Let's study!!


「何やってんだよ」


久しぶりに聞いたその声に、私はびくりと肩を跳ねあげてしまった。

ちらりともこちらを見なかった店員が、瑞樹にそっくりだってことはわかってたけど。髪の毛が伸びていて、さらに痩せていて。

会わない時間が長すぎたせいで、さらには再会したこの場所も偶然過ぎて、たぶんそっくりさんなんだろうと思いこもうとしていた矢先のことだ。

だって、ここは瑞樹のアパートからそう近くもない居酒屋だから。ここでバイトしてるなんて聞いた覚えもなかった。

私は、大学のキャンパスの一つがこの近くにあるから、専門科目のレポートのことで、講師に呼ばれて来たのだ。

まあ、その講師と言えば、威厳のかけらもない様子で、座敷にごろんと横になって寝ちゃってるけど。


「何って…、勉強」

先週提出したレポートの内容について、あれこれ訊かれたことに答えていたのだから、あながち間違いではない。

なんとかそう答えを紡ぎだしながらも、頭の中の回線はショートしてしまいそうだ。
前には自然にかわしていた会話が、成り立たない。何を言えばいいのか、どこを見ればいいのかさえ、おぼつかなくて、私はテーブルの上のレポート用紙に視線を落とした。

「あれが勉強かよ。セクハラだろ。べたべた触ってなかったか?」

吐き捨てた瑞樹を、そっと見上げると、慣れた様子でテーブルの上の空いた皿を重ねながらも、相変わらず私の方は見ていなかった。

「あれセクハラって言うのかな」

思わずそう呟くと、「ほんとバカ」って呟き返されてしまった。

「いや、だって、実験かなって」

そう言いながら、私は自分の書いたレポートを数頁繰る。

「じ、実験?」

なぜか口ごもる瑞樹だけど、私はレポートのある箇所を探すのに夢中だった。

ほら、たぶん、この辺で私が言っていることを確認しようとして、先生は…。

ふと視線を感じたら、瑞樹が私の手元を覗いていたから、「たいしたことじゃない」と言いながらレポート用紙をそろえて片づけた。

落ち着こうとしてグラスにわずかに残っていた、カクテルを喉に流し込むけれど、溶けた氷でずいぶん薄まっている。
「発情の条件って何」

ごぼっ。

危うく噴きそうになった。なんとかこらえたけど鼻がつんとして痛む。

そんな私を尻目に、瑞樹はあっさりとわたしのレポートの一枚を取り上げて、続きを読んだ。

「自らの遺伝子を次世代に残すことが、動物の最終目標であることは周知の事実である。繁殖のためには、まず発情せねばならない」

瑞樹がすらすらと漢字を読んでいるので、私はただそのことに驚いていた。

しかも、その続きは読み飛ばしているらしく、口を閉じて目だけを動かしているから、さらに意外な気持ちになる。

「ヒトの場合、発情する条件として、……」

ぽつりとそう言った後は言葉が消えて、しばらくの後に瑞樹がかあっと顔を火照らせたから、ようやく私は我に返った。


「何これ、お前の実体験?日記?」

慌ててレポートを奪い返したけど、一体どこまで読んでしまったんだろう。

それにしても、しまったな。やっぱり実体験みたいに思われるんだ。講師に同じことを指摘されたのも無理のないことだったのかもしれない。

俯いて、テーブルに散らばっていたレポートや教科書も急いで片づけていたから、瑞樹の表情は見ていなかった。


「もしかして、俺とのことも、研究に必要だったから?」


一瞬で、心が凍った。

目の奥が熱くなったのを、息を詰め、歯を食いしばって堪えた。

そうして、真っ白になった頭のままで、言葉だけが口先からこぼれていった。

「そう。参考になった」

さらさらした声は、冷静で、自分のものではないようだった。何でもないことのように装ったその声は、本当に何でもないことのように聞こえた。

きっと、そういうことにしておいた方がいいのだから、と自分に言い聞かせながら、持ち物を鞄にしまった。


突然視界がぐるんと回転して、はっと自分が息をのんだ音だけが、狭い個室に余韻となって残った。

「じゃあ、もっと教えてあげる」
天井の模様を数えつつ、どうしてこんな体勢になってるんだろうかと考えるけど、至近距離で私の目を見つめてくる瑞樹に、混乱が収まらない。

「ヒト全般がどうなのかはわからないけど」

ぴくりと動いたわたしの指先に気がついて、瑞樹はさらに力を込めて私の両手首を畳に抑え込む。

「由澄季はこうすると発情するってこと」

どきり。

前髪の隙間から、刺すような視線を向けてくる瑞樹に、胸が痛む。それだけじゃなくて、胸が疼く。

まだくすぶっている思いに火が付きそうで。

そのことが怖いのに、たぶん私は、このまま動けない。

近づいてくる瑞樹から、逃げられない。

だって、私は。


「こらぁぁあああああ!」


突如、この個室に響き渡った声に、さすがの私も目を見開いた。びっくりした。

「何してんだ、瑞樹!まだ勤務時間中だろうがぁ!!」

開かれた襖から、どかどかと大きな足音をさせて、目を吊り上げた女の子が入って来た。

…うん、たぶん、女の子。大柄で、髪はベリーショート、声も低めだけど。

「客をたぶらかすなって言ってるだろ!!」

ふん、と鼻息荒く瑞樹を引きはがす彼女に、呆れた声で瑞樹が言い返す。

「たぶらかしたことなんてねえし。邪魔すんなって。お前の声、ほんとうるせえ」

それを一向に気にする様子もなく、彼女は組み敷かれていた状態のままの私にふと目をやって、にっと笑って見せた。

「もう大丈夫だよ。けど、彼氏潰れてんね?一人で帰れる?」

何を言われているのかよくわからないけど。

「彼氏じゃねえよ!」

…あ、大学の講師のことか。代わりに瑞樹が答えて初めて、ぐっすり眠ったままの彼の存在を思い出す始末。
「え?違うのか。じゃあ、本命の彼氏でも呼べば。もう遅いしさ」


「…彼氏は、いない」

ようやく声が出せたけど、カサカサしていた。何かが詰まったようだった喉を無理に動かしたからだろう。

「マジ?いないの?なら、あたし、今から上がるから、送ってってあげる♪」

「一人で大丈夫」

なぜそんなに親切にしてくれるのかわからず、首をかしげる。

「いやいやいや、危ないって!そのミニスカートは!!」

「はぁ?」

何が危ないんだろう。ちゃんと転んでも膝をすりむかないように、ニーハイソックスも履いてるのに。

もちろん全部、莉子が選んでくれたものだけど。

「はいはい、まあいいや。自覚ない子だってことは了解!あたし、実千(みち)ね。よろしく」

よくわからないままに、初対面にもかかわらず、ずいぶんな世話好きらしい彼女にロッカールームに引きずり込まれてしまった。

「私服に着替えるからついてきてー」
一瞬ちらりと盗み見た瑞樹は仏頂面で、彼女を睨んでいたけど、そんな表情にさえ胸がどきんとして、つくづく自分が嫌になる。


彼女が着替えを済ませて、一緒に店の外に出ると、なぜか瑞樹がいた。

「あんたまだ仕事でしょ!」

再び声を荒げる実千。

「風邪で早退する」

風邪だったら、もっと大げさに辛そうな顔するでしょう、と言いかけた言葉はそっくり飲み下した。

「お前こそ、何企んでる?」

ゆっくりとこちらに歩いてくる瑞樹は、やっぱり瘠せたせいか、どこかシャープな印象だ。

「えぇ!?」

目に見えて実千が動揺した。

「確か、これから合コンだって言ってただろ」

明らかに「しまった」という顔になって、彼女が視線をさまよわせる。
「私一人で帰るからいい」

私は自分で帰れるのだから、何の問題もないだろうと思う、実千が今から合コンに参加したって。だけど、瑞樹は相変わらず実千をじいっと見てる。


「…だってさ、人が足りないんだ」

ぽつり、観念したかのように、実千がこぼした。

「この子、かわいいじゃん。彼氏もいないって言うし、奇跡の巡り合わせだと思ってさ。きっと男どもも喜ぶし、あたしの顔も立つじゃん」

…どういうことだ?何を言ってるんだろう?

「てめえ、ふざけんな」

瑞樹と実千がお互いに掴みかからんばかりの勢いで、ぎゃあぎゃあと言い合いをし始めるから、私は一人ですっかり混乱していた。

何これ、どういう状況?帰ってもいいかな?

そろりとふたりから離れてみたけど、どうやら気づかれていないようだ。ほっと安心して、駅に向かって歩きはじめたら。


「ちょっとぉぉおおお!!」その場にいる人たち全てがぎょっとした顔で、声の方向を振り返る。

私は反射的に走り出したけれど、実千は超人的な勢いで私に追いついた。

「何で逃げるんだ!っていうか、走るのおそっ!」

何を言い返せばいいのか分からず「帰る」と呟いてみたけど、実千の背後にゆったり歩いてくる瑞樹の姿が見えて、わずかに緊張した。

「結論は出た」

実千がにんまりして言うけど、何の結論だ?


「3人で合コンに行こう!!いい男ゲットだ、由澄季!!」

「…は?」



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