金木犀ホリック
*
行為の後も、源至は私を腕の中に抱きつつ、乳房に触れていた。
「あ、あの。その、もう充分ですよ、源至さん」
「えー。触っちゃダメなの?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
そういうわけではないが、恥ずかしい。灯りは相変わらず点けっぱなしだし、その上、源至の触れ方は落ち着きかけた躰の火をちろちろと刺激して、変に声を漏らしてしまうのだ。
一度冷静さを取り戻した後は、なんと図々しくも卑猥なお願いをしてしまったのだと消え入りたくもなったし、源至の顔すら満足に見られないでいる。
「雪ちゃん。今度、俺も病院について行ってもいい?」
「え? い、いえ。そこまでして頂く訳には行きません。これだけしてもらえたら充分です」
幾ら源至が優しいと言えど、そこまで頼るつもりはない。驚いて顔を上げたら、不機嫌そうに眉間に皺を寄せられた。
「雪ちゃん。もしかして俺の躰をもて遊んだの?」
「え?」
「躰だけが目当てだったの? ひどい!」
「い、いやそんな。私はただ一回だけでも思い出が欲しくてですね。もて遊ぶだなんてそんなつもりは毛頭ないのです」
言いながら混乱する。躰が目当てだとかもて遊んだとか、この場合でも該当するのだろうか。いや、だって源至にお願いしただけであるし、それもきちんと一回だけと明言した気がするのだけれど。
おろおろとする私に、源至は「真面目に言うけど」と前置きをして言った。
「雪ちゃんのこと、本当に好きなんだよ? 俺」
「え? え?」
「病気なら支えたいし、どんなおっぱいになっても好きで居続けたいい。ねえ、俺を頼ってよ」
「だって女の子が、いっぱい。彼女だって」
「特定の子なんていないって何度も言ったでしょ。本当に友達なんだってば」
混乱する。だっていつもいつも、羨ましいくらい小さくて可愛い女の子が源至のそばにいた。
「あ、あの先日のあのふわふわした女の子は」
あの子か、と源至がため息をついた。
「あの子は困った。そんなつもりなかったんだけど、中々諦めてもらえなくってさ。
でも、あの場でちゃんとお断りしたんだよ。雪ちゃん、俺の説明を最後まで聞かずに帰っちゃうんだもん」
「は?」
最後まで? と首を傾げた私を、源至はぎゅう、と強く抱きしめた。温かな胸に頬が押し付けられる。少しだけ鼓動が早まっているのが感じられた。
「上司で、隣人で、大好きな人。俺の想い人って言ったんだ、あの時」
「うそ……でしょう?」
「こんな嘘つかないよ」
信じられない。源至からこんな告白を聞くなんて、思ってもいなかった。
「雪ちゃんに二度と拒否されたくない。これからは勘違いされるようなこと絶対しないよ」
今囁かれているのは現実のことなのか、分からなくなってくる。だって、こんなこと言われるはずがない。
しかし、源至は確かに私を包み込み、鼓膜を心地よく響かせている。
「自分より小っちゃい男なんて雪ちゃんは嫌かもしれないけど、それでも俺守るから。俺に、病気と闘う君を支えさせて下さい」
「源至、さん……」
源至の声には嘘や偽りの気配は微塵もない。真っ直ぐに、はっきりと想いが伝わってきて、胸が熱くなった。源至さえ傍にいてくれたら、病の種を潰す治療も軽々とこなせそうな気がした。
再燃しそうにくすぶっていた火が、勢いを増しそうになる。それに圧されて、口を開いた。
「……あの、私からもお願いし」
ます、と言おうとしたところで、私の携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「あ。出なくちゃ」
「えー。今大事なところでしょ。後でよくない?」
「会社からだったら困りますから。ただでさえ早退してしまいましたし」
源至を振りほどき、床に転がっていたバッグを拾い上げて、携帯電話を取り出す。見慣れない番号に首を傾げつつ出てみると、聞こえてきたのはあの女医の声だった。
「ああ、先ほどはお世話になりました。来院予約の件でしたら、勤務表を確認してから」
『申し訳ありません。検体の取り違えがありました』
「はい?」
『別の癌患者の検体と、能勢さんのものが入れ違っていたんです。従いまして、能勢さんは癌ではなかったのです』
「……どういうことでしょうか?」
今、ありえないことを聞かされた気がする。
『能勢さんの組織細胞の検査結果は、良性だったのです。しかし、取り違えてしまったせいで、誤って癌宣告をしてしまったのです』
女医は平身低頭の様子で、謝罪の言葉を重ねた。
どうやら、私は癌ではなかったらしい。
あのしこりは良性で、経過観察のみで問題ないことまで説明を受けた。
「で、では、私は癌じゃないってことですか……?」
振り返り、源至を見る。ぱあ、と顔が明るくなって、「よかったね!」と小さな声で言う。
『はい。癌ではございません』
女医のはっきりとした口調がそれを後押しして、立ち上がっていた私はへなへなとそこにへたり込んだ。その場で深く頭を下げる。
「ありがとう、ございます……」
『いえ、私どもの手落ちです。本当に申し訳ありませんでした』
後日改めて謝罪に伺いますと言うのを遠慮して、通話を終えた。
「よかったね、雪ちゃん」
「あ……はい……」
携帯電話を床に置き、私は自分の乳房を見下ろした。赤黒い花弁を散らされた乳房をじっと見つめていると、次第に顔が赤くなっていくのが分かった。
私は何の病気でもないのに、好きな男に抱いてくれと縋ってしまったというのか。
病でもない健康な乳房を『愛してくれ』だなんて言ってしまったというのか。
何て恥ずかしくてみっともないことをしてしまったというのか!
「雪ちゃん?」
ポンと肩を叩かれ、顔を上げれば源至が私の傍に膝まずいていた。均整のとれた躰を惜しげもなく晒しているのを気にする様子もなく、にっこり笑う。
「間違いだったみたいだし、よかった。せっかく手に入れたおっぱいが無くならなくって俺も嬉しい」
「う、うわああああ!」
思わず後ずさった。
「す、すみません! みっともないお願いをして! わ、忘れて下さいっ」
「忘れるって、なんで? 俺は頼ってもらえてすごく嬉しかったのに」
そう言って、源至は私に腕を伸ばし、抱き留めた。少し汗の匂いがする胸元に顔が押し付けられる。
「それに、みっともないなんてことないよ。雪ちゃんのおっぱいが元気で本当によかった。これで雪ちゃんが元気を取り戻すならもっとよかった」
「で、でも、いい年した大人が乳房一つでそんな……」
「何言ってるの。大事なことだったでしょう。怖かっただろうに、そんなフリしないの」
源至の腕の力が緩んだかと思えば、顔を覗き込まれた。見下ろすでも、見上げるでもない、同じ目の高さで、源至が言う。
「これからも、雪ちゃんが辛いときは俺が支えてあげたい。お願いします、付き合ってください」
これはどういう神の思し召しか。病ではなく、しかも源至にこんなことを言われる日が来るなんて、幸福が凝縮されすぎではないか。私はこれに、頷いてもいいのだろうか。
「うんって言ってよ、雪ちゃん。ずっと俺の傍で笑っていてよ」
「いい、んですか?」
「いいんだ。だから、頷いて」
おずおずと頷くと、源至は私の唇に自分のそれを重ねた。
情熱的に押し入ってくる舌を受け入れながら、私は金木犀の香りを嗅いだ気がした。濃密な香りは私の身を纏い、自身がひとひらの橙色の花弁になる錯覚に満たされた。
私という小さな花は、源至の記憶に残って息づいていけるのか。
だとしたら、それはとても、幸せなことだろう。
了
行為の後も、源至は私を腕の中に抱きつつ、乳房に触れていた。
「あ、あの。その、もう充分ですよ、源至さん」
「えー。触っちゃダメなの?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
そういうわけではないが、恥ずかしい。灯りは相変わらず点けっぱなしだし、その上、源至の触れ方は落ち着きかけた躰の火をちろちろと刺激して、変に声を漏らしてしまうのだ。
一度冷静さを取り戻した後は、なんと図々しくも卑猥なお願いをしてしまったのだと消え入りたくもなったし、源至の顔すら満足に見られないでいる。
「雪ちゃん。今度、俺も病院について行ってもいい?」
「え? い、いえ。そこまでして頂く訳には行きません。これだけしてもらえたら充分です」
幾ら源至が優しいと言えど、そこまで頼るつもりはない。驚いて顔を上げたら、不機嫌そうに眉間に皺を寄せられた。
「雪ちゃん。もしかして俺の躰をもて遊んだの?」
「え?」
「躰だけが目当てだったの? ひどい!」
「い、いやそんな。私はただ一回だけでも思い出が欲しくてですね。もて遊ぶだなんてそんなつもりは毛頭ないのです」
言いながら混乱する。躰が目当てだとかもて遊んだとか、この場合でも該当するのだろうか。いや、だって源至にお願いしただけであるし、それもきちんと一回だけと明言した気がするのだけれど。
おろおろとする私に、源至は「真面目に言うけど」と前置きをして言った。
「雪ちゃんのこと、本当に好きなんだよ? 俺」
「え? え?」
「病気なら支えたいし、どんなおっぱいになっても好きで居続けたいい。ねえ、俺を頼ってよ」
「だって女の子が、いっぱい。彼女だって」
「特定の子なんていないって何度も言ったでしょ。本当に友達なんだってば」
混乱する。だっていつもいつも、羨ましいくらい小さくて可愛い女の子が源至のそばにいた。
「あ、あの先日のあのふわふわした女の子は」
あの子か、と源至がため息をついた。
「あの子は困った。そんなつもりなかったんだけど、中々諦めてもらえなくってさ。
でも、あの場でちゃんとお断りしたんだよ。雪ちゃん、俺の説明を最後まで聞かずに帰っちゃうんだもん」
「は?」
最後まで? と首を傾げた私を、源至はぎゅう、と強く抱きしめた。温かな胸に頬が押し付けられる。少しだけ鼓動が早まっているのが感じられた。
「上司で、隣人で、大好きな人。俺の想い人って言ったんだ、あの時」
「うそ……でしょう?」
「こんな嘘つかないよ」
信じられない。源至からこんな告白を聞くなんて、思ってもいなかった。
「雪ちゃんに二度と拒否されたくない。これからは勘違いされるようなこと絶対しないよ」
今囁かれているのは現実のことなのか、分からなくなってくる。だって、こんなこと言われるはずがない。
しかし、源至は確かに私を包み込み、鼓膜を心地よく響かせている。
「自分より小っちゃい男なんて雪ちゃんは嫌かもしれないけど、それでも俺守るから。俺に、病気と闘う君を支えさせて下さい」
「源至、さん……」
源至の声には嘘や偽りの気配は微塵もない。真っ直ぐに、はっきりと想いが伝わってきて、胸が熱くなった。源至さえ傍にいてくれたら、病の種を潰す治療も軽々とこなせそうな気がした。
再燃しそうにくすぶっていた火が、勢いを増しそうになる。それに圧されて、口を開いた。
「……あの、私からもお願いし」
ます、と言おうとしたところで、私の携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「あ。出なくちゃ」
「えー。今大事なところでしょ。後でよくない?」
「会社からだったら困りますから。ただでさえ早退してしまいましたし」
源至を振りほどき、床に転がっていたバッグを拾い上げて、携帯電話を取り出す。見慣れない番号に首を傾げつつ出てみると、聞こえてきたのはあの女医の声だった。
「ああ、先ほどはお世話になりました。来院予約の件でしたら、勤務表を確認してから」
『申し訳ありません。検体の取り違えがありました』
「はい?」
『別の癌患者の検体と、能勢さんのものが入れ違っていたんです。従いまして、能勢さんは癌ではなかったのです』
「……どういうことでしょうか?」
今、ありえないことを聞かされた気がする。
『能勢さんの組織細胞の検査結果は、良性だったのです。しかし、取り違えてしまったせいで、誤って癌宣告をしてしまったのです』
女医は平身低頭の様子で、謝罪の言葉を重ねた。
どうやら、私は癌ではなかったらしい。
あのしこりは良性で、経過観察のみで問題ないことまで説明を受けた。
「で、では、私は癌じゃないってことですか……?」
振り返り、源至を見る。ぱあ、と顔が明るくなって、「よかったね!」と小さな声で言う。
『はい。癌ではございません』
女医のはっきりとした口調がそれを後押しして、立ち上がっていた私はへなへなとそこにへたり込んだ。その場で深く頭を下げる。
「ありがとう、ございます……」
『いえ、私どもの手落ちです。本当に申し訳ありませんでした』
後日改めて謝罪に伺いますと言うのを遠慮して、通話を終えた。
「よかったね、雪ちゃん」
「あ……はい……」
携帯電話を床に置き、私は自分の乳房を見下ろした。赤黒い花弁を散らされた乳房をじっと見つめていると、次第に顔が赤くなっていくのが分かった。
私は何の病気でもないのに、好きな男に抱いてくれと縋ってしまったというのか。
病でもない健康な乳房を『愛してくれ』だなんて言ってしまったというのか。
何て恥ずかしくてみっともないことをしてしまったというのか!
「雪ちゃん?」
ポンと肩を叩かれ、顔を上げれば源至が私の傍に膝まずいていた。均整のとれた躰を惜しげもなく晒しているのを気にする様子もなく、にっこり笑う。
「間違いだったみたいだし、よかった。せっかく手に入れたおっぱいが無くならなくって俺も嬉しい」
「う、うわああああ!」
思わず後ずさった。
「す、すみません! みっともないお願いをして! わ、忘れて下さいっ」
「忘れるって、なんで? 俺は頼ってもらえてすごく嬉しかったのに」
そう言って、源至は私に腕を伸ばし、抱き留めた。少し汗の匂いがする胸元に顔が押し付けられる。
「それに、みっともないなんてことないよ。雪ちゃんのおっぱいが元気で本当によかった。これで雪ちゃんが元気を取り戻すならもっとよかった」
「で、でも、いい年した大人が乳房一つでそんな……」
「何言ってるの。大事なことだったでしょう。怖かっただろうに、そんなフリしないの」
源至の腕の力が緩んだかと思えば、顔を覗き込まれた。見下ろすでも、見上げるでもない、同じ目の高さで、源至が言う。
「これからも、雪ちゃんが辛いときは俺が支えてあげたい。お願いします、付き合ってください」
これはどういう神の思し召しか。病ではなく、しかも源至にこんなことを言われる日が来るなんて、幸福が凝縮されすぎではないか。私はこれに、頷いてもいいのだろうか。
「うんって言ってよ、雪ちゃん。ずっと俺の傍で笑っていてよ」
「いい、んですか?」
「いいんだ。だから、頷いて」
おずおずと頷くと、源至は私の唇に自分のそれを重ねた。
情熱的に押し入ってくる舌を受け入れながら、私は金木犀の香りを嗅いだ気がした。濃密な香りは私の身を纏い、自身がひとひらの橙色の花弁になる錯覚に満たされた。
私という小さな花は、源至の記憶に残って息づいていけるのか。
だとしたら、それはとても、幸せなことだろう。
了