金木犀ホリック
とっぷりと日が暮れた頃、歩き疲れた私は自宅に向かっていた。
逃げ出せるはずなどない。向き合うしか道はないのだ。

精神的な濁流は、飲まれきってしまえばいずれ川縁のようなものに辿り着けるものなのらしいと悟った。もがき苦しむより、幻の安息に身を任せるのも生きる術の一つだ。私はまた一つ、強くなれたのかもしれない。
階段を上り、部屋へ続く廊下を歩く。蛍光灯が切れかけているのか、ちかちかと光が点滅していた。その瞬きが泣きはらした瞳に滲みて、目をごしごしと擦ったその時。

「お帰り、雪ちゃん」

今ここにいるはずのない人の声がした。

「源至、さん……、今、勤務中でしょう?」

仕事着であるスーツのままの源至が、私の部屋の前に立っていた。ばたばたと走り寄ってくる。

「雪ちゃんの様子がおかしいって聞いたから早退した。帰ってこないから探しに行こうとしてたんだ」

「早退って……、講義は誰が代わりに?」

「そんなこといいから。どこが悪いの? 病気なんでしょ」

私の腕を掴んで、源至は顔を見上げてきた。怒っているかのように、綺麗な眉がきゅっと寄せられる。

「え……、なんで分かるんですか?」

「検診の結果、訊きに行ったんでしょう? 悪かったとしか思えない」

源至の手はびっくりするくらい力強くて、それに掴まれた腕は痛かった。顔も見たこともないくらいに真剣で、瞳の奥まで見透かされるんじゃないかと思うくらいに見つめられた。

「どこ? どこが悪いって?」

「ど、どうして……。さっき、私は適切な距離を、と」

あんな台詞をぶつけた後なのに、どうして源至がここにいるのだろう。驚いている私に、源至は苛立ったように言った。

「そんなの関係ない。雪ちゃんの体を心配したらダメなんておかしいよ」

「だって私は、上司で」

「上司だったら気にしちゃダメなの? じゃあ今だけ後輩でもいいし、お隣さんでもいいじゃん。とにかく心配なんだ、どこが悪かったか、お願いだから言って」

源至の行動の根幹にあるものは、なんだろう。私の思い描いた理由と同じであると嬉しい、と期待しそうになる。
しかし、源至は元々優しい男である。なんのことはない、これもその延長に過ぎないのだろう。
普段の私ならば一笑に付すことができる。「冗談はいい加減にしてください」などときちんと切り捨てたことだろう。期待を持つには自分と彼との差異が目に見えて大きすぎる。

だけど、今の私は違った。

「……それなら、私を抱いてもらえませんか」

源至を見下ろして、言葉を落とした。

「え?」

「私を抱いて下さいと言ったんです。この胸を、一度でいいから愛してあげて欲しいんです」

力の抜けた源至の手を掴み、自分の右乳房に導いた。ジャケットの下の膨らみを感じてもらえるよう、ぎゅ、と押し付ける。

源至の中に、優しさ以外の物が存在していなくてもいい。その優しさに、たった一度甘えることを許してほしい。

想いをよせていた源至に慈しんでもらえたら、消えてなくなってしまう私の乳房も意味があったのだと言えるし、自分自身も、きちんと価値があったのだと誇れる気がした。
そうだ、いつ死ぬのか分からない身であれば、一度くらい好きな男に抱かれておきたい。その唯一の機会が今なのだから、お願いしたい。

源至は私の言動に驚いた様子だった。無理もない。不躾なことを急に言われたのだから。

「引き受けられないかもしれませんが、どうかひとつお願いします。いつまでこれを維持できるかも分かりませんので」

余りに彼が茫然としているので、困ったなと思いつつ小さく笑った。自分よりも動揺した人間を目の当りにしたら、余裕のような物が生まれるのらしい。
と、源至が私の手を振り払った。
あまりに激しく拒否されたので、ああ無理だったかと思ったのだったが、源至はその手で私の腕を掴み直した。ぐいぐいと引きこまれるように、源至の部屋に連れ込まれる。

「え、え? ど、どうしたんですか?」

源至の部屋に入ったのは初めてだった。同じ間取りなのに、私の部屋と随分雰囲気が違う。意外なことにけっこう綺麗に整えられていた。
そんなことを考える間もなく、シンプルなパイプベッドに突き倒された。ぼすんと仰向けに倒れた私を、源至が怒気を孕んだ険しい顔で見下ろす。

「あ、あの。すみません、失礼なことを言ってしまいました」

無言のまま、源至が上着を脱いだ。
片手でネクタイを緩めながら、ベッドの脇に膝をつく。いつも見下ろしている顔が、真上に来た。角度が違うせいなのだろうか、普段と顔つきが全く違う。うっすらと恐怖に似た感情を覚えた。

「あ、あの。源至さん?」

「俺にそういうこと言っていいんだね?」

声音もぐんと低い。やはり、踏み込みすぎた依頼をした私に怒っているらしい。

「す、すみません。でも」

謝罪の言葉を口にしかけたのに、源至の口で塞がれて、できなかった。
口内にぬるりとした生暖かいものが侵入し、私の舌を絡め取る。初めての異物は思う様に動き、満たし、息苦しさを与えた。
目を閉じることもできないわたしの視界にはふるふると震える長い睫毛や、きめの細かい肌ばかりが映り、それは、いつもは遠目でしか見ることのなかった源至のものだと思うと頭が真っ白になった。

どうやら、源至は私の願いを聞き入れてくれるのらしい。ジャケットの下のカッターシャツに骨ばった大きな手が触れ、器用にボタンを外していくのを感じ取って、ようやく理解した。

最後のボタンが外れ、ぐいと開かれると、露わになった肌が外気にさらされる。そこでようやく、源至は私の口を開放した。
こういう時の呼吸法が分からなかった私の息は上がっており、はあはあと肩で息をついた。私の頭の横に手をついた源至が、限りなく近いところで囁くように言う。

「俺でいいんだね、雪ちゃん?」

源至の顔、これは男の顔というやつなのだろう。堪らなく扇情的で、私の奥底で永久の眠りにつこうとしていた『女』を乱暴に呼び覚ます。躰の中心がずくりと疼いた。

「はい。ぜひともお願いします」

それでも口をついて出た言葉は、自分でも情けなくなるほどに間抜けで、源至がぎこちなく笑った。

「雪ちゃんはいつも余裕だよね。テンパってる俺が情けない」

「余裕なんてあるわ、け……っ」

首筋に顔を埋められ、ぺろりと舌を這わせられて、声が掠れた。反射的に反った背中にするりと手が入り込んだかと思うと、ブラジャーのホックがいともあっさりと外された。これだけ手馴れておいて、余裕がないわけがない。緩くなった下着をぐいと押し上げられ、小ぶりな胸が露わになった。

「あ、あの、電気とか、消さないんでしょうか」

煌々とした灯りの下、まじまじと源至が見つめてくるのに羞恥を覚えて訊くと、源至は首を横に振った。

「見ておかなくちゃ、覚えていられない。ねえ、どっち?」

「え、あ。こっちです」

病巣のある方ということだろう、と右の乳房を指差した。

「ん。分かった」

言って、源至はそのまま私の右乳房の先端を口に含んだ。初めての感触と、それが与えるねとりとした疼きに、小さく声が漏れた。

それからの源至は、両方の乳房、特に右を長く長く愛撫してくれた。固く主張し始めた乳首から、ささやかな膨らみ全体を念入りに、丁寧に。
摘ままれ、転がされ、吸われ、慈しみの痕跡を幾つも刻まれ、私はあられもない嬌声をとめどなく上げた。

「雪ちゃん、すごくかわいい。ここも、こっちも」

愛撫だけでなく、甘い言葉までも源至は惜しみなく与えてくれる。耳からも快楽を生み出されるなんて知らなかった私は、熱に浮かされたようにそれを享受していた。
いつのまにか上半身は何も纏っておらず、履いていたチノパンもくちゃくちゃになってベッドの下に落ちていた。ショーツはもうぐっしょり濡れており、足をくねらせれば物欲しげな水音を漏らした。

下着としての役割を果たせなくなったショーツは、すぐに源至の手で脱がされた。自分で慰めるとき以外、誰も触れることのなかった場所に太い指先が這えば、油でも流し込んだようにぬたりと絡みついた。源至の指が動けばぴちゃぴちゃと淫らな音が響き、私の声と重なった。

「雪ちゃん、も、いい?」

むきだしの源至の躰と肌を重ねあわせるだけで、熱のこもった吐息が漏れた。初めての恐怖などなくて、もっと近づけたらもっと心地よいだろうと思うだけだった私は、頷いた。

「ありがとう、源至さん」

「こんな時にありがとうは、違うと思うよ」

優しく唇を重ねて、短く舌を絡ませたのち、私は源至を受け入れた。破瓜というのは話に聞く通り痛いものだったが、それを上回るほどの心地よさと幸福感に満たされて、目頭が熱くなった。

ああ、これでもういい。

もし乳房を失っても、命を落としても、ここまでしてもらえたなら、もういい。女としての喜びを知れたのだから、もう。
次第に痛みを上回っていく快感に身を預けながら、私は源至の、思っていたよりも逞しかった躰を抱きしめた。
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