Let's study!!
19歳 Autumn

どうしてキスする必要があるのだろうか?

「なあ、由澄季の恰好、最近変わったな」

うとうとし始めたころ、瑞樹がぽつりと言った。

「うぅ?」

あと一歩で夢の世界に転がり落ちそうだたったので、上手く言葉が出て来なかった。瑞樹がぷっと吹きだしながら、頭を撫でていた手をそっと下ろして頬を撫でたから、胸がどきりとした。

「ごめん。寝てた?」

こうして落ち着いた声だけ聞いていると、瑞樹も大人になったんだなあ、なんて思う。いつもは落ち着きがないし、質問ばっかりしてるし、子どもっぽいんだけど。

「あと、ちょっとで寝そうだった。…あ、で、なんだっけ?」

薄眼を開けると、薄暗い部屋の中、瑞樹が私を静かに見下ろしているのがわかった。


「お前の服装。なんかこの頃変わったと思う」


ふくそう。あ、ああ、服装ね。

「莉子が買ってくる」
「は?」

「頼んでもないのに買ってきて、お金を請求するの。天使顔で」

莉子は、私を合コンに連れ出したときに、自分ではなく人を飾る楽しさに目覚めたらしい。あれから、顔を見るたびに「買い物に行こう」と誘うようになっていた。

でも、私は人込みも、お洒落なお店も苦手だ。断り続けていたら、とうとう「代理で買ってくる」と言うようになった。

莉子も買い物が上手なようで、買ってきてくれるものは、不思議なくらい私の体の大きさにぴったりで、着心地がよかった。だから、最近はありがたく思い始めたところだ。

「嫌じゃないの?」

瑞樹がそう尋ねるのも、無理はない。とにかく、家族と、瑞樹親子以外に、自分のプライベートに立ち入られるのは煩わしかったし、大体、立ち入ろうとする人間すらいなかったから。

「莉子も好き」

にっこり、となんの躊躇いもなく微笑む彼女の顔を思い出す。それは、裏も表もない綺麗な表情だ。

「そっか…」

なのに、なんとなく、瑞樹の表情が晴れない気がして。
「どうかした?」

瑞樹は、あまり廣太郎を信用していない。もしかしたら、その彼女だから、莉子のこともよく思っていないのかもしれない。

でも、会えばその印象も変わるかも。機会があったら、ちゃんと紹介してみようかな。


「かわいくなりすぎる」


莉子と瑞樹の対面について考えを巡らせていたから、何の話をしていたのか、わからなくなっていた。

「…何のことだっけ?」

私が首をかしげると、瑞樹ははあ、とため息を吐いた。

「お腹空いたの?」

「っ。馬鹿。俺だって、いつも腹減ってるわけじゃないからな」

瑞樹が顔を赤くして言い返すから、余計笑える。

「そっか。じゃあ、来週何食べたいか、聞かないでいいんだ?」

「いや、それとこれとは話が別だから」

慌ててそう言って、うーんって考え込んでいる瑞樹が、相変わらず愛しい。「来週」なんて、自分からは言わないようにしていたのに。
無意識のうちに、次に会える日を楽しみにしていることが、自分でもわかってしまう。

「また、来るならその前に、食べたいものをメールしてくれればいい」

「うん」

「来るなら」と仮定にとどめたのは、せめてもの防御だ。もし、瑞樹が来なかったとしても、約束していたわけじゃないと、自分を慰めるための。

「お前もまた明日、早起きするんだろ?もう寝たら?起こしてごめんな」

瑞樹が、温かい手で前髪を撫でたついでに、瞼を閉じさせて、私の視界は真っ暗になった。

いつまで、こうして、私の頭を撫でに来てくれるんだろうか。

実家にいたころは、持ちつ持たれつの関係で、私が夜寝かしつけてもらう代わりに、瑞樹を朝起こしていた。

今は、お互いに、そこまで助け合う必要はない。

いつか、こんな優しい時間も、失われるだろう。

その時こそ私は、瑞樹への気持ちを断ち切れるんだろうか。


柔らかい感触を、額に受けた気がして、でも今度は、もう一度目を開けることも叶わないくらいに意識は失われている。

この感触に気がついたのは、いつからだっただろうか。

朝目が覚めたときには、やっぱり気のせいだったんじゃないかと、いつも思う。

でも、やっぱり。やっぱり。



キス。



真夏より次第に威力を失くした朝日の中で、ぱちりと目が覚める。

少し、寝過ぎたみたい。

瑞樹が寝かしつけてくれた夜は、いつもそうだ。特にこの頃は、寝入りの優しい感触のせいで、夢の中でもあれこれ考えているのか、すっかり疲れて長く眠ってしまう。

そっと額に手をやる。

「なんでキスするんだろう」

声に出してみると、ようやくその事実は現実味を帯びた。何度も気のせいだとか妄想だとか思ったけれど、そうじゃない。

瑞樹、何考えてるんだろう。

私を間違えて抱き寄せて、「ごめん」と謝ったときの瑞樹の声音を思い出す。しつこく胸が痛むのは、まだそこに棘があるからだろう。

瑞樹が眠った私の額に口づけするようになったのは、夏休み以降だと思う。

それは、瑞樹が菜津希に久しぶりに会った時期だ。


…恋しくなった、かな。


遠距離恋愛は、辛いって、テレビのドラマで言ってた。私から進んでドラマを観ることはないけど、瑞樹がよく観てたから、知ってる。

毎日顔を合わせていた恋人が、遠くにいるってどんな感じなんだろう。

きっと、寂しい気持ちを我慢していたところに、中途半端に顔を見たから、我慢しきれなくなったんだ。

そんなときに、多少顔が似てる(とは、私にはどうしても思えないけど)姉が近くにいたら、心のよりどころにしたくもなるんだろうか。

確か、私を抱き寄せた時も、「間違えた」って言ったはずだ。

私を菜津希を間違えるのなんか、瑞樹くらいだけど、そのくらい、菜津希に飢えているのかもしれない。
そう思うと、切ないため息が零れる。


なのに、額を撫でる手が、少し震える。ここに、瑞樹の唇が、触れたと思うだけで、胸まで震える。

馬鹿な、私。ただの身代わりなのに。

そんなふうに、長い時間、ベッドでぼんやりしていたので、珍しく講義に遅刻しそうになって、朝の勉強時間も1分もなく、慌てて部屋を出る羽目になったのだった。



何食わぬ顔しながら、目の前に座っている瑞樹を、ひそかに観察する。

その顔のどこか、その仕草のどこか、ひとつでも、以前とは違うところがあるんじゃないかって。

そう、先週末の夜、私の額にキスしたなら。

でも、やっぱり今日もその差異は見つけられない。


瑞樹は、女の子に見えた子ども時代が嘘のように、今では男っぽくてはっきりした顔立ちをしてる。面影を残しているのは、目の形くらいだ。皮膚や瞳、髪は、ちょっと色素が薄くて、ハーフかクオーターかって言われることも多い。

黙っていたり怖い顔したりしてるときには近寄りがたいその顔が、笑みを浮かべているときは、瑞樹のいいところが全部表われてるような気がする。

ただ、そうしていると、瑞樹は男女を問わず大変モテる。


「大学、大丈夫?」


ふと思い出して、そう訊くと、瑞樹は一瞬考えたけれど、ふっと微笑んだ。それはいつもの明るい笑顔とは違って、諦めるような大人びた笑みだったから、ドキリとした。
「大丈夫。さすがに、俺も成長したらしい」

幼い頃、おませな女の子に四六時中追いかけられて、困惑していた瑞樹の顔を見て、私と菜津希は爆笑していたものだった。

周りだけは盛り上がっていたけれど、瑞樹自身の精神年齢はいつまでも幼いままで、「あの日」までずっと恋愛に縁がないままだったんだと思う。

そういう意味では、瑞樹と菜津希は、似た者同士だ。

「上手く逃げおおせてるんだ」

「うん。たぶん」

大学のキャンパスで、女の子をかわしている瑞樹を思い浮かべてみるけど、上手くいかない。瑞樹らしくなくて。どんなふうに「大丈夫」なのやら。


「あの日」、菜津希と付き合うようになってから、他の女の子が瑞樹と距離を置くようになった。


だいたい、菜津希に敵う女の子がいない。

そして、菜津希のまとう危険な香りに、同性なら大抵気がつくに違いない。

菜津希を敵に回してはいけない、と姉である私すら、本能的に思う。でも、具体的にひどい目にあったことはないのだけれど。

瑞樹にとっては、菜津希が一番の虫除けだったってことだ。言い方が悪いけど。


「菜津希がいてくれたらいいのにね」

ぽつりと、呟いた。

菜津希と一緒にいる瑞樹を見たくはないのに、彼にとってはその方がいいんだろうと思う。私が二人を見ずに済むなら、二人は一緒にいるのがいいと思う。

「なんだ、寂しいのか?」

「…私じゃないよ」

「へ?」

とことん鈍感な瑞樹に呆れる。

まあ、確かに、私自身も、同じ高校に菜津希が入学してきて、何かと物を借りに教室に来たおかげで、クラスメイトからあれこれ口出しされることはなくなったから、ずいぶん助かったけど。

「寂しいのはあんたでしょ!それに、菜津希がいてくれると何かと都合がいいでしょ」

なんで私からこんなこと言わなきゃいけないのかわからないけど、全て鈍感な瑞樹のせいにしておこう。
「ああ、そう?俺、もう一人でもなんとかやってるから。それに、意外と寂しくない」

「嘘つけ!き」

「き?」

「き、危機一髪?」

「?」

危ない!「キスしたくせに」って言いそうだった!!しかも、上手く誤魔化せなかった…。


きょとんとした様子の瑞樹。なんで、こんなにいつもと様子が変わらないのか、理解に苦しむ。瑞樹は単純なくせに、相変わらず私を悩ませる。

< 14 / 30 >

この作品をシェア

pagetop