金木犀ホリック
とうとう、検査結果が分かる日を迎えてしまった。

二週連続で休暇を取るのは憚られたので、二時間ほど外出許可を貰って、病院へ向かうことにした。身支度を整えて社屋の関係者用通用口を出ると、煙草休憩をしていたらしい源至とかち合ってしまった。

「どっか行くの?」

「ええ」

あの夜以来、私は源至を避けていた。近寄ればまた、無意識に源至に頼ってしまいそうで怖かったし、そんな惨めったらしい自分になりたくもなかった。
なので、今回もまた、短く返答をして立ち去ろうとしたのだったが、通り抜けざまに源至に腕を掴まれた。

「待って、雪ちゃん」

「何でしょう?」

内心では酷く驚いていたが、努めて冷静に返す。視線だけをちらりと源至に向ければ、彼は怒ったように眉間に皺を寄せていた。

「そんな厳しい顔して、どこ行くの」

「私用、です」

「だから、どこ行くの? 教えて」

教えてどうなると言うのか。頼れと言うのか。
それはとても、残酷な優しさだ。

一週間、ひたすらに不安を抱えていた私は、心が疲弊していた。だからだと思う、源至の発言に悲しくなり、そして苛立ちを覚えてしまった。

「北垣先生には、関係ないことです」

腕を握る源至の手を、乱暴に振り払った。

「私を構わなくて結構です。その優しさを、他の女性に注いでおあげなさい」

あの、ふんわりと甘い香りの女性にでも、そう言い足そうとしたが、それは余りに下司だと思い、飲み込んだ。自分で自分を貶める必要はない。

私が源至をこんな風に拒否したのは、初めてのことだった。源至は驚いた顔をして、私を見た。

「雪ちゃん、俺は」

「能勢主任、です。今後は適切な距離で接してくるように。迷惑です」

以前のように来られたら、傷つくだけだ。もう、きちんと線引きをしておいた方がいい。哀れな自分のために。
目を大きく見開いた源至から視線を逸らし、今度こそ、その場を後にした。


どんよりとした気持ちのまま病院へ向かい、待合ロビーで果てともしれない時間を過ごした。もう、何が自分の心を荒らしているのか分からない状態だった。
名を呼ばれ、のそのそと診察室へ入って行った私を迎えたのは、先週と同じ鼈甲眼鏡の女医だった。

「どうでしたでしょうか」

「実は、ですね。検査の結果、思わしくないことがありまして」

前回はぱきぱきと手際よく話していた人が、歯切れが悪い。眼鏡を何度も押し上げている。

「……私、癌なんですね」

速度を増して鼓動する心臓が、口から飛び出してしまいそうだった。その衝動を言葉にして吐き出せば、女医は恐ろしいことにこっくりと頷いた。途端、世界がモノクロに塗り変えられていく。うるさいくらいだった心臓が、動きを止めたかと思った。

呆然とした私の前で、女医が検査結果の用紙を指し示しつつ何事かを言っているが、頭に響かない。異国の言葉を聞いているようだった。

「大丈夫ですか、能勢さん」

脇に控えていた看護師が私の背中に強く手を添えた。その力強さに我に返った。

「ええ、はい。ええ……」

背中にびっしりと汗をかいていたらしい。シャツが肌に張り付く嫌な感触があった。ふうふうと息をつく私に、女医が心持ち優しく声をかけてくれる。

「大きさ的にもまだ初期の段階だと思われます。ですので、これから……」

「おっぱい、取っちゃうんですか?」

「え?」

「わたしのおっぱいです。とってしまうんでしょうか?」

全摘出ではないが、形に傷跡等の変化はおこるというような説明を懇切丁寧に受けた。それに加え、再形成手術があることまでも教えてもらえたが、事態を受け入れることもできない私の心に安寧をもたらすことは無かった。

「必ずしも死に直結している病ではありません。大丈夫です、頑張って行きましょう」

余りにショックを受けていたからだろうか。何度も何度も励ましの言葉をかけられ、カウンセラーの紹介も受けた。
仕事を抜けてきていたので、長居はできないことを伝えると、早めの来院を念押しされ、それから病院を出た。

病院には仕事があるからと言ったものの、戻って平然と仕事をこなせる自信などない。出先で具合が悪くなったと連絡して、ふらふらと街中を歩いた。

『乳癌』『乳房切除』『手術』『死』、嫌な言葉ばかりが頭を巡る。
私の人生はこれから、闘病に費やされ、母のように、死んでしまうのか。それだけで、一生を終えてしまうのか。

嫌だ。

恐怖と不安が一挙に襲って来る。
お一人様で生きていくと決めた私には、負の感情を上手くコントロールできる術が身についていたと思っていた。しかし今、濁流に放り込まれたかのように何もできない。このままでは、あふれ出る感情の渦に巻き込まれてしまう。引き上げてくれる誰かが欲しくて、携帯電話を取り出した。

「……誰にかけるっていうの」

アドレスを見て呟く。母と同じ病に侵されたというのは、父や弟に言い辛い。
いずれ言わなくてはならないだろうが、自分の中で整理がついてからにしたい。では友人はというと、皆仕事中だろうし、そんな最中に連絡なんてできない。助けてなどと無責任に叫べるほどに己を押し付けられる人はいない。

源至の顔が、ふ、と思い浮かぶ。それを、慌てて打ち消した。先刻、適切な距離を持てと言ったのは自分なのに、頼ろうなどと甘すぎる考えではないか。源至だって、迷惑な話であろう。

このタイミングで連絡できるような人は、私にはいない。私は濁流の中から、一人で抜け出さなければならないのだ。
これが、一人で生きていくと言うことの辛さであり、越えなくてはいけない壁なのだとしたら、私はどれだけ甘い考えを持っていたのだろう。自力で超えるには、この頂の見えない問題は余りにも高すぎる。


気付けば、あの金木犀のある家の前にいた。あんなにも咲き誇っていた花は、もうなくなっていた。勿論、芳しい香りも、どこにもない。
服の上から、右の乳房にそっと手を重ねた。私の乳房は、旬も盛りもなく、意味を成すこともなく、消え失せてしまう。男性に触れられることも、ましてや子供を育むこともないまま。

「あら、残念……」

ふいに声がしたことに驚いて辺りを見渡す。真横に、小さな老女がちょこんと立っていた。小さくて気が付かなかった。上品な鍔広の帽子をかぶった老女は私を見上げて残念そうに眉を下げて笑った。

「私ね、金木犀が大好きなの。でも、香りを楽しめるのってごく僅かな期間でしょう。もう終わっちゃったなんて、寂しいわ」

「ああ……、そう、ですね」

「亡くなった主人との思い出の花なのよ。金木犀を嗅ぐたびに、元気な頃の夫がまざまざと思い出されてねえ……あらやだ、急にこんな話して、馬鹿みたいね、私」

少女のように頬を染めてコロコロと笑い、彼女は木を見上げた。

「また来年を待つしかないわねえ」

金木犀には、次がある。私にはもう無い、次の旬など、もう。

「失礼します」

頭を下げて、逃げるようにして立ち去った。
病院では滲むことすらなかった涙が滲む。これから先、身内以外に懐かしまれることすらないだろう自分の存在が憐れで悲しい。香りすら残せない自分など、誰が覚えていてくれるだろう。誰が惜しんでくれるだろう。

病から、虚しさから逃げ切りたくて、私はひたすらに歩き続けた。


< 5 / 7 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop