Let's study!!
19歳 Winter
浮気なんて、どういうつもりなのだろう?
「年末年始も帰省しないの?」
さすがにそれは、変だと思う。私がそう訝しんで瑞樹を見つめると、彼はバツが悪そうに目を逸らす。
「ん、まあ、金ないしさ」
それはわかっている。女手一つで瑞樹を育てているみーこちゃんのため、瑞樹は毎日のようにバイトに励んでいるけど、それを休む上に、帰省するための交通費を考えると、確かにお金がもったいないということは。
「じゃあ、一緒にヒッチハイクして帰ろう」
お金がかからないならいいんだろう、と、真面目にそう提案する。
「は、由澄季ってほんと、発想が変だな」
瑞樹がようやくのんきな笑みを浮かべるのだけれど、まだ納得がいかない。
「みーこちゃんが仕事でいないとしたって、うちのおばあちゃんや両親も、瑞樹に会いたいと思うよ」
そう、我が家の大人たちにとっても、瑞樹は息子も同然なのだ。
「そうだな」
瑞樹はそう肯定はするものの、帰るとは言わない。浮かべた小さな微笑みが、なんだかちょっと寂しそうなのに、帰るとは言わない。
「菜津希が、苛めたの?」
もうそれしかないと思う。瑞樹が、春から一度も帰省していない理由は、菜津希しかありえない。
そして、夏は東京に菜津希が来たからいいとしても、冬には私が帰省してしまっていないから、泊まる場所のない菜津希は来ないことになっているはずだ。
それでも、瑞樹が帰省しないなんて、菜津希に会えない理由でもあるんじゃないかって、勘ぐってしまうのは当然の流れだ。
「浮気だよ」
逃げられないと思ったらしく、瑞樹が口を開いた。おおよそ瑞樹の雰囲気に似つかわしくない単語に、今度は私が戸惑う番だった。
「浮、気?」
黙って不貞腐れた顔をしてる瑞樹を久し振りに見た。ずきり、と胸が痛む。浮気をしたのは瑞樹ではなく、菜津希で間違いないだろう。
「浮気って…、菜津希は、他の男の子と出掛けたりするんだ?」
「まあ、そうだけど。そんな生易しい程度じゃないな」
浮気の程度とやらが、よくわからなくて、追及しようと思うのに、言葉が出ない。沈んだ顔を、瑞樹が見せたから。
「奈津希はちゃんと瑞樹のところに帰ってくるよ。寂しがり屋なだけだから」
だから、それ以上訊くのはやめて、励ましてみることにした。
「そうだけど」
私が言うことには、大抵すぐに納得して笑顔になる、単純な瑞樹が、今はいない。
「何、それでも不満?」
「いや、数が多いから」
「数?」
私がきょとんとした顔がおかしかったのか、ようやく瑞樹がかすかに笑った。
「珍しいな、その不思議そうな顔。由澄季の理解を超えた?まあ、俺だって、奈津希を理解することなんかできないけど」
「なんの数?具体的にはいくつ?」
「奈津希の浮気相手の人数。俺が知ってるだけでも4人」
開いた口が、文字通り塞がらなかった。
妹が、知らない女のように思えた。瑞樹にまとわりついてたのが、嘘みたいだった。
数ヵ月ぶりに、我が家の姿を目でとらえる。相変わらず古びている。
自然に視線が向いた向かいの家は、日が落ちた今も明かりはなく、相変わらずみーこちゃんがあちこち飛び回っているのだということがよくわかった。
彼女の書く記事を、私も読んだことがある。
良くも悪くも個性的で、でもなんだか癖になるような旅行記だった。海の美しさで有名な土地を訪れながら、なぜか遺跡発掘の仕事に従事していたらしい。ライターとしてではなく、ただの発掘員として暮らしている日々の様子が、淡々と綴られていた。
彼女の仕事は順調らしく、売れっ子というほどではないものの、依頼が途切れることはないようだ。ただ、もらった原稿料をそっくり次の記事の取材につぎ込んでしまうから、なかなかお金が家に入らないらしい。
瑞樹は高校生のころからアルバイトをしていたし、それは東京で進学した今でも変わらない。たぶん、生活費や学費の大半を自分で賄っているだろう。
親の脛をしっかり齧って、ひたすら勉強している私とは対照的だ。
それでも、瑞樹はバイトを楽しんでいる。そして、母親を誇りに思っている。
切りつめて、年末年始の帰省すら取りやめた瑞樹を想う。
それなのに、何をやってるんだ、菜津希は。
「あ、おかえり」
明らかに不機嫌な顔で帰って来たはずの私に、なんでもないことのように、菜津希がそう言った。
「どういうつもり」
ガソリンスタンドか、コンビニか、いくつもかけもちしてるから、今どこでバイトしてるんだかよくわからない瑞樹を思い浮かべる。
睨みつけたつもりなのに、菜津希はふわっとあでやかに微笑んだから、場違いなのは私の方だと錯覚しそうになった。
「寂しいからね、ちょっと慰めてもらった」
表情に疑問は残るけれど、はっきり言ったわけじゃない私の意図するところを汲み取ったに違いない。
そしてその答えは、明らかに浮気を肯定するものだ。
「余計空しい。そんなに寂しいなら学校休んで瑞樹の家に行けば」
…イライラする。
お金がないからといって、菜津希を避ける瑞樹も変だけど、そこを押し切って瑞樹に会いに行かない菜津希にも。
「親がうるさいし」
「そんなもん全く気にしたことないくせに」
ふふふふと笑う菜津希に、深刻さは全く見られず、私の考え方がおかしいのかと思いそうになる。
「他の男の子も意外と悪くないんだよね。瑞樹よりよっぽど必死で情熱的だし」
「瑞樹より」?
かあっと頭に血が上ってくる。
「何考えてんの。頭おかしいんじゃない?しっかりしな」
そう言い捨てて、私は菜津希を押しのけて階段を上り、自分のドアを叩きつけるようにして閉めたのだった。
もう!!まだイライラする!ムカムカする!
翌朝、目が覚めたらいくらかさっぱりしてるんじゃないかと思った気分が、いっそう荒れていて、私は気が重い。
こんな状態で、菜津希の顔なんか見たら、腹が立って子どものころみたいにとっくみあいの喧嘩をしてしまいそうだ。
まだ荷解きしきっていなかった、大きな荷物を見て、「東京に戻ろうかな」と呟いたそのときだった。
ピンポンピンポンピンポンピンポーン!
激しく連打されたらしい呼び鈴に、私ははっとした。さっきまでの重苦しい気分は一瞬で吹き飛んで、玄関に駆け出していた。
開いた扉の向こうには、やっぱり予想通りの人がいた。
「由澄季ちゃーん!!あそぼ!!」
どこの子どもだっていう台詞を発したのは、にこにこにこにこ笑っているみーこちゃんだった。
「うん、いいよ。みーこちゃんはいつ帰って来たの?」
えへへ、と笑いながら、みーこちゃんが門を通って私に近づくと、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「昨日の夜遅く。瑞樹、知らない?」
「バイトがあるから帰らないって言ってた」
「そっか。生きてるならいいけど」
相変わらずのみーこちゃんに、自然に笑みがこぼれる。彼女の天真爛漫な愛情のかけ方が、いつも私の気持ちをあったかくするのは、今も変わらないらしい。
「ね、私、またすぐに出かけるから、かなり早いけど初詣に行きたいの」
みーこちゃんらしい。
「うん、行こう。着替えてきてもいい?」
まだ起きたばかりで、部屋着だったので、そう訊くと、みーこちゃんは「そのままでもいいけどね」と微笑むから噴き出した。この人ってきっと、本気でそう思ってる。
「みーこちゃん、来て。新作のクッキーがあるから食べて待ってて」
そう言いながら彼女の手を引いて家に入ると、「きゃあ!食べる!もう初詣行かなくてもいい!」と騒ぎはじめたので、家族が全員ダイニングに集まりだした。
「あら、美樹子さん」
「みーこちゃんだ」
「久しぶりだな」
みーこちゃんは、我が家でも愛されている。このキャラだもの。
2階の自分の部屋に戻るとき、廊下のさらに奥にある菜津希の部屋が、一瞬気になった。まだ寝てるらしく、静かなその部屋で、彼女はいったい何を考えているんだろうと。
考えたって、私にわかるはずもない。
頭を振って気持ちを切り替えると、私は着替えて、みーこちゃんと出かけた。
神社は、当然のことながら、まだ人気はない。
静かな張りつめた冷たい空気の中で、白い息を吐きながら歩いていると、みーこちゃんがそっと私の手を取った。
ふと彼女の方を振り返ると、「くふ」とかわいく微笑むので、つられて笑ってしまう。
「私が帰って来てるって、よくわかったね?お父さんに聞いたの?」
どうも初めから私を連れ出すつもりで、彼女が家に来た様子だったことを思い出した。
実家で暮らしていたころから、瑞樹や菜津希とは違って、友達も彼氏もいない私は、家に閉じこもりがちだったから、気まぐれに戻ってきたみーこちゃんの格好のお伴だった。
「ううん。由澄季ちゃんの部屋のカーテンが閉まってたから」
「変なところ敏感だね、みーこちゃんは」
大らかで細かいことを気にしない割に、鋭いところがあるのも昔からだ。
「今度はどこまで行ってたの?」
「ウクライナ」
「へえ。寒いね。何か珍しい生き物はいた?」
いつも、彼女の旅先に、どんな動植物があったのかを聞くのが、私の楽しみだった。それは今でも変わらないようだ。
「うん。瑞樹の父親かもしれない生き物を見た」
「へっ」
間抜けな声が漏れたけど、みーこちゃんは一向に動揺する様子もない。
「瑞樹の父親」「かもしれない」「生き物」…たくさん、理解に苦しむ言葉が詰め込まれていて、混乱しているのは私だけだ。
「生き物って…ヒトだよね」
「そりゃそうだよね」
よし、一つ目の障害を突破。
「『瑞樹の父親』って、誰がお父さんなのか、心当たりがあるの?」
「そりゃあるよ」
よし、二つ目の障害も突破。
「『かもしれない』って、確信はないってこと?」
「そういうことになるね」
…三つ目の障害、突破…?なんだか、謎が増したような気がする。そして答えは簡単に出そうにない。
「あは」
私の混乱を見透かしたように、みーこちゃんが笑っている。いや、笑っている場合じゃない気がするんだけど。
「わたし、昔から遠くに出掛けるのが好きで。大学生の時はね、毎年留学してたの。いろんな国に。4年生の夏に行ったのが、ロシア。そこで知り合ったのが、彼」
今の私より、いくつか年上のころのみーこちゃんを想像してみるけど、それはやはりひどく魅力的な女の子だ。可愛くて楽しくて、きっとその男の人は彼女に夢中になったに違いない。
「すぐに恋に落ちちゃった」
もちろんそれも、想像に難くない。話を聞いている限り、みーこちゃんも恋多き女だから。
「でも、彼のお兄さんも、ずいぶん私を好きだって言ってくれたんだ」
あ、一気に話がややこしくなってきた。
「だからと言って、私がきちんと断ってる分には何の問題もなかったのに、彼はひどいやきもち焼きでね。イライラしっぱなしだったから、だんだん私との仲も壊れ始めた。そうすると、若くて弱い私の心も、優しいお兄さんの方に傾いちゃって」
あはは、と恥ずかしそうにみーこちゃんは目を伏せる。
「ちゃんと彼と別れてから、お兄さんとお付き合いをしたのは確かなの。でも、妊娠した時期をはっきり特定するのって、難しいから」
そうか。だから、父親「かもしれない」っていう表現になったのか。
「ごめんね。聞きたくなかった?」
黙ったままの私に心配になったのか、みーこちゃんが不意に顔を覗き込んだからびくっとした。その目は、瑞樹にそっくりだ。
「ううん。素敵な話だった」
あわてて言葉を探すと、そうなった。
「へえ?」
くすくす笑いながら、みーこちゃんが言う。
「どちらにしても、そのときみーこちゃんが一番好きだった人の子どもなんだね、瑞樹は」
父親が、その兄弟のどちらだったとしても、それだけは確実なのだ。
「だから、由澄季ちゃんって好き。合理的で優しい答えばかり出す」
「はあ?」
「いいのいいの」
よくわからないけど、神社でぎゅうぎゅうとみーこちゃんに抱きしめられてる私って、ちょっと年の離れたお姉さんに甘えてるみたいに見えるんじゃないかなあと、どうでもいいことを考える。
「あ、そうだ。これ、あげる」
コートのポケットから、かさこそと紙を何切れか出して、みーこちゃんは私の手に持たせた。
「遊園地?お化け屋敷?」
細長いその紙は、遊園地の招待状だった。無料で入場できるらしい。
「うん。リニューアルしたんだって。すっごく怖いらしい。出版社の人からもらったんだけど、東京だし、わたしには行けないから」
「ええ?瑞樹もいるんだから、東京まで来て一緒に行けばいいのに」
「やだよー、瑞樹の狭い部屋に泊まるのなんて。それに瑞樹はお化け屋敷嫌いだもん」
「ん?そうだっけ?」
「そうだよ。覚えてない?小学校の時、お化け屋敷の中で私たちとはぐれちゃって、由澄季ちゃんが瑞樹の手を引っ張って出てきてくれたの」
「はあ、そんなことがあったような気もするけど。あんまり思い出せないな」
「赤い顔して震えててさ。何があったんだろうね?そんなに怖いものあったかな?」
みーこちゃんは楽しそうにくすくす笑って、私の手を握る。「かえろっか」と言いながら。
みーこちゃんのおかげで、心のもやもやは幾分晴れて、家に帰ることができた。
年末年始はさすがに家でのんびりできる両親と、大学の講義について話し合ったり、おばあちゃんとおせちやお雑煮を作ったり。帰省初日のいらだちは、なりを潜めたらしく、家族との時間を穏やかに過ごすことができた。
それは、あれきり、まともに菜津希の顔を見ずに済んだせいかもしれない。
母親いわく、「バイト」だったり、「友達の家」だったり、菜津希は昼ごろに目覚めるとふらっと出かけて深夜まで戻らなかった。
そうじゃなかったら、私は不用意な発言や行動をとっていたかもしれなかった。
「で、何、お土産ってこれ?」
明らかにがっかりした顔で、瑞樹が紙きれをつまんでいる。それは、みーこちゃんがくれたお化け屋敷の入場券だ。
「そう。行く?」
「行きたくない」
即答だった。優柔不断な瑞樹にしては珍しく。
みーこちゃんが言った通り、瑞樹はお化け屋敷が嫌いらしい。そこはやっぱり母親というべきなんだろうと思うと、ほほえましい。
「お前は覚えてないの?みーこに連れて行かれたお化け屋敷のこと」
拗ねたような顔で、ちらりと一瞬だけ私の顔を盗み見た瑞樹の仕草に、首をかしげた。
「あんまり覚えてないみたい。みーこちゃんとはぐれたらしいね。そんなに怖かったっけ?」
そう言うと、瑞樹はため息をついた。
「怖いっていうか、いや、確かに怖かったけど、それよりも。…ん、まあ、いいや」
もごもごと何か言っていたけれど、結局あきらめたらしく、おばあちゃんからのお土産の漬物をかじり始めた。
じゃあ、この入場券はどうしようか。
ごろ寝しながらテレビを観ている瑞樹の背中を見ながら、そう考えるけど、私に思いつくことなんてひとつしかない。
よし、廣太郎と莉子にあげよう。
大学では、研究室での課題があれば、同級生や先輩ともぽつぽつ話す。高校まで浮いていた私も、人数の多い大学で、それぞれが好きな格好で好きなことをしている中では、悪目立ちしないようだ。
それでも、講義や研究室を離れたところで会う友達は、彼ら以外にはいないから。ちょうど2枚あるチケットは、ふたりのデートにちょうどいいような気もしてきて、すぐに廣太郎にメールを送信した。
To 望月廣太郎
Sub. 無題
本文 お化け屋敷の招待券が2枚あるけど、いる?
すると、廣太郎からすぐに返事があった。
From 望月廣太郎
Sub. いる
本文 取りに行く。
…短い。相変わらずのメールにふと笑うと、瑞樹がいつの間にか振り返っていた。
「誰?」
「は?」
「誰からメール?」
瑞樹は耳がいい。テレビの音にかき消されるくらいの小さな着信音がちゃんと聞こえたらしい。
「廣太郎」
「ふーん」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
まさかとは思ったけど、そのまさかで、そっと覗いたドアのスコープには、こちらをガン見している廣太郎がデフォルメされた姿で映っていた。
「誰だった?」
「わ」
いつの間にか肩越しに、瑞樹がスコープを覗き込もうとしていたから、ちょっと驚いた。気配がなかった気がする。
「ああ、廣太郎みたい」
「今来たってメールだったの?約束してたわけ?」
「はあ?してないけど」
「じゃあ何?」
「偶然じゃないの?お化け屋敷のチケットをあげようかとおもっ」
ピンポンピンポーン。
外に立っている廣太郎にも声が聞こえてるんじゃないだろうか。「いるなら早く開けろ」って言ってるみたいにまたチャイムが鳴らされて、私はドアを開けた。
「よっ。…ああ、悪いな、急に来て」
ちらりと瑞樹の方を見て、廣太郎がそう言った。瑞樹がいるとは廣太郎も想定してなかったんだろう。
「大丈夫。近くにいたの?」
瑞樹もそう頻繁にここに来るわけじゃない。週末で、友人との約束がなくて、飲み会やバイトの予定もないときにしかいないのだ。
いくら鍵を持っているとは言っても、私が寝た後には入ってこない。夜に予定があるときには、夕方短時間寄って、何か食べて帰っていくこともあるけれど、2週間くらい顔を見ないことはよくあることだ。
「同じ学科のヤツんちがすげえ近いんだ。ちょうどそこで飲んでたから」
「そっか。あ、これね、チケット」
私が券を出すけど、廣太郎はすぐには受け取らなかった。
「お前、行きたくねえの?」
ちらっと瑞樹を見るから、殴ってやろうかと思った。「好きな男と行って来いよ」ってことなんだろうけど、今振られたところだから!
「うーん、おもしろそうだけどね」
一緒に行く人いないから、と続けそうになったのをこらえて、目で抗議した。
「あ、ああ、そうか。なんなら莉子と行くか?」
「え?いや、いいよ。そこまでしなくても」
「遠慮すんなよ。連絡しといてやる。莉子がだめなら俺が」
「ええ?」
いいよ、と断ろうとした時。
「俺が行く」
大人しかった瑞樹が急に口を開いたから、ようやくその存在を思い出した。えっと…、何の話をしてたっけ、廣太郎と…。
「ええ!?」
お化け屋敷の入場券のことを話してたんだった。「俺が行く」?瑞樹が?はあ?
「何無理してんの?」
「むっ、無理してないし!」
ムキになる瑞樹に苦笑いしてしまう。
「廣太郎は私の友達だから、これの前でカッコつけなくてもいいよ。嫌いじゃん、お化け屋敷」
ぶっと噴き出した廣太郎に、むっとしながら顔を赤くする瑞樹。あ、言わなくていいことを言ってしまったらしいな。
「これってなんだよ」
「カッコつけてねーし!」
「えーっと、とにかくこれは、廣太郎にあげる!じゃあね!さっさと友達の家に戻って飲み直そうね!」
ひそかに焦りながら、私はなかば強引に、廣太郎の手に入場券を押し込んで、ついでにドアもバタンと閉めてしまったのだった。
さすがにそれは、変だと思う。私がそう訝しんで瑞樹を見つめると、彼はバツが悪そうに目を逸らす。
「ん、まあ、金ないしさ」
それはわかっている。女手一つで瑞樹を育てているみーこちゃんのため、瑞樹は毎日のようにバイトに励んでいるけど、それを休む上に、帰省するための交通費を考えると、確かにお金がもったいないということは。
「じゃあ、一緒にヒッチハイクして帰ろう」
お金がかからないならいいんだろう、と、真面目にそう提案する。
「は、由澄季ってほんと、発想が変だな」
瑞樹がようやくのんきな笑みを浮かべるのだけれど、まだ納得がいかない。
「みーこちゃんが仕事でいないとしたって、うちのおばあちゃんや両親も、瑞樹に会いたいと思うよ」
そう、我が家の大人たちにとっても、瑞樹は息子も同然なのだ。
「そうだな」
瑞樹はそう肯定はするものの、帰るとは言わない。浮かべた小さな微笑みが、なんだかちょっと寂しそうなのに、帰るとは言わない。
「菜津希が、苛めたの?」
もうそれしかないと思う。瑞樹が、春から一度も帰省していない理由は、菜津希しかありえない。
そして、夏は東京に菜津希が来たからいいとしても、冬には私が帰省してしまっていないから、泊まる場所のない菜津希は来ないことになっているはずだ。
それでも、瑞樹が帰省しないなんて、菜津希に会えない理由でもあるんじゃないかって、勘ぐってしまうのは当然の流れだ。
「浮気だよ」
逃げられないと思ったらしく、瑞樹が口を開いた。おおよそ瑞樹の雰囲気に似つかわしくない単語に、今度は私が戸惑う番だった。
「浮、気?」
黙って不貞腐れた顔をしてる瑞樹を久し振りに見た。ずきり、と胸が痛む。浮気をしたのは瑞樹ではなく、菜津希で間違いないだろう。
「浮気って…、菜津希は、他の男の子と出掛けたりするんだ?」
「まあ、そうだけど。そんな生易しい程度じゃないな」
浮気の程度とやらが、よくわからなくて、追及しようと思うのに、言葉が出ない。沈んだ顔を、瑞樹が見せたから。
「奈津希はちゃんと瑞樹のところに帰ってくるよ。寂しがり屋なだけだから」
だから、それ以上訊くのはやめて、励ましてみることにした。
「そうだけど」
私が言うことには、大抵すぐに納得して笑顔になる、単純な瑞樹が、今はいない。
「何、それでも不満?」
「いや、数が多いから」
「数?」
私がきょとんとした顔がおかしかったのか、ようやく瑞樹がかすかに笑った。
「珍しいな、その不思議そうな顔。由澄季の理解を超えた?まあ、俺だって、奈津希を理解することなんかできないけど」
「なんの数?具体的にはいくつ?」
「奈津希の浮気相手の人数。俺が知ってるだけでも4人」
開いた口が、文字通り塞がらなかった。
妹が、知らない女のように思えた。瑞樹にまとわりついてたのが、嘘みたいだった。
数ヵ月ぶりに、我が家の姿を目でとらえる。相変わらず古びている。
自然に視線が向いた向かいの家は、日が落ちた今も明かりはなく、相変わらずみーこちゃんがあちこち飛び回っているのだということがよくわかった。
彼女の書く記事を、私も読んだことがある。
良くも悪くも個性的で、でもなんだか癖になるような旅行記だった。海の美しさで有名な土地を訪れながら、なぜか遺跡発掘の仕事に従事していたらしい。ライターとしてではなく、ただの発掘員として暮らしている日々の様子が、淡々と綴られていた。
彼女の仕事は順調らしく、売れっ子というほどではないものの、依頼が途切れることはないようだ。ただ、もらった原稿料をそっくり次の記事の取材につぎ込んでしまうから、なかなかお金が家に入らないらしい。
瑞樹は高校生のころからアルバイトをしていたし、それは東京で進学した今でも変わらない。たぶん、生活費や学費の大半を自分で賄っているだろう。
親の脛をしっかり齧って、ひたすら勉強している私とは対照的だ。
それでも、瑞樹はバイトを楽しんでいる。そして、母親を誇りに思っている。
切りつめて、年末年始の帰省すら取りやめた瑞樹を想う。
それなのに、何をやってるんだ、菜津希は。
「あ、おかえり」
明らかに不機嫌な顔で帰って来たはずの私に、なんでもないことのように、菜津希がそう言った。
「どういうつもり」
ガソリンスタンドか、コンビニか、いくつもかけもちしてるから、今どこでバイトしてるんだかよくわからない瑞樹を思い浮かべる。
睨みつけたつもりなのに、菜津希はふわっとあでやかに微笑んだから、場違いなのは私の方だと錯覚しそうになった。
「寂しいからね、ちょっと慰めてもらった」
表情に疑問は残るけれど、はっきり言ったわけじゃない私の意図するところを汲み取ったに違いない。
そしてその答えは、明らかに浮気を肯定するものだ。
「余計空しい。そんなに寂しいなら学校休んで瑞樹の家に行けば」
…イライラする。
お金がないからといって、菜津希を避ける瑞樹も変だけど、そこを押し切って瑞樹に会いに行かない菜津希にも。
「親がうるさいし」
「そんなもん全く気にしたことないくせに」
ふふふふと笑う菜津希に、深刻さは全く見られず、私の考え方がおかしいのかと思いそうになる。
「他の男の子も意外と悪くないんだよね。瑞樹よりよっぽど必死で情熱的だし」
「瑞樹より」?
かあっと頭に血が上ってくる。
「何考えてんの。頭おかしいんじゃない?しっかりしな」
そう言い捨てて、私は菜津希を押しのけて階段を上り、自分のドアを叩きつけるようにして閉めたのだった。
もう!!まだイライラする!ムカムカする!
翌朝、目が覚めたらいくらかさっぱりしてるんじゃないかと思った気分が、いっそう荒れていて、私は気が重い。
こんな状態で、菜津希の顔なんか見たら、腹が立って子どものころみたいにとっくみあいの喧嘩をしてしまいそうだ。
まだ荷解きしきっていなかった、大きな荷物を見て、「東京に戻ろうかな」と呟いたそのときだった。
ピンポンピンポンピンポンピンポーン!
激しく連打されたらしい呼び鈴に、私ははっとした。さっきまでの重苦しい気分は一瞬で吹き飛んで、玄関に駆け出していた。
開いた扉の向こうには、やっぱり予想通りの人がいた。
「由澄季ちゃーん!!あそぼ!!」
どこの子どもだっていう台詞を発したのは、にこにこにこにこ笑っているみーこちゃんだった。
「うん、いいよ。みーこちゃんはいつ帰って来たの?」
えへへ、と笑いながら、みーこちゃんが門を通って私に近づくと、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「昨日の夜遅く。瑞樹、知らない?」
「バイトがあるから帰らないって言ってた」
「そっか。生きてるならいいけど」
相変わらずのみーこちゃんに、自然に笑みがこぼれる。彼女の天真爛漫な愛情のかけ方が、いつも私の気持ちをあったかくするのは、今も変わらないらしい。
「ね、私、またすぐに出かけるから、かなり早いけど初詣に行きたいの」
みーこちゃんらしい。
「うん、行こう。着替えてきてもいい?」
まだ起きたばかりで、部屋着だったので、そう訊くと、みーこちゃんは「そのままでもいいけどね」と微笑むから噴き出した。この人ってきっと、本気でそう思ってる。
「みーこちゃん、来て。新作のクッキーがあるから食べて待ってて」
そう言いながら彼女の手を引いて家に入ると、「きゃあ!食べる!もう初詣行かなくてもいい!」と騒ぎはじめたので、家族が全員ダイニングに集まりだした。
「あら、美樹子さん」
「みーこちゃんだ」
「久しぶりだな」
みーこちゃんは、我が家でも愛されている。このキャラだもの。
2階の自分の部屋に戻るとき、廊下のさらに奥にある菜津希の部屋が、一瞬気になった。まだ寝てるらしく、静かなその部屋で、彼女はいったい何を考えているんだろうと。
考えたって、私にわかるはずもない。
頭を振って気持ちを切り替えると、私は着替えて、みーこちゃんと出かけた。
神社は、当然のことながら、まだ人気はない。
静かな張りつめた冷たい空気の中で、白い息を吐きながら歩いていると、みーこちゃんがそっと私の手を取った。
ふと彼女の方を振り返ると、「くふ」とかわいく微笑むので、つられて笑ってしまう。
「私が帰って来てるって、よくわかったね?お父さんに聞いたの?」
どうも初めから私を連れ出すつもりで、彼女が家に来た様子だったことを思い出した。
実家で暮らしていたころから、瑞樹や菜津希とは違って、友達も彼氏もいない私は、家に閉じこもりがちだったから、気まぐれに戻ってきたみーこちゃんの格好のお伴だった。
「ううん。由澄季ちゃんの部屋のカーテンが閉まってたから」
「変なところ敏感だね、みーこちゃんは」
大らかで細かいことを気にしない割に、鋭いところがあるのも昔からだ。
「今度はどこまで行ってたの?」
「ウクライナ」
「へえ。寒いね。何か珍しい生き物はいた?」
いつも、彼女の旅先に、どんな動植物があったのかを聞くのが、私の楽しみだった。それは今でも変わらないようだ。
「うん。瑞樹の父親かもしれない生き物を見た」
「へっ」
間抜けな声が漏れたけど、みーこちゃんは一向に動揺する様子もない。
「瑞樹の父親」「かもしれない」「生き物」…たくさん、理解に苦しむ言葉が詰め込まれていて、混乱しているのは私だけだ。
「生き物って…ヒトだよね」
「そりゃそうだよね」
よし、一つ目の障害を突破。
「『瑞樹の父親』って、誰がお父さんなのか、心当たりがあるの?」
「そりゃあるよ」
よし、二つ目の障害も突破。
「『かもしれない』って、確信はないってこと?」
「そういうことになるね」
…三つ目の障害、突破…?なんだか、謎が増したような気がする。そして答えは簡単に出そうにない。
「あは」
私の混乱を見透かしたように、みーこちゃんが笑っている。いや、笑っている場合じゃない気がするんだけど。
「わたし、昔から遠くに出掛けるのが好きで。大学生の時はね、毎年留学してたの。いろんな国に。4年生の夏に行ったのが、ロシア。そこで知り合ったのが、彼」
今の私より、いくつか年上のころのみーこちゃんを想像してみるけど、それはやはりひどく魅力的な女の子だ。可愛くて楽しくて、きっとその男の人は彼女に夢中になったに違いない。
「すぐに恋に落ちちゃった」
もちろんそれも、想像に難くない。話を聞いている限り、みーこちゃんも恋多き女だから。
「でも、彼のお兄さんも、ずいぶん私を好きだって言ってくれたんだ」
あ、一気に話がややこしくなってきた。
「だからと言って、私がきちんと断ってる分には何の問題もなかったのに、彼はひどいやきもち焼きでね。イライラしっぱなしだったから、だんだん私との仲も壊れ始めた。そうすると、若くて弱い私の心も、優しいお兄さんの方に傾いちゃって」
あはは、と恥ずかしそうにみーこちゃんは目を伏せる。
「ちゃんと彼と別れてから、お兄さんとお付き合いをしたのは確かなの。でも、妊娠した時期をはっきり特定するのって、難しいから」
そうか。だから、父親「かもしれない」っていう表現になったのか。
「ごめんね。聞きたくなかった?」
黙ったままの私に心配になったのか、みーこちゃんが不意に顔を覗き込んだからびくっとした。その目は、瑞樹にそっくりだ。
「ううん。素敵な話だった」
あわてて言葉を探すと、そうなった。
「へえ?」
くすくす笑いながら、みーこちゃんが言う。
「どちらにしても、そのときみーこちゃんが一番好きだった人の子どもなんだね、瑞樹は」
父親が、その兄弟のどちらだったとしても、それだけは確実なのだ。
「だから、由澄季ちゃんって好き。合理的で優しい答えばかり出す」
「はあ?」
「いいのいいの」
よくわからないけど、神社でぎゅうぎゅうとみーこちゃんに抱きしめられてる私って、ちょっと年の離れたお姉さんに甘えてるみたいに見えるんじゃないかなあと、どうでもいいことを考える。
「あ、そうだ。これ、あげる」
コートのポケットから、かさこそと紙を何切れか出して、みーこちゃんは私の手に持たせた。
「遊園地?お化け屋敷?」
細長いその紙は、遊園地の招待状だった。無料で入場できるらしい。
「うん。リニューアルしたんだって。すっごく怖いらしい。出版社の人からもらったんだけど、東京だし、わたしには行けないから」
「ええ?瑞樹もいるんだから、東京まで来て一緒に行けばいいのに」
「やだよー、瑞樹の狭い部屋に泊まるのなんて。それに瑞樹はお化け屋敷嫌いだもん」
「ん?そうだっけ?」
「そうだよ。覚えてない?小学校の時、お化け屋敷の中で私たちとはぐれちゃって、由澄季ちゃんが瑞樹の手を引っ張って出てきてくれたの」
「はあ、そんなことがあったような気もするけど。あんまり思い出せないな」
「赤い顔して震えててさ。何があったんだろうね?そんなに怖いものあったかな?」
みーこちゃんは楽しそうにくすくす笑って、私の手を握る。「かえろっか」と言いながら。
みーこちゃんのおかげで、心のもやもやは幾分晴れて、家に帰ることができた。
年末年始はさすがに家でのんびりできる両親と、大学の講義について話し合ったり、おばあちゃんとおせちやお雑煮を作ったり。帰省初日のいらだちは、なりを潜めたらしく、家族との時間を穏やかに過ごすことができた。
それは、あれきり、まともに菜津希の顔を見ずに済んだせいかもしれない。
母親いわく、「バイト」だったり、「友達の家」だったり、菜津希は昼ごろに目覚めるとふらっと出かけて深夜まで戻らなかった。
そうじゃなかったら、私は不用意な発言や行動をとっていたかもしれなかった。
「で、何、お土産ってこれ?」
明らかにがっかりした顔で、瑞樹が紙きれをつまんでいる。それは、みーこちゃんがくれたお化け屋敷の入場券だ。
「そう。行く?」
「行きたくない」
即答だった。優柔不断な瑞樹にしては珍しく。
みーこちゃんが言った通り、瑞樹はお化け屋敷が嫌いらしい。そこはやっぱり母親というべきなんだろうと思うと、ほほえましい。
「お前は覚えてないの?みーこに連れて行かれたお化け屋敷のこと」
拗ねたような顔で、ちらりと一瞬だけ私の顔を盗み見た瑞樹の仕草に、首をかしげた。
「あんまり覚えてないみたい。みーこちゃんとはぐれたらしいね。そんなに怖かったっけ?」
そう言うと、瑞樹はため息をついた。
「怖いっていうか、いや、確かに怖かったけど、それよりも。…ん、まあ、いいや」
もごもごと何か言っていたけれど、結局あきらめたらしく、おばあちゃんからのお土産の漬物をかじり始めた。
じゃあ、この入場券はどうしようか。
ごろ寝しながらテレビを観ている瑞樹の背中を見ながら、そう考えるけど、私に思いつくことなんてひとつしかない。
よし、廣太郎と莉子にあげよう。
大学では、研究室での課題があれば、同級生や先輩ともぽつぽつ話す。高校まで浮いていた私も、人数の多い大学で、それぞれが好きな格好で好きなことをしている中では、悪目立ちしないようだ。
それでも、講義や研究室を離れたところで会う友達は、彼ら以外にはいないから。ちょうど2枚あるチケットは、ふたりのデートにちょうどいいような気もしてきて、すぐに廣太郎にメールを送信した。
To 望月廣太郎
Sub. 無題
本文 お化け屋敷の招待券が2枚あるけど、いる?
すると、廣太郎からすぐに返事があった。
From 望月廣太郎
Sub. いる
本文 取りに行く。
…短い。相変わらずのメールにふと笑うと、瑞樹がいつの間にか振り返っていた。
「誰?」
「は?」
「誰からメール?」
瑞樹は耳がいい。テレビの音にかき消されるくらいの小さな着信音がちゃんと聞こえたらしい。
「廣太郎」
「ふーん」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
まさかとは思ったけど、そのまさかで、そっと覗いたドアのスコープには、こちらをガン見している廣太郎がデフォルメされた姿で映っていた。
「誰だった?」
「わ」
いつの間にか肩越しに、瑞樹がスコープを覗き込もうとしていたから、ちょっと驚いた。気配がなかった気がする。
「ああ、廣太郎みたい」
「今来たってメールだったの?約束してたわけ?」
「はあ?してないけど」
「じゃあ何?」
「偶然じゃないの?お化け屋敷のチケットをあげようかとおもっ」
ピンポンピンポーン。
外に立っている廣太郎にも声が聞こえてるんじゃないだろうか。「いるなら早く開けろ」って言ってるみたいにまたチャイムが鳴らされて、私はドアを開けた。
「よっ。…ああ、悪いな、急に来て」
ちらりと瑞樹の方を見て、廣太郎がそう言った。瑞樹がいるとは廣太郎も想定してなかったんだろう。
「大丈夫。近くにいたの?」
瑞樹もそう頻繁にここに来るわけじゃない。週末で、友人との約束がなくて、飲み会やバイトの予定もないときにしかいないのだ。
いくら鍵を持っているとは言っても、私が寝た後には入ってこない。夜に予定があるときには、夕方短時間寄って、何か食べて帰っていくこともあるけれど、2週間くらい顔を見ないことはよくあることだ。
「同じ学科のヤツんちがすげえ近いんだ。ちょうどそこで飲んでたから」
「そっか。あ、これね、チケット」
私が券を出すけど、廣太郎はすぐには受け取らなかった。
「お前、行きたくねえの?」
ちらっと瑞樹を見るから、殴ってやろうかと思った。「好きな男と行って来いよ」ってことなんだろうけど、今振られたところだから!
「うーん、おもしろそうだけどね」
一緒に行く人いないから、と続けそうになったのをこらえて、目で抗議した。
「あ、ああ、そうか。なんなら莉子と行くか?」
「え?いや、いいよ。そこまでしなくても」
「遠慮すんなよ。連絡しといてやる。莉子がだめなら俺が」
「ええ?」
いいよ、と断ろうとした時。
「俺が行く」
大人しかった瑞樹が急に口を開いたから、ようやくその存在を思い出した。えっと…、何の話をしてたっけ、廣太郎と…。
「ええ!?」
お化け屋敷の入場券のことを話してたんだった。「俺が行く」?瑞樹が?はあ?
「何無理してんの?」
「むっ、無理してないし!」
ムキになる瑞樹に苦笑いしてしまう。
「廣太郎は私の友達だから、これの前でカッコつけなくてもいいよ。嫌いじゃん、お化け屋敷」
ぶっと噴き出した廣太郎に、むっとしながら顔を赤くする瑞樹。あ、言わなくていいことを言ってしまったらしいな。
「これってなんだよ」
「カッコつけてねーし!」
「えーっと、とにかくこれは、廣太郎にあげる!じゃあね!さっさと友達の家に戻って飲み直そうね!」
ひそかに焦りながら、私はなかば強引に、廣太郎の手に入場券を押し込んで、ついでにドアもバタンと閉めてしまったのだった。