Let's study!!
18歳 Spring
東京の大学に行けば、私は彼を諦められるだろうか?
ようやく、答えを見つけた、と私は思った。
東京の大学へ行こう。
そう思いついたら、目の前に立ちふさがっていた行き止まりが、パンと音を立てて弾けて、新たな道が目の前に広がったみたいに感じた。
相変わらず、瑞樹のことが好きだ。
そして、厄介なことに、妹の菜津希のことも好きだ。
故に、二人の仲を壊すことはできない。しかしながら、指をくわえて二人の姿を眺めているのにも、疲れてきた。
「進路指導室」という名の小部屋は、私たちが通う高校の校舎の2階に設けられている。この場所で、私は、ついさっきまで、自分の好きな生物が、専攻学科として学べる大学を調べていた。
文字通り指導するための面談スペースの他に、国内外を問わず、大学や短大、専門学校など各種学校の資料が並べられている本棚があるから。
成績の状況によっては、恐怖を感じる名称の部屋に違いないが、今の私にとっては「どこでもドア」のような存在だ。
「理学部生物学科」のある大学名を見ていたら、地元で進学する必要はないんじゃないかって、ふと気がついた。すると、思考は自分でもびっくりするほどあっという間に広がって行った。
この大学に行ってもいい、あっちでもいい、と考えていたら、半ば興奮状態になってしまった。
「お、早坂じゃないか。大学、決めたか?」
進路担当の教師が、いつの間にか部屋に入ってきたらしく、私の手元のガイド本を覗きこんだ。
「はい。ここにします」
まだ両親に一言も相談してないのに、私は迷いもなく、断言してしまった。
「そうか。お前なら行けるだろう。頑張れよ」
教師にそう言われて、私は大きくうなずいた。もう、これ以外の将来を、思い描くことができないくらいに、心は定まった。
5歳で、瑞樹に出会ってから、私と菜津希は、彼とともに成長した。一時は、3人兄弟だと思い込んでいたくらいに、同じ時間を共有してきた。
いつからかは定かではないけれど、私も菜津希も、瑞樹のことを好きになっていたらしい。
そのことに気がついたのは、菜津希が先だった。そして、彼は菜津希の恋人になった。
これまでの惰性で、当然ずっと3人はいっしょだと思っていたけれど、そうじゃなくてもいいんだって、今更ながら気がついた。
二人から離れるという選択肢。
それを選ぼうと決意した私は、自分の背中に羽でも生えたんじゃないかなってくらい、浮かれている。
好きな男から距離を置くことに、喜びを感じるってどうなんだろう?
…それくらい、実際には、疲弊してたってことなのかもしれない。
「お姉ちゃん、瑞樹が」
学校から帰って来た菜津希が、珍しく涙をこぼしているから。
「瑞樹が、どうしたの」
嫌な予感しかしない。どくり、どくりと、心臓がひそやかに暗く音を立てている。
「東京に行くって」
たっぷり、時間が必要だ。菜津希の言葉を理解するためには。
最善の選択をしたと思っていた自分の進路が、意外に外れだったと気がつくのが嫌で、菜津希の言葉を理解したくない気持ちが、私から言葉を奪ったままだ。
「東京の大学に行くんだって」
涙声で、かわいい妹が、そう、身内としての贔屓を抜きにしてもかわいい妹が、追い打ちをかけるから。
「嘘だ…」
ようやく心の呟きが声になった。
誰か、嘘だと言って欲しい。
「本当。さっき本人から聞いた」
「…あの馬鹿」
この「馬鹿」も、なんとなく毒づいたわけではなく、本当に瑞樹が馬鹿だから用いたのだ。
こんなにかわいい妹を置いて行くなんて、馬鹿。
よりによって、東京を選ぶなんて、馬鹿。
私が思い描いていた未来を、変えるなんて、馬鹿。
とにかく大馬鹿!!
「お姉ちゃん、瑞樹が行っちゃう」
はっと、我に返った。
ビスクドールのようなきめ細かな白い頬に、はらはらと涙が伝っては落ちて行く。わずかに寄せられた眉根は、わたしの胸まで締め付ける。
泣き顔まで美しいって、どういういうこと、妹。不公平だよ、神様。かなり近い遺伝子を持って生まれたはずなのに。
いやいや、それにしたって、あの気の強い菜津希が、こんな顔をするなんて。こんなに動揺するなんて。
私は、思わずひしと菜津希を抱き締めた。…もう、私より背が高いけど、そんなことはどうでもいい、今は。
そんなに、瑞樹のことが好きなんだね?
心の中だけでそう問いかける。
訊かなくてもわかってるし。訊いて「うん、好きなの」とか答えられても、なんだか胸が痛みそうだし。
はあ。
自分の心に蓋をして、しっかり重石まで乗せて。
「私、瑞樹と話してくる」
早くもふつふつと怒りを感じ始めた私の声は低く、玄関に響いた。
その時だ。
「菜津希、帰ってる?」
呑気な声とともに、瑞樹が勝手知った様子で、我が家の玄関ドアをがちゃっと開けて入ってきた。
その緊張感のない様子に、私の怒りのボルテージはさらに上がる。
「おわ!」
気がついた時には、瑞樹の胸倉を掴んでいた私。
「ちょっと来い。話がある」
「考え直しなさい」
いつも感情がこもっていないと指摘される私の声は、今なら明らかにとげとげしく感じられるはずだ。
私は、客間で瑞樹と向かい合っている。
「あ、うーん、まあ、成績が上がったら、考え直す、かも」
私が睨みつけるから、曖昧に言葉を繋いでいくのは、瑞樹。私とは対照的に、顔には「ヤバい」ってはっきり書かれているんじゃないかってくらい、表情がわかりやすい。
「上がらなかったら?」
奥歯をごりごり噛みしめる。
「そりゃあ、ねえ、スポーツ推薦でこのまま、」
「このままはない!」
私が容赦なくその言葉を遮るのに。
「東京の大学へ」
そう続けて、瑞樹はにっこりと笑うのだ。
「あり得ない――――!!」
久しぶりに大声を出したから、わたしは若干むせた。
「なに、何があり得ないの?由澄季は頭の回転が良すぎるから、俺には、何を言ってるのかよくわからないんだけど」
きょとんとして、私の顔を見る瑞樹は、瑞樹は…、かわいい、けど。ええい、そんなこと思ってる場合じゃない。
「あんた、菜津希を置いて行くの?2年も放置して平気?」
菜津希と瑞樹のことについて、口を挟まないように気をつけていたのに、そう言わざるを得ない。
「たまには会えるだろ」
のんきに微笑んでる瑞樹は、本当に鈍感だと思う。
「た、たまにで満足する菜津希じゃないはずだ!」
「じゃあ、謝っておく」
「謝って済むか!」
「ん、たぶん済むだろ」
「済まないから!菜津希のこと、真面目に考えて!」
そこまで言うと、ようやく瑞樹が笑みを引っ込めて、わずかに困惑の色をにじませる。
「じゃあ、俺は、大学には行けないんだね」
「なんでそうなるの!?」
「だって、俺の成績だと、そこしか行けないって担任が言ってた」
「スポーツ推薦で、試験なしに入れるところはないの!?」
「だから、そこなんだってば」
「えーい、ちょっとは勉強しろ!」
「はぁ?なんか、矛盾してきたよ、由澄季」
私だってわかっている。自分が矛盾したことを言ってることくらいは。
「受験するのが1校だけなんて、良くないに決まってる!」
そうだ、そうに違いない。瑞樹の将来だ、いくつも選択肢がある中から選んだほうが、良いに決まってる。私は自分自身にそう言い聞かせた。
「ね、瑞樹、勉強しなさい。今すぐ。ほら!私のノートを見せてあげるから」
「えー?どうしても勉強しなきゃだめ?」
気が進まない様子の瑞樹に、舌打ちしたいけど、その半面でなんだかかわいいなと思う自分がまた嫌だ。
「しなきゃだめ。ほら、教えてあげるから」
私がそう言うと、瑞樹はぱあっと笑顔になった。
「うん。わかった。俺、やってみる」
きゅ、と胸が締め付けられる。
納得できるような理由を、何一つ提示できない私の言うことを、幼いころと同じように鵜呑みにして、あっさり笑顔になる瑞樹。こいつ、わざとやってるんじゃないだろうな。瑞樹は、昔からずっとこうだ。すぐに人を信じてしまう。もし、これがわざとだとしたら、相当な知能犯だ。
まあ、瑞樹は頭をあれこれ働かせることが苦手だから、わざとじゃないだろうけれど。
人の言うことなんか一切聞く耳持たず、自分の思う通りのことしかしない私は、そんな瑞樹が愛しくてしようがない。
暴れる心臓を無視しつつ、瑞樹にあれこれ参考書や問題集を説明しながら持たせた。
東京の大学へ行こう。
そう思いついたら、目の前に立ちふさがっていた行き止まりが、パンと音を立てて弾けて、新たな道が目の前に広がったみたいに感じた。
相変わらず、瑞樹のことが好きだ。
そして、厄介なことに、妹の菜津希のことも好きだ。
故に、二人の仲を壊すことはできない。しかしながら、指をくわえて二人の姿を眺めているのにも、疲れてきた。
「進路指導室」という名の小部屋は、私たちが通う高校の校舎の2階に設けられている。この場所で、私は、ついさっきまで、自分の好きな生物が、専攻学科として学べる大学を調べていた。
文字通り指導するための面談スペースの他に、国内外を問わず、大学や短大、専門学校など各種学校の資料が並べられている本棚があるから。
成績の状況によっては、恐怖を感じる名称の部屋に違いないが、今の私にとっては「どこでもドア」のような存在だ。
「理学部生物学科」のある大学名を見ていたら、地元で進学する必要はないんじゃないかって、ふと気がついた。すると、思考は自分でもびっくりするほどあっという間に広がって行った。
この大学に行ってもいい、あっちでもいい、と考えていたら、半ば興奮状態になってしまった。
「お、早坂じゃないか。大学、決めたか?」
進路担当の教師が、いつの間にか部屋に入ってきたらしく、私の手元のガイド本を覗きこんだ。
「はい。ここにします」
まだ両親に一言も相談してないのに、私は迷いもなく、断言してしまった。
「そうか。お前なら行けるだろう。頑張れよ」
教師にそう言われて、私は大きくうなずいた。もう、これ以外の将来を、思い描くことができないくらいに、心は定まった。
5歳で、瑞樹に出会ってから、私と菜津希は、彼とともに成長した。一時は、3人兄弟だと思い込んでいたくらいに、同じ時間を共有してきた。
いつからかは定かではないけれど、私も菜津希も、瑞樹のことを好きになっていたらしい。
そのことに気がついたのは、菜津希が先だった。そして、彼は菜津希の恋人になった。
これまでの惰性で、当然ずっと3人はいっしょだと思っていたけれど、そうじゃなくてもいいんだって、今更ながら気がついた。
二人から離れるという選択肢。
それを選ぼうと決意した私は、自分の背中に羽でも生えたんじゃないかなってくらい、浮かれている。
好きな男から距離を置くことに、喜びを感じるってどうなんだろう?
…それくらい、実際には、疲弊してたってことなのかもしれない。
「お姉ちゃん、瑞樹が」
学校から帰って来た菜津希が、珍しく涙をこぼしているから。
「瑞樹が、どうしたの」
嫌な予感しかしない。どくり、どくりと、心臓がひそやかに暗く音を立てている。
「東京に行くって」
たっぷり、時間が必要だ。菜津希の言葉を理解するためには。
最善の選択をしたと思っていた自分の進路が、意外に外れだったと気がつくのが嫌で、菜津希の言葉を理解したくない気持ちが、私から言葉を奪ったままだ。
「東京の大学に行くんだって」
涙声で、かわいい妹が、そう、身内としての贔屓を抜きにしてもかわいい妹が、追い打ちをかけるから。
「嘘だ…」
ようやく心の呟きが声になった。
誰か、嘘だと言って欲しい。
「本当。さっき本人から聞いた」
「…あの馬鹿」
この「馬鹿」も、なんとなく毒づいたわけではなく、本当に瑞樹が馬鹿だから用いたのだ。
こんなにかわいい妹を置いて行くなんて、馬鹿。
よりによって、東京を選ぶなんて、馬鹿。
私が思い描いていた未来を、変えるなんて、馬鹿。
とにかく大馬鹿!!
「お姉ちゃん、瑞樹が行っちゃう」
はっと、我に返った。
ビスクドールのようなきめ細かな白い頬に、はらはらと涙が伝っては落ちて行く。わずかに寄せられた眉根は、わたしの胸まで締め付ける。
泣き顔まで美しいって、どういういうこと、妹。不公平だよ、神様。かなり近い遺伝子を持って生まれたはずなのに。
いやいや、それにしたって、あの気の強い菜津希が、こんな顔をするなんて。こんなに動揺するなんて。
私は、思わずひしと菜津希を抱き締めた。…もう、私より背が高いけど、そんなことはどうでもいい、今は。
そんなに、瑞樹のことが好きなんだね?
心の中だけでそう問いかける。
訊かなくてもわかってるし。訊いて「うん、好きなの」とか答えられても、なんだか胸が痛みそうだし。
はあ。
自分の心に蓋をして、しっかり重石まで乗せて。
「私、瑞樹と話してくる」
早くもふつふつと怒りを感じ始めた私の声は低く、玄関に響いた。
その時だ。
「菜津希、帰ってる?」
呑気な声とともに、瑞樹が勝手知った様子で、我が家の玄関ドアをがちゃっと開けて入ってきた。
その緊張感のない様子に、私の怒りのボルテージはさらに上がる。
「おわ!」
気がついた時には、瑞樹の胸倉を掴んでいた私。
「ちょっと来い。話がある」
「考え直しなさい」
いつも感情がこもっていないと指摘される私の声は、今なら明らかにとげとげしく感じられるはずだ。
私は、客間で瑞樹と向かい合っている。
「あ、うーん、まあ、成績が上がったら、考え直す、かも」
私が睨みつけるから、曖昧に言葉を繋いでいくのは、瑞樹。私とは対照的に、顔には「ヤバい」ってはっきり書かれているんじゃないかってくらい、表情がわかりやすい。
「上がらなかったら?」
奥歯をごりごり噛みしめる。
「そりゃあ、ねえ、スポーツ推薦でこのまま、」
「このままはない!」
私が容赦なくその言葉を遮るのに。
「東京の大学へ」
そう続けて、瑞樹はにっこりと笑うのだ。
「あり得ない――――!!」
久しぶりに大声を出したから、わたしは若干むせた。
「なに、何があり得ないの?由澄季は頭の回転が良すぎるから、俺には、何を言ってるのかよくわからないんだけど」
きょとんとして、私の顔を見る瑞樹は、瑞樹は…、かわいい、けど。ええい、そんなこと思ってる場合じゃない。
「あんた、菜津希を置いて行くの?2年も放置して平気?」
菜津希と瑞樹のことについて、口を挟まないように気をつけていたのに、そう言わざるを得ない。
「たまには会えるだろ」
のんきに微笑んでる瑞樹は、本当に鈍感だと思う。
「た、たまにで満足する菜津希じゃないはずだ!」
「じゃあ、謝っておく」
「謝って済むか!」
「ん、たぶん済むだろ」
「済まないから!菜津希のこと、真面目に考えて!」
そこまで言うと、ようやく瑞樹が笑みを引っ込めて、わずかに困惑の色をにじませる。
「じゃあ、俺は、大学には行けないんだね」
「なんでそうなるの!?」
「だって、俺の成績だと、そこしか行けないって担任が言ってた」
「スポーツ推薦で、試験なしに入れるところはないの!?」
「だから、そこなんだってば」
「えーい、ちょっとは勉強しろ!」
「はぁ?なんか、矛盾してきたよ、由澄季」
私だってわかっている。自分が矛盾したことを言ってることくらいは。
「受験するのが1校だけなんて、良くないに決まってる!」
そうだ、そうに違いない。瑞樹の将来だ、いくつも選択肢がある中から選んだほうが、良いに決まってる。私は自分自身にそう言い聞かせた。
「ね、瑞樹、勉強しなさい。今すぐ。ほら!私のノートを見せてあげるから」
「えー?どうしても勉強しなきゃだめ?」
気が進まない様子の瑞樹に、舌打ちしたいけど、その半面でなんだかかわいいなと思う自分がまた嫌だ。
「しなきゃだめ。ほら、教えてあげるから」
私がそう言うと、瑞樹はぱあっと笑顔になった。
「うん。わかった。俺、やってみる」
きゅ、と胸が締め付けられる。
納得できるような理由を、何一つ提示できない私の言うことを、幼いころと同じように鵜呑みにして、あっさり笑顔になる瑞樹。こいつ、わざとやってるんじゃないだろうな。瑞樹は、昔からずっとこうだ。すぐに人を信じてしまう。もし、これがわざとだとしたら、相当な知能犯だ。
まあ、瑞樹は頭をあれこれ働かせることが苦手だから、わざとじゃないだろうけれど。
人の言うことなんか一切聞く耳持たず、自分の思う通りのことしかしない私は、そんな瑞樹が愛しくてしようがない。
暴れる心臓を無視しつつ、瑞樹にあれこれ参考書や問題集を説明しながら持たせた。