Let's study!!
19歳 Spring
なぜ、彼を断ち切ることができなかったんだろう?
春だ。
待ちに待った春、私は期待に胸をいっぱい膨らませながら、大学のキャンパスに向かう。
本当に、受験はお祭りみたいに楽しかった。
由澄季は、希望どおり、第一志望校の理学部に合格した。
このキャンパスの中にいる間は、この校舎にいる間は、何もかも忘れて、学問の道を突き進むんだ、と思うだけで、うっとりしてしまう。
専門書や実験道具がぎっしり置かれた研究室。広くて迷子になりそうな図書館。カリキュラムに載っている科目名。
ちなみに、廣太郎も、同じ大学の医学部に進学した。莉子は、都内の短大で、幼稚園教諭の資格を取る予定だ。
「由澄季、お腹空いた」
前置きなく、がちゃっとドアが開いて、聞き慣れた声が聞こえた。
「はいはい」
私は、胸をときめかせながら読んでいた、新入生用のパンフレットから顔を上げた。それと同時に、意識も現実に引き戻される。
…なんでこうなるかな。心の中で呟きながらも、鍋を火にかける。ボウルに卵を溶いている。
「あ、もういい匂いがする」
そう言いながら、私の肩越しに、鍋を覗き込む瑞樹のその近さに、どきりとする。落ち着け、幼馴染なんだから、このくらいは仕方ないはずだ、とひそかに言い聞かせる。
「用意しておくから、手を洗って来て」
落ち着いた声音になるように意識しながら、そう言うと「はーい」と素直に返事をしながら瑞樹が離れて、ほっとする。
瑞樹も、この春から東京で大学生になった。
ぎりぎりまで引っ越し先を明かさなかったおかげで、ルームシェアをすることはもちろん、借りた部屋が近所になることはなかった。
ただ、週末の夜に、こうして私の部屋にふらりと現れるのだ。
全然会わなければ、そのうちに忘れられるんじゃないかと思っていた。辛い思いをしないで、勉強に集中できるんじゃないかとも思っていた。
だけど、実際は、こうしてときどき瑞樹の顔を見ることになる。
また週に一度と言うタイミングが、絶妙だった。
毎日来るならもう来るなと言った気がする。勉強の邪魔をしないでと言えた気がする。そうやって顔を見ないで暮らしているうちに、他の人を好きになったり、博士号を取ったりできるはずだったのに。
誰もいない部屋で、平日の5日間を、自分のやりたいことばかり思う存分し尽くして、その満足とともに寂しさを募らせた頃、瑞樹が来るのだ。
もとより、ずっと片思いをしている相手なのだから、そんなタイミングで来られたら、帰れと追い返すことができるはずもない。
溶いた卵を熱々の鍋の中にとろりと流し込み、ぐるぐる混ぜる。半熟の状態で火を止めて、ごはんをよそったどんぶりの上に乗せた。
「うわ、うまそう」
目をキラキラさせながら、いつの間にか戻っていた瑞樹が、私の手元を見ていた。
「おいしいよ。座って食べて」
どうやら、瑞樹は平日ろくなものを食べてないらしい。コンビニ弁当、ファーストフード、インスタントラーメン。このあたりをローテーションで口にしてるみたいなので、週末の食事は貴重な栄養源になるのかもしれないと思うと、ますます帰れと言えない。
私にとっても、彼は、好きな人である前に、大事な幼馴染だから。好きだっていう気持ちを忘れることを目的に、幼馴染の食生活を正すことなく放置する気にはなれない。
はあ、面倒臭い関係だ、「幼馴染」。
「うっまい!おかわり!!」
「今、最初の一口を食べたところでしょうが」
呆れながらそう言うけれど、本当においしそうに、私の作ったものを食べる瑞樹を見るのは、内心、何にも代えられない幸せだ。
「いや、もうおかわり決定だから」
「後でついであげるってば。お吸い物と、お浸しも持ってくるから、落ち着いて食べて」
「うん!」
子どもか、ってツッコみたいくらい、大きく嬉しそうに頷く瑞樹が、愛しくて仕方がない。
彼の顔を見なくていいように、そして、彼と妹の姿を目にしなくていいように、ここに来たはずだったのに。
何の因果か、彼までここに来てしまって。
そして、私は、今、予想外に穏やかな気持ちなのだ。
認めたくないけれど、それはつまり、彼と妹が一緒にいるところを見なくて済むからなのだろう。
「由澄季、ほんとにおかわり」
そう言って、差し出される空っぽの器と、瑞樹の笑顔。こうして、いつ菜津希が帰ってくるだろうと考える必要のない環境で、二人でいると、勘違いしそうになる。
瑞樹には彼女はいないのだと。
「由澄季、考え事?計算式でも解いてるの?」
不思議そうに、瑞樹がそう言うから、笑ってしまう。私の考え事と言えば、全部勉強に関することだとでも思っているのだろうか。私が瑞樹を好きだとは、考えもしないのだろう。
「ヒトの心理についてね、考えてた。おかわりね、わかった。ついでくるから」
「ふうん、ヒトの心理?」
瑞樹が、不思議そうに首をかしげている。その様子を見ていたら、先日受けた授業の導入部分を思い出した。
「うん。瑞樹はね、大切な人が癌だってことを知っていて、本人がそれを知りたがったら、教える?」
「たとえばそれが、由澄季だったら」
瑞樹が、じいっと私を見つめるから、ドキドキしてくる。困った反射だ。
「教えるどころか、何も言わない。いや、その前に信じない。耐えられない」
「はあ?」
感情的な言葉を並べて、ちょっと唇を尖らせる瑞樹に、驚く。
「治るもん」
「……」
「絶対治るから」
ただのたとえ話だったのに、必死でそう言う瑞樹に、胸がきゅんとしてしまう私は、もう重症なんだろう。それこそ精神の癌だ、この恋は。
私が私らしい考えを持って言うなら、「そんな理論は成り立たない」って言い返すような、支離滅裂な答えだったのに。
「由澄季は?俺が癌だったら告知するの?」
瑞樹が試すような顔でそう言う。
「瑞樹が知りたいなら、話すよ」
「由澄季の場合は、どうでもいい奴だったら告知しないってこと?」
長い付き合いのせいか、瑞樹はときどき鋭い。迷いなく私が頷くのを認めて、瑞樹は少し頬を緩めた。
「そっか。大事な人間だと思ってるところは同じでも、反対のことをするんだな」
「うん。それが、価値観の違いってものなんだってさ」
「わかったような、わからないような」
それでいい、瑞樹は。
そう思いながら、もう一度ごはんや具を入れたどんぶりを、瑞樹の前に置く。
「おいしい?」
「おいしい!」
本当に食べざかりの子どもでも育ててるような気分だ。私はそう思いながらも、穏やかな気持ちで微笑んだ。
「もう予習しなくてもいいの?」
私がベッドに横になると、すぐに瑞樹が頭を撫でに来るから、びっくりした。
「うん。俺、体育科だろ。英語も、ほとんど取らなくても卒業できるから」
「えー、英語できない体育教師とか嫌だ」
「ひでー。必要ないんだから、我慢して」
「必要ないのかなぁ」
「いや、その前に俺、教師じゃなくて野球選手になるから」
疑問は残るけれど。
相変わらず大きな夢を見ている瑞樹に、頬が緩む。小学生の頃、野球を始めてから、ずっとそう言い続けている。高校で甲子園に行けなかったからって諦める様子もない。
瑞樹の温かい手が、ゆっくりと頭を撫でるのを感じ取ると、それだけでうんと眠くなる。一撫でごとに、少しずつ、夢の国が近くなる。
まだ東京での生活や、大学に通うことに、慣れたわけじゃないのに、落ち着いていられるのは、こうして週末に瑞樹と今までどおりの時間を過ごせるおかげなのかもしれない。
家族と同じくらい大切な瑞樹がいて、あたたかい実家と同じくらい、安心して眠れる夜があるから。
そんなふうで、寝入った私を置いて、瑞樹が帰り際に玄関の鍵をかけるため、瑞樹は私の部屋の合鍵を持っていた。
…それが、こんなことで役に立つとはなぁ。
変に冷静な頭で、B先輩(名前は憶えていない。だって興味ないから)の肩越しに、瑞樹の顔を見たときにそう思ったのだった。
まあ、たぶん瑞樹だ。だって、眼鏡が飛んじゃって、はっきりとは顔も見えないから。
「誰?あんた。由澄季に何してんの?」
聞いたことのない威圧感のある怖い声だ。
「あ…、いや」
言い淀んでいるB先輩の襟首を掴みあげている瑞樹は、いつもの瑞樹とは別の人みたい。
「俺には押し倒してるみたいに見えたけど」
はあ。やっと息ができる。
重くのしかかっていたB先輩が消えたので、私はのろのろと上半身を起こした。いつも以上に髪がぼさぼさだ。
手探りで、音がした方を探すと、眼鏡があった。眼鏡をかけてクリアになった視界には、やっぱり瑞樹がいた。
「もういいよ、瑞樹。帰してあげて」
私がそう言うのに、瑞樹は返事もしないで、B先輩を睨みつけている。猛獣が獲物を見てるみたいな目だ。
そんな顔、できるんだ。初めて見た。
「目障りだから、早く追い出して」
私の心境に正確な言葉に言い直すと、ようやく瑞樹が私の方をちらりとみて、かすかに微笑んだ。
だから、やっと私も、笑える。
あたふたと慌たように先輩がドアの向こうに消えたのを確認したら、ようやく深く息がつけた。
「お前、怖くないのかよ。無抵抗に見えたけど?」
「どうせ力では勝てないだろうから、考え事して気を紛らわせてた」
「ははっ。由澄季らしいな。気は紛れた?」
「ちょっとはね。それより、瑞樹の顔が怖くてびっくりした」
まさか、触れて来る先輩の手を瑞樹だと妄想して耐えてたとも言えず、話題を変えた。
「へ?」
「怒った顔、滅多に見ないから」
「そうだっけ?」
恥ずかしいのか、視線を泳がせて、かすかに顔を赤くする瑞樹。
「ありがと。なんか、代わりに怒ってもらったみたいで、全然腹が立たない」
「いや…」
複雑な顔で瑞樹はそう言って、何か考えている様子。
「由澄季はさ、それこそ他人に怒ることがないじゃん。興味がないって感じでさ」
「ああ」
瑞樹が何を思い返しているのか、私にもわかった。
「そう言えば、こういうときには、いつも私の代わりに瑞樹が怒ってたね?」
思い出すと笑える。
「わ、笑い事じゃねーし!あいつら、お前が何もしないのをいいことに」
ぶり返したのか、また瑞樹が怒った顔になりそうだ。
「ありがと」
そう言うと、はあ、とため息をついた後、瑞樹の顔が穏やかになった。
「私は大丈夫。うちの家族と瑞樹の家族だけが、私のことを理解してくれたら、後はほんとにどうでもよくて、興味がない」
だから、B先輩の名前どころか、顔だってもう思い出せないのだ。
「…あいつは?」
あいつ?瑞樹にあいつって言われるような、私の知り合いって、一人しかいない。交友関係狭いし。
「ああ、廣太郎は、なぜか私のことをよくわかってるね。変な奴」
私の唯一の友達だ。彼を思い出すと、自然に笑みがこぼれるくらいには、私は彼に心を許している。
「……」
「は?なに?」
「なんでもない!」
「何、急にカリカリして。あ、わかった!」
「なんだよ」
「お腹空いたんだ?」
「…間違いじゃない」
「正解って言って。気分がすっきりしない。そうだ、朝作った蒸しパンがあるよ」
「……マジで?」
ぱあっと瑞樹が顔を輝かせるから、作ってよかった、ってまた思う。
「マジで。レーズンたっぷりのやつね」
あれ、鉄分豊富なんだよね、きっとあのせいで瑞樹、やたらと背が伸びたんだよね、なんて思う。一時期、毎日食べたがるくらいに気に入っていたから。
「食べる!!」
すっかりいつもの様子に戻った瑞樹に、私の心もようやくいつも通りの落ち着きを取り戻せる。
「なあ、なんでさっきの男は、由澄季の部屋に入ってたの?」
瑞樹も、蒸しパンをある程度食べると、落ち着いたらしい。まだもぐもぐと食べながらも、そう尋ねてくる。
「トイレに行きたいって言ったから」
「そこのコンビニで行けって言えよ」
「なんで?」
家にトイレがあるのに、わざわざコンビニに行かせる理由がわからない。
「一人のときに男を部屋に上げない方がいい。勘違いする奴もいるし、魔が差す奴もいるし」
「勘違い?魔が差す?よくわからない」
「常識だろ」
「……」
常識、だろうか?言い返せないうちに、瑞樹の質問は、また始まった。相変わらず質問が好きだな、瑞樹は。
「どういう知り合い?」
「研究室の先輩」
「なんで一緒に帰ってきたの?」
「研究室の新入生歓迎会があったからね。ほら、夜は一人で帰るなって、瑞樹も言ってたでしょ」
「それは、家の前までだから!」
結局注意されてしまう。ときどき、こんなふうにお父さんみたいになるなあ、瑞樹って。いつもは子どもっぽいくせに。
「わかったってば。でも、なんで部屋に入ると、あんな乱暴な人に豹変したんだろう?直前まで普通だったのに」
私が首をひねると、瑞樹が呆れた、と言いそうな顔をした。
「だからさ、あれは、うーん、何て言えばいいのか…、そう、盛ってんだよ」
困った顔をしながら、一生懸命言葉を探していた瑞樹が、そう言った。
「ああ、コロンみたいに?」
実家で飼っている雄犬を思い出す。
「そう、そんな感じだと思う」
「そっか、先輩、発情期だったんだ。いや、ヒトに発情期なんかなかったはずだけど?」
「全くないわけじゃないだろ。なかったら、子孫が残せないはずだ」
「そっか、常に発情期なんだ。ん?なんか、私が瑞樹に勉強教えてもらうって、初めてじゃない?変な感じ」
私が疑問に思って聞き返すことに、ちゃんと瑞樹が答えてくれるって、いつもと逆の関係じゃないかな?
「勉強っていうかさ…」
再び瑞樹は呆れ顔だ。
「何よ」
「一般常識」
「…私、その言葉は嫌い」
「ぷっ。由澄季の頭は専門知識だけでできてるもんな」
笑いだす瑞樹の表情に、声に、胸がときめく自分がいる。いつになったら、こんなに彼の表情の一つ一つに心を揺らさないで済むようになるんだろう。
菜津希が傍にいなくなったことで、押さえつけている胸の奥の気持ちが詰まった入れ物の蓋が、弾けそうなくらい膨らんでいる気がする。
菜津希に感づかれないようにと気を遣うこともなく、ただただ、瑞樹の顔を見つめて、言葉を聞いていられることで、隠していたはずの感情は、着実に育ってしまっている。
幼馴染だから、心配してくれる。
幼馴染だから、助けてくれる。
幼馴染だから、教えてくれる。
幼馴染だから、傍にいてくれる。
それなのに、私の方は「幼馴染だから」瑞樹と一緒にいたいだけじゃない。「好きだから」一緒にいたい。
瑞樹の純粋な気持ちを利用しているような気もするけれど。いいよね、「幼馴染だから」ってことを言い訳にして、瑞樹と一緒の時間を楽しんでも。
心の中で言い訳をしながら、私は週末のこのわずかな時間を、心待ちにして、平日の時間を過ごしていた。
待ちに待った春、私は期待に胸をいっぱい膨らませながら、大学のキャンパスに向かう。
本当に、受験はお祭りみたいに楽しかった。
由澄季は、希望どおり、第一志望校の理学部に合格した。
このキャンパスの中にいる間は、この校舎にいる間は、何もかも忘れて、学問の道を突き進むんだ、と思うだけで、うっとりしてしまう。
専門書や実験道具がぎっしり置かれた研究室。広くて迷子になりそうな図書館。カリキュラムに載っている科目名。
ちなみに、廣太郎も、同じ大学の医学部に進学した。莉子は、都内の短大で、幼稚園教諭の資格を取る予定だ。
「由澄季、お腹空いた」
前置きなく、がちゃっとドアが開いて、聞き慣れた声が聞こえた。
「はいはい」
私は、胸をときめかせながら読んでいた、新入生用のパンフレットから顔を上げた。それと同時に、意識も現実に引き戻される。
…なんでこうなるかな。心の中で呟きながらも、鍋を火にかける。ボウルに卵を溶いている。
「あ、もういい匂いがする」
そう言いながら、私の肩越しに、鍋を覗き込む瑞樹のその近さに、どきりとする。落ち着け、幼馴染なんだから、このくらいは仕方ないはずだ、とひそかに言い聞かせる。
「用意しておくから、手を洗って来て」
落ち着いた声音になるように意識しながら、そう言うと「はーい」と素直に返事をしながら瑞樹が離れて、ほっとする。
瑞樹も、この春から東京で大学生になった。
ぎりぎりまで引っ越し先を明かさなかったおかげで、ルームシェアをすることはもちろん、借りた部屋が近所になることはなかった。
ただ、週末の夜に、こうして私の部屋にふらりと現れるのだ。
全然会わなければ、そのうちに忘れられるんじゃないかと思っていた。辛い思いをしないで、勉強に集中できるんじゃないかとも思っていた。
だけど、実際は、こうしてときどき瑞樹の顔を見ることになる。
また週に一度と言うタイミングが、絶妙だった。
毎日来るならもう来るなと言った気がする。勉強の邪魔をしないでと言えた気がする。そうやって顔を見ないで暮らしているうちに、他の人を好きになったり、博士号を取ったりできるはずだったのに。
誰もいない部屋で、平日の5日間を、自分のやりたいことばかり思う存分し尽くして、その満足とともに寂しさを募らせた頃、瑞樹が来るのだ。
もとより、ずっと片思いをしている相手なのだから、そんなタイミングで来られたら、帰れと追い返すことができるはずもない。
溶いた卵を熱々の鍋の中にとろりと流し込み、ぐるぐる混ぜる。半熟の状態で火を止めて、ごはんをよそったどんぶりの上に乗せた。
「うわ、うまそう」
目をキラキラさせながら、いつの間にか戻っていた瑞樹が、私の手元を見ていた。
「おいしいよ。座って食べて」
どうやら、瑞樹は平日ろくなものを食べてないらしい。コンビニ弁当、ファーストフード、インスタントラーメン。このあたりをローテーションで口にしてるみたいなので、週末の食事は貴重な栄養源になるのかもしれないと思うと、ますます帰れと言えない。
私にとっても、彼は、好きな人である前に、大事な幼馴染だから。好きだっていう気持ちを忘れることを目的に、幼馴染の食生活を正すことなく放置する気にはなれない。
はあ、面倒臭い関係だ、「幼馴染」。
「うっまい!おかわり!!」
「今、最初の一口を食べたところでしょうが」
呆れながらそう言うけれど、本当においしそうに、私の作ったものを食べる瑞樹を見るのは、内心、何にも代えられない幸せだ。
「いや、もうおかわり決定だから」
「後でついであげるってば。お吸い物と、お浸しも持ってくるから、落ち着いて食べて」
「うん!」
子どもか、ってツッコみたいくらい、大きく嬉しそうに頷く瑞樹が、愛しくて仕方がない。
彼の顔を見なくていいように、そして、彼と妹の姿を目にしなくていいように、ここに来たはずだったのに。
何の因果か、彼までここに来てしまって。
そして、私は、今、予想外に穏やかな気持ちなのだ。
認めたくないけれど、それはつまり、彼と妹が一緒にいるところを見なくて済むからなのだろう。
「由澄季、ほんとにおかわり」
そう言って、差し出される空っぽの器と、瑞樹の笑顔。こうして、いつ菜津希が帰ってくるだろうと考える必要のない環境で、二人でいると、勘違いしそうになる。
瑞樹には彼女はいないのだと。
「由澄季、考え事?計算式でも解いてるの?」
不思議そうに、瑞樹がそう言うから、笑ってしまう。私の考え事と言えば、全部勉強に関することだとでも思っているのだろうか。私が瑞樹を好きだとは、考えもしないのだろう。
「ヒトの心理についてね、考えてた。おかわりね、わかった。ついでくるから」
「ふうん、ヒトの心理?」
瑞樹が、不思議そうに首をかしげている。その様子を見ていたら、先日受けた授業の導入部分を思い出した。
「うん。瑞樹はね、大切な人が癌だってことを知っていて、本人がそれを知りたがったら、教える?」
「たとえばそれが、由澄季だったら」
瑞樹が、じいっと私を見つめるから、ドキドキしてくる。困った反射だ。
「教えるどころか、何も言わない。いや、その前に信じない。耐えられない」
「はあ?」
感情的な言葉を並べて、ちょっと唇を尖らせる瑞樹に、驚く。
「治るもん」
「……」
「絶対治るから」
ただのたとえ話だったのに、必死でそう言う瑞樹に、胸がきゅんとしてしまう私は、もう重症なんだろう。それこそ精神の癌だ、この恋は。
私が私らしい考えを持って言うなら、「そんな理論は成り立たない」って言い返すような、支離滅裂な答えだったのに。
「由澄季は?俺が癌だったら告知するの?」
瑞樹が試すような顔でそう言う。
「瑞樹が知りたいなら、話すよ」
「由澄季の場合は、どうでもいい奴だったら告知しないってこと?」
長い付き合いのせいか、瑞樹はときどき鋭い。迷いなく私が頷くのを認めて、瑞樹は少し頬を緩めた。
「そっか。大事な人間だと思ってるところは同じでも、反対のことをするんだな」
「うん。それが、価値観の違いってものなんだってさ」
「わかったような、わからないような」
それでいい、瑞樹は。
そう思いながら、もう一度ごはんや具を入れたどんぶりを、瑞樹の前に置く。
「おいしい?」
「おいしい!」
本当に食べざかりの子どもでも育ててるような気分だ。私はそう思いながらも、穏やかな気持ちで微笑んだ。
「もう予習しなくてもいいの?」
私がベッドに横になると、すぐに瑞樹が頭を撫でに来るから、びっくりした。
「うん。俺、体育科だろ。英語も、ほとんど取らなくても卒業できるから」
「えー、英語できない体育教師とか嫌だ」
「ひでー。必要ないんだから、我慢して」
「必要ないのかなぁ」
「いや、その前に俺、教師じゃなくて野球選手になるから」
疑問は残るけれど。
相変わらず大きな夢を見ている瑞樹に、頬が緩む。小学生の頃、野球を始めてから、ずっとそう言い続けている。高校で甲子園に行けなかったからって諦める様子もない。
瑞樹の温かい手が、ゆっくりと頭を撫でるのを感じ取ると、それだけでうんと眠くなる。一撫でごとに、少しずつ、夢の国が近くなる。
まだ東京での生活や、大学に通うことに、慣れたわけじゃないのに、落ち着いていられるのは、こうして週末に瑞樹と今までどおりの時間を過ごせるおかげなのかもしれない。
家族と同じくらい大切な瑞樹がいて、あたたかい実家と同じくらい、安心して眠れる夜があるから。
そんなふうで、寝入った私を置いて、瑞樹が帰り際に玄関の鍵をかけるため、瑞樹は私の部屋の合鍵を持っていた。
…それが、こんなことで役に立つとはなぁ。
変に冷静な頭で、B先輩(名前は憶えていない。だって興味ないから)の肩越しに、瑞樹の顔を見たときにそう思ったのだった。
まあ、たぶん瑞樹だ。だって、眼鏡が飛んじゃって、はっきりとは顔も見えないから。
「誰?あんた。由澄季に何してんの?」
聞いたことのない威圧感のある怖い声だ。
「あ…、いや」
言い淀んでいるB先輩の襟首を掴みあげている瑞樹は、いつもの瑞樹とは別の人みたい。
「俺には押し倒してるみたいに見えたけど」
はあ。やっと息ができる。
重くのしかかっていたB先輩が消えたので、私はのろのろと上半身を起こした。いつも以上に髪がぼさぼさだ。
手探りで、音がした方を探すと、眼鏡があった。眼鏡をかけてクリアになった視界には、やっぱり瑞樹がいた。
「もういいよ、瑞樹。帰してあげて」
私がそう言うのに、瑞樹は返事もしないで、B先輩を睨みつけている。猛獣が獲物を見てるみたいな目だ。
そんな顔、できるんだ。初めて見た。
「目障りだから、早く追い出して」
私の心境に正確な言葉に言い直すと、ようやく瑞樹が私の方をちらりとみて、かすかに微笑んだ。
だから、やっと私も、笑える。
あたふたと慌たように先輩がドアの向こうに消えたのを確認したら、ようやく深く息がつけた。
「お前、怖くないのかよ。無抵抗に見えたけど?」
「どうせ力では勝てないだろうから、考え事して気を紛らわせてた」
「ははっ。由澄季らしいな。気は紛れた?」
「ちょっとはね。それより、瑞樹の顔が怖くてびっくりした」
まさか、触れて来る先輩の手を瑞樹だと妄想して耐えてたとも言えず、話題を変えた。
「へ?」
「怒った顔、滅多に見ないから」
「そうだっけ?」
恥ずかしいのか、視線を泳がせて、かすかに顔を赤くする瑞樹。
「ありがと。なんか、代わりに怒ってもらったみたいで、全然腹が立たない」
「いや…」
複雑な顔で瑞樹はそう言って、何か考えている様子。
「由澄季はさ、それこそ他人に怒ることがないじゃん。興味がないって感じでさ」
「ああ」
瑞樹が何を思い返しているのか、私にもわかった。
「そう言えば、こういうときには、いつも私の代わりに瑞樹が怒ってたね?」
思い出すと笑える。
「わ、笑い事じゃねーし!あいつら、お前が何もしないのをいいことに」
ぶり返したのか、また瑞樹が怒った顔になりそうだ。
「ありがと」
そう言うと、はあ、とため息をついた後、瑞樹の顔が穏やかになった。
「私は大丈夫。うちの家族と瑞樹の家族だけが、私のことを理解してくれたら、後はほんとにどうでもよくて、興味がない」
だから、B先輩の名前どころか、顔だってもう思い出せないのだ。
「…あいつは?」
あいつ?瑞樹にあいつって言われるような、私の知り合いって、一人しかいない。交友関係狭いし。
「ああ、廣太郎は、なぜか私のことをよくわかってるね。変な奴」
私の唯一の友達だ。彼を思い出すと、自然に笑みがこぼれるくらいには、私は彼に心を許している。
「……」
「は?なに?」
「なんでもない!」
「何、急にカリカリして。あ、わかった!」
「なんだよ」
「お腹空いたんだ?」
「…間違いじゃない」
「正解って言って。気分がすっきりしない。そうだ、朝作った蒸しパンがあるよ」
「……マジで?」
ぱあっと瑞樹が顔を輝かせるから、作ってよかった、ってまた思う。
「マジで。レーズンたっぷりのやつね」
あれ、鉄分豊富なんだよね、きっとあのせいで瑞樹、やたらと背が伸びたんだよね、なんて思う。一時期、毎日食べたがるくらいに気に入っていたから。
「食べる!!」
すっかりいつもの様子に戻った瑞樹に、私の心もようやくいつも通りの落ち着きを取り戻せる。
「なあ、なんでさっきの男は、由澄季の部屋に入ってたの?」
瑞樹も、蒸しパンをある程度食べると、落ち着いたらしい。まだもぐもぐと食べながらも、そう尋ねてくる。
「トイレに行きたいって言ったから」
「そこのコンビニで行けって言えよ」
「なんで?」
家にトイレがあるのに、わざわざコンビニに行かせる理由がわからない。
「一人のときに男を部屋に上げない方がいい。勘違いする奴もいるし、魔が差す奴もいるし」
「勘違い?魔が差す?よくわからない」
「常識だろ」
「……」
常識、だろうか?言い返せないうちに、瑞樹の質問は、また始まった。相変わらず質問が好きだな、瑞樹は。
「どういう知り合い?」
「研究室の先輩」
「なんで一緒に帰ってきたの?」
「研究室の新入生歓迎会があったからね。ほら、夜は一人で帰るなって、瑞樹も言ってたでしょ」
「それは、家の前までだから!」
結局注意されてしまう。ときどき、こんなふうにお父さんみたいになるなあ、瑞樹って。いつもは子どもっぽいくせに。
「わかったってば。でも、なんで部屋に入ると、あんな乱暴な人に豹変したんだろう?直前まで普通だったのに」
私が首をひねると、瑞樹が呆れた、と言いそうな顔をした。
「だからさ、あれは、うーん、何て言えばいいのか…、そう、盛ってんだよ」
困った顔をしながら、一生懸命言葉を探していた瑞樹が、そう言った。
「ああ、コロンみたいに?」
実家で飼っている雄犬を思い出す。
「そう、そんな感じだと思う」
「そっか、先輩、発情期だったんだ。いや、ヒトに発情期なんかなかったはずだけど?」
「全くないわけじゃないだろ。なかったら、子孫が残せないはずだ」
「そっか、常に発情期なんだ。ん?なんか、私が瑞樹に勉強教えてもらうって、初めてじゃない?変な感じ」
私が疑問に思って聞き返すことに、ちゃんと瑞樹が答えてくれるって、いつもと逆の関係じゃないかな?
「勉強っていうかさ…」
再び瑞樹は呆れ顔だ。
「何よ」
「一般常識」
「…私、その言葉は嫌い」
「ぷっ。由澄季の頭は専門知識だけでできてるもんな」
笑いだす瑞樹の表情に、声に、胸がときめく自分がいる。いつになったら、こんなに彼の表情の一つ一つに心を揺らさないで済むようになるんだろう。
菜津希が傍にいなくなったことで、押さえつけている胸の奥の気持ちが詰まった入れ物の蓋が、弾けそうなくらい膨らんでいる気がする。
菜津希に感づかれないようにと気を遣うこともなく、ただただ、瑞樹の顔を見つめて、言葉を聞いていられることで、隠していたはずの感情は、着実に育ってしまっている。
幼馴染だから、心配してくれる。
幼馴染だから、助けてくれる。
幼馴染だから、教えてくれる。
幼馴染だから、傍にいてくれる。
それなのに、私の方は「幼馴染だから」瑞樹と一緒にいたいだけじゃない。「好きだから」一緒にいたい。
瑞樹の純粋な気持ちを利用しているような気もするけれど。いいよね、「幼馴染だから」ってことを言い訳にして、瑞樹と一緒の時間を楽しんでも。
心の中で言い訳をしながら、私は週末のこのわずかな時間を、心待ちにして、平日の時間を過ごしていた。