもしれない不安を吐きだしそうになったが、寸での所で堪えた。上司で、隣人でしかない私の重たい話を、誰が聞きたいだろうか。

「何でもないですよ」

なるべく、普段の口調を心掛けて言うと、源至は「ふうん」と鼻を鳴らした。

「なら、いいけど。じゃあおやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

言わなくてよかったと思わせる愛らしい後輩面で、密かに焦がれている男は帰って行った。隣の部屋のドアが開き、ぱたんと閉まる音を聞きながら、私はぼんやりと右乳房に手をあてていた。

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