Let's study!!
20歳 Spring
彼はなぜ、彼女に会いに行かないのだろうか?
落ち込んだ様子ではある。とは言っても見たことがないほどのひどい顔でもない。
観察しているのは、動植物ではなく、瑞樹だ。
「欲しいの?」
私の視線に気がついた彼は、見当違いなことを言って、箸でつまんでいた唐揚げを一切れ、返事もしていないのに私の口に突っ込んでくる。
そうじゃないんだけど、まあいいや。
自分で作ったはずの、その一切れを咀嚼していると、不思議と祖母と同じ味がするから、なんだかあったかい気持ちになる。
「なにへこんでんの」
もごもごしながらそう訊くと、瑞樹ははあ、とため息を吐いた。
「お前はさ、生物の研究職でやっていけそうだろ。俺、野球で飯は食えないってことがわかってきた」
「それで、そんなに落ち込んでんの?」
「まあね。だって、野球しか取り柄ないのに、将来どうしたらいいんだよ?」
なーんだ、そんなことか。
「ごはんくらい私が食べさせてあげるでしょうが」
「え?」
「今みたいに、食べればいいんでしょ?毎日来ればいい。私の勉強の邪魔しないなら、だけどね」
そんな落ち込んだ顔で言われたら、今までのスタンスを崩さざるを得ない。週に一度だからいいのだと思っていたけれど、瑞樹が食べることに困ると言うなら、毎日食べさせてやろうと思ってしまう。
「あ、ああ」
呆気にとられた様子で、瑞樹は私を見つめ返している。
「は?何、なんか不満?」
「いや…、プロポーズみたいだった」
プロポーズ?
「ははははっ。確かに」
「男前だな、由澄季は」
「かっこいいでしょ。お腹が空いたら、家においで」
「うん。俺、お前の飯食うと調子が上がる」
「んじゃ、いっぱい食べなさい。ほれ」
「今日はこれ以上食えないくらい食ったわ。俺、結構食うし、毎日来るなら食費もかかるぞ?」
「私、計算も得意だけど?ひとり分の食費で、ふたり分の食事くらい作れると思う」
「たしかに。ほんと、由澄季は、うちのみーこより母親っぽいな」
瑞樹まで、お母さんのことを「みーこ」と呼ぶ。美樹子さんという名前の彼女は、子どものころから両親やうちの祖母にそう呼ばれていたらしい。
それが、猫を連想させて。気まぐれな取材の旅を繰り返している彼女に、あまりにもぴったりな名前のため、私と菜津希まで「みーこちゃん」と呼んでいるというわけだ。
「ははっ。どっちも一般的な日本のお母さん像からはほど遠いけどね。だいたい私、こんなデカい子どもを産んだ覚えはないし」
「だな。俺、お前に甘えすぎだな」
「不愉快になったら、あっさり切り捨てるから、心配いらないよ」
「…それ聞いたら、余計心配になってきたけどな」
「何が心配なのよ、今度は」
「由澄季に捨てられるかと」
「だったら、私を不愉快にさせなきゃいいでしょうが」
「何がお前を不愉快にさせるのか、よくわからん。すでにかなり世話かけてるし、勉強の邪魔ばかりしてるような気も…」
「…たしかに」
言われてみて、初めて気が付く。他の人間なら、ここまで関わることはないし、こうして時間を割くことさえ、ひどく不愉快に違いないと。
「だろ。でも捨てないでくれ」
「検討しておくけど、瑞樹を捨てない理由が、なぜか見当たらない」
「ちょ、ちょっと待て。あ、あった!俺、由澄季を寝かしつけるのが上手い!」
「…たしかに」
「な、捨てるなよ」
「わかった。あれはあんたにしかできない技だと認めよう」
私がそう納得すると、ようやく瑞樹がにこっと笑った。
「俺、由澄季がいない人生は、想像できないからな」
「私も、瑞樹がいないなんて、ありえないな」
お互いにそう言った後、顔を見合わせたら、次の台詞はカブった。
「幼馴染みだし」
くすくすと、笑う瑞樹に、心の中でほっとする。
瑞樹には、いつもそうやってのんきな顔で笑っていて欲しい。それが一番よく似合うんだから。
すっかり、いい気分だった。
お風呂に入って、ベッドに横になって、目を閉じて。久しぶりに瑞樹に髪を撫でてもらって。
「私は、向いてると思うよ」
「…え?何?まだ起きてたの?」
「…寝かかってたんだけど、寝言、言ったみたい」
目を薄く開くと、びっくりした顔の瑞樹。
「何が向いてるって?なんの夢見てたんだよ?」
私の寝言を思い出したらしく、笑いだした瑞樹に、もう一度伝える。
「私、瑞樹は体育の先生に向いてると思う」
「は?」
怪訝な顔をした瑞樹に、どうせ言葉に出しちゃったなら、うまく伝わってほしいと思うのに、口下手だからうまく言えない。
いつも直球で言うべき言葉だけ言ってしまうから、キツイとか何考えてるのかわからないとか言われるんだろう。
「いい先生になる、気がする」
こういう直感とか予感って、どう表現するといいんだろう。根拠がないことを、どう信じてもらえばいいのだろう。
「人当たりがいいから、瑞樹は、生徒にだって、きっと好かれる。生徒も、きっと体育や野球が好きになる」
黙って静かに私を見つめてくる瑞樹の表情が、全く読めなくて、内心私は焦り始める。
「だから、体育の先生も、いいと思う」
どう言えば、伝わるだろう。
瑞樹が、体育科なら試験なしで入れるという理由で、進学しただけだということは、よくわかっている。そして、まだ野球選手の夢に未練があることも。
もちろん、好きなだけ野球をやればいいと思う。
でも、仕事として野球がやれないんじゃないかとわかったら、方向転換したっていいと思う。
まっすぐに走ってたらなかなか止まれないタイプの瑞樹は、すぐにはそんな気になれないだろうけど、むしろ体育教師の方が性格に合ってる気さえする。
「いいと、思うんだけど」
とうとう言う言葉が見つからなくなった。
余計なことを言ってるんじゃないかって思っていて、でも寝言で口に出しちゃったら止まらなくなって、しまいには一人で焦って。
どうしようもなくなって、ごめん、って謝ろうとしたそのとき。
「ありがと」
瑞樹の声が、掠れて聞こえた。
はっとして、目を凝らして彼の表情を読み取ろうとするけれど、眼鏡がないうえに薄暗いから、よくわからない。
「んじゃ、一応、教員免許取れるようがんばっとくか」
その声は低く沈み、諦めとも落ち着きともとれる大人びた響きをしていて、私は胸がどきりとした。
瑞樹が、「男の子」じゃなくて、「男の人」に近づいていることに、初めて気がついた。
「う、ん。私応援する」
なんとか絞り出した声は、うわずってなかっただろうか。
「じゃあ、ぜひ、レポートの代筆を」
「馬鹿」
「ひでぇ。今の、ほんとに『頭悪い』って意味で使っただろ」
「瑞樹自身がそう思ってるだけでしょ」
「思ってるけどさ」
すぐにいつもの調子を取り戻した瑞樹のおかげで、なんだかしっとりとした雰囲気はいつの間にか消えて、私はほっとした。
すると、すぐに忍び寄ってくる睡魔に、欠伸が止まらなくなってきて、再び目を閉じた。
「おや、すみ。瑞樹」
瑞樹。瑞樹の夢が見れるといいな。
そう思っていたから、夢見てるんだろうって思ってた。
ちゅ、と微かな音がして、いつもの感触が、額ではなく頬に感じられた時には。
…たしかに、瑞樹の夢が見たいって思ったけど。
なんでこうリアルで、さらには、おでこじゃなくてほっぺにキスって、まるで私がそういう願望を潜在的に持ってるみたいじゃないか!
と、一人で赤面しながら、薄く薄く開いた瞼の向こうで微かに視界にとらえたものは、やっぱり見間違いだと思った。
まあ、例のごとく寝るときには眼鏡も掛けていないし。うとうとしてたし。
ちゅ。また嘘みたいなかわいい音を耳でとらえた瞬間には、勝手に手が動いていた。
「わあっ!!」
……夢じゃ、ない。
夢じゃ、なかった。
いつの間にか両手の手のひらで捕まえたのは、熱い皮膚。たぶん、瑞樹の両頬。至近距離で聞こえたのは、聞き間違えるはずもない瑞樹の声。
「な、に?」
思わず言葉がこぼれた。
寂しいの、と言葉を続けようとした。と、同時に、高鳴る胸の音に、息も詰まりそうで、ぼやけた視界のほとんどを占める瑞樹の表情を探ろうと夢中だったその時。
「ごめん!!」
そう言って慌てて離れた瑞樹に、どっきんどっきんと脈打っていた心臓が凍死しそうなくらい冷えて固まった。
手のひらに触れていた熱い瑞樹の体温も失って。
それから、次には、まだ実家にいたころ、寝ぼけた瑞樹に抱きしめられた朝、「ごめん、間違えた」と言われたことまでをありありと思い出した。
私だって、浮かれたりはしゃいだりできるはずもなくて、瑞樹が寂しさや間違いからそういった行動に出たってことが、よくわかってるつもりだ。
それでも、慌てた様子の瑞樹に、「ごめん」って、心底申し訳ないって声音で言われると、理屈じゃなくてこたえる。
気持ちが重たくなって、体まで重たくなって、すっごくしんどくなる。
それは、やっぱり今も同じだった。
「ん」
ごめんって言われたら、「いいよ」とか「気にしてないよ」とか、言うのが一般的なんだろう。でも、どれも今の状況では、正しい答えじゃない気がする。
菜津希の代役として、キスされたのだとしたら。
それを「いいよ」って笑って許したり、「気にしてないよ」って何でもないようなふりをすることは、不可能だ。
だから、短くて、私の気持ちが伝わらない「ん」という奇妙な返事になってしまった。
「俺、帰るな」
「うん」
私が眠るまでそばにいて。
喉まで出かかった甘えるような一言を、必死でかみ殺す。そんなこと言うどころか、そんなこと思う資格もないのに。
ぱたんと閉まった玄関のドアから、がちゃりと鍵のかかる音が聞こえたら、目からこぼれた涙がぼたぼたと耳や髪を濡らし始めた。
瑞樹は寂しいのに、私を菜津希の代役にしてしまうくらい寂しいのに、どうして菜津希に会いに行かないんだろう。
浮気してる菜津希を、あのままにしておいていいんだろうか。
バイトなんて、学校の授業なんて、放り出してしまえばいいのに。
瑞樹のことが、ますますわからなくなる。
それは、瑞樹が大人になって、ますます男の人になって、私とは遠い存在になっているからなんだろうか。
瑞樹は、何を思っているんだろう。
そんなことを考えているうちに、夜は更けて、自分の思考に疲れ果ててから、ようやく眠りが訪れたのだった。
観察しているのは、動植物ではなく、瑞樹だ。
「欲しいの?」
私の視線に気がついた彼は、見当違いなことを言って、箸でつまんでいた唐揚げを一切れ、返事もしていないのに私の口に突っ込んでくる。
そうじゃないんだけど、まあいいや。
自分で作ったはずの、その一切れを咀嚼していると、不思議と祖母と同じ味がするから、なんだかあったかい気持ちになる。
「なにへこんでんの」
もごもごしながらそう訊くと、瑞樹ははあ、とため息を吐いた。
「お前はさ、生物の研究職でやっていけそうだろ。俺、野球で飯は食えないってことがわかってきた」
「それで、そんなに落ち込んでんの?」
「まあね。だって、野球しか取り柄ないのに、将来どうしたらいいんだよ?」
なーんだ、そんなことか。
「ごはんくらい私が食べさせてあげるでしょうが」
「え?」
「今みたいに、食べればいいんでしょ?毎日来ればいい。私の勉強の邪魔しないなら、だけどね」
そんな落ち込んだ顔で言われたら、今までのスタンスを崩さざるを得ない。週に一度だからいいのだと思っていたけれど、瑞樹が食べることに困ると言うなら、毎日食べさせてやろうと思ってしまう。
「あ、ああ」
呆気にとられた様子で、瑞樹は私を見つめ返している。
「は?何、なんか不満?」
「いや…、プロポーズみたいだった」
プロポーズ?
「ははははっ。確かに」
「男前だな、由澄季は」
「かっこいいでしょ。お腹が空いたら、家においで」
「うん。俺、お前の飯食うと調子が上がる」
「んじゃ、いっぱい食べなさい。ほれ」
「今日はこれ以上食えないくらい食ったわ。俺、結構食うし、毎日来るなら食費もかかるぞ?」
「私、計算も得意だけど?ひとり分の食費で、ふたり分の食事くらい作れると思う」
「たしかに。ほんと、由澄季は、うちのみーこより母親っぽいな」
瑞樹まで、お母さんのことを「みーこ」と呼ぶ。美樹子さんという名前の彼女は、子どものころから両親やうちの祖母にそう呼ばれていたらしい。
それが、猫を連想させて。気まぐれな取材の旅を繰り返している彼女に、あまりにもぴったりな名前のため、私と菜津希まで「みーこちゃん」と呼んでいるというわけだ。
「ははっ。どっちも一般的な日本のお母さん像からはほど遠いけどね。だいたい私、こんなデカい子どもを産んだ覚えはないし」
「だな。俺、お前に甘えすぎだな」
「不愉快になったら、あっさり切り捨てるから、心配いらないよ」
「…それ聞いたら、余計心配になってきたけどな」
「何が心配なのよ、今度は」
「由澄季に捨てられるかと」
「だったら、私を不愉快にさせなきゃいいでしょうが」
「何がお前を不愉快にさせるのか、よくわからん。すでにかなり世話かけてるし、勉強の邪魔ばかりしてるような気も…」
「…たしかに」
言われてみて、初めて気が付く。他の人間なら、ここまで関わることはないし、こうして時間を割くことさえ、ひどく不愉快に違いないと。
「だろ。でも捨てないでくれ」
「検討しておくけど、瑞樹を捨てない理由が、なぜか見当たらない」
「ちょ、ちょっと待て。あ、あった!俺、由澄季を寝かしつけるのが上手い!」
「…たしかに」
「な、捨てるなよ」
「わかった。あれはあんたにしかできない技だと認めよう」
私がそう納得すると、ようやく瑞樹がにこっと笑った。
「俺、由澄季がいない人生は、想像できないからな」
「私も、瑞樹がいないなんて、ありえないな」
お互いにそう言った後、顔を見合わせたら、次の台詞はカブった。
「幼馴染みだし」
くすくすと、笑う瑞樹に、心の中でほっとする。
瑞樹には、いつもそうやってのんきな顔で笑っていて欲しい。それが一番よく似合うんだから。
すっかり、いい気分だった。
お風呂に入って、ベッドに横になって、目を閉じて。久しぶりに瑞樹に髪を撫でてもらって。
「私は、向いてると思うよ」
「…え?何?まだ起きてたの?」
「…寝かかってたんだけど、寝言、言ったみたい」
目を薄く開くと、びっくりした顔の瑞樹。
「何が向いてるって?なんの夢見てたんだよ?」
私の寝言を思い出したらしく、笑いだした瑞樹に、もう一度伝える。
「私、瑞樹は体育の先生に向いてると思う」
「は?」
怪訝な顔をした瑞樹に、どうせ言葉に出しちゃったなら、うまく伝わってほしいと思うのに、口下手だからうまく言えない。
いつも直球で言うべき言葉だけ言ってしまうから、キツイとか何考えてるのかわからないとか言われるんだろう。
「いい先生になる、気がする」
こういう直感とか予感って、どう表現するといいんだろう。根拠がないことを、どう信じてもらえばいいのだろう。
「人当たりがいいから、瑞樹は、生徒にだって、きっと好かれる。生徒も、きっと体育や野球が好きになる」
黙って静かに私を見つめてくる瑞樹の表情が、全く読めなくて、内心私は焦り始める。
「だから、体育の先生も、いいと思う」
どう言えば、伝わるだろう。
瑞樹が、体育科なら試験なしで入れるという理由で、進学しただけだということは、よくわかっている。そして、まだ野球選手の夢に未練があることも。
もちろん、好きなだけ野球をやればいいと思う。
でも、仕事として野球がやれないんじゃないかとわかったら、方向転換したっていいと思う。
まっすぐに走ってたらなかなか止まれないタイプの瑞樹は、すぐにはそんな気になれないだろうけど、むしろ体育教師の方が性格に合ってる気さえする。
「いいと、思うんだけど」
とうとう言う言葉が見つからなくなった。
余計なことを言ってるんじゃないかって思っていて、でも寝言で口に出しちゃったら止まらなくなって、しまいには一人で焦って。
どうしようもなくなって、ごめん、って謝ろうとしたそのとき。
「ありがと」
瑞樹の声が、掠れて聞こえた。
はっとして、目を凝らして彼の表情を読み取ろうとするけれど、眼鏡がないうえに薄暗いから、よくわからない。
「んじゃ、一応、教員免許取れるようがんばっとくか」
その声は低く沈み、諦めとも落ち着きともとれる大人びた響きをしていて、私は胸がどきりとした。
瑞樹が、「男の子」じゃなくて、「男の人」に近づいていることに、初めて気がついた。
「う、ん。私応援する」
なんとか絞り出した声は、うわずってなかっただろうか。
「じゃあ、ぜひ、レポートの代筆を」
「馬鹿」
「ひでぇ。今の、ほんとに『頭悪い』って意味で使っただろ」
「瑞樹自身がそう思ってるだけでしょ」
「思ってるけどさ」
すぐにいつもの調子を取り戻した瑞樹のおかげで、なんだかしっとりとした雰囲気はいつの間にか消えて、私はほっとした。
すると、すぐに忍び寄ってくる睡魔に、欠伸が止まらなくなってきて、再び目を閉じた。
「おや、すみ。瑞樹」
瑞樹。瑞樹の夢が見れるといいな。
そう思っていたから、夢見てるんだろうって思ってた。
ちゅ、と微かな音がして、いつもの感触が、額ではなく頬に感じられた時には。
…たしかに、瑞樹の夢が見たいって思ったけど。
なんでこうリアルで、さらには、おでこじゃなくてほっぺにキスって、まるで私がそういう願望を潜在的に持ってるみたいじゃないか!
と、一人で赤面しながら、薄く薄く開いた瞼の向こうで微かに視界にとらえたものは、やっぱり見間違いだと思った。
まあ、例のごとく寝るときには眼鏡も掛けていないし。うとうとしてたし。
ちゅ。また嘘みたいなかわいい音を耳でとらえた瞬間には、勝手に手が動いていた。
「わあっ!!」
……夢じゃ、ない。
夢じゃ、なかった。
いつの間にか両手の手のひらで捕まえたのは、熱い皮膚。たぶん、瑞樹の両頬。至近距離で聞こえたのは、聞き間違えるはずもない瑞樹の声。
「な、に?」
思わず言葉がこぼれた。
寂しいの、と言葉を続けようとした。と、同時に、高鳴る胸の音に、息も詰まりそうで、ぼやけた視界のほとんどを占める瑞樹の表情を探ろうと夢中だったその時。
「ごめん!!」
そう言って慌てて離れた瑞樹に、どっきんどっきんと脈打っていた心臓が凍死しそうなくらい冷えて固まった。
手のひらに触れていた熱い瑞樹の体温も失って。
それから、次には、まだ実家にいたころ、寝ぼけた瑞樹に抱きしめられた朝、「ごめん、間違えた」と言われたことまでをありありと思い出した。
私だって、浮かれたりはしゃいだりできるはずもなくて、瑞樹が寂しさや間違いからそういった行動に出たってことが、よくわかってるつもりだ。
それでも、慌てた様子の瑞樹に、「ごめん」って、心底申し訳ないって声音で言われると、理屈じゃなくてこたえる。
気持ちが重たくなって、体まで重たくなって、すっごくしんどくなる。
それは、やっぱり今も同じだった。
「ん」
ごめんって言われたら、「いいよ」とか「気にしてないよ」とか、言うのが一般的なんだろう。でも、どれも今の状況では、正しい答えじゃない気がする。
菜津希の代役として、キスされたのだとしたら。
それを「いいよ」って笑って許したり、「気にしてないよ」って何でもないようなふりをすることは、不可能だ。
だから、短くて、私の気持ちが伝わらない「ん」という奇妙な返事になってしまった。
「俺、帰るな」
「うん」
私が眠るまでそばにいて。
喉まで出かかった甘えるような一言を、必死でかみ殺す。そんなこと言うどころか、そんなこと思う資格もないのに。
ぱたんと閉まった玄関のドアから、がちゃりと鍵のかかる音が聞こえたら、目からこぼれた涙がぼたぼたと耳や髪を濡らし始めた。
瑞樹は寂しいのに、私を菜津希の代役にしてしまうくらい寂しいのに、どうして菜津希に会いに行かないんだろう。
浮気してる菜津希を、あのままにしておいていいんだろうか。
バイトなんて、学校の授業なんて、放り出してしまえばいいのに。
瑞樹のことが、ますますわからなくなる。
それは、瑞樹が大人になって、ますます男の人になって、私とは遠い存在になっているからなんだろうか。
瑞樹は、何を思っているんだろう。
そんなことを考えているうちに、夜は更けて、自分の思考に疲れ果ててから、ようやく眠りが訪れたのだった。