Let's study!!



バーなんて、初めて来た。

交友関係の狭い私には行く理由もないのだけど、そもそも営業時間が私の生活サイクルとは合致しないからだろう。


「俺さ、菜津希と別れて後悔してるって言ったことある?」


眉根を寄せた瑞樹が、席に着くなりそう言うから、一瞬ぽかんとしてしまった。

「それはおぼえてないけど、言動がおかしいから」

久しぶりに、まともに交わした会話がこれか、って思うと苦笑いが浮かんでくる。

私たちは結局、菜津希を媒介としないと繋がることができなくなってしまったのだろう。

「ほんとに、女ってわけわかんねえ」

瑞樹が、カウンターで頭を抱えてしまった。

「わけわかんねえ」「女」って言うのは、菜津希のことだろうか。今もまだよりを戻せないでいるんだろうか。

何も言えなくて、目の前に置かれた透明な液体の入ったグラスに口をつけてみる。
「ねえ、何考えてんの、由澄季は」

突然、話を振られて、私は戸惑った。グラスがやたらと冷たく感じる。

久しぶりに瑞樹の声で「由澄季」と名を呼ばれてどきりとしたことには、気がつかなかったことにしよう。

「いや…、私は世の中の女性たちからは、程遠いタイプだから、参考にならないよ」

そう、何と言えばいいのか分からないままで絞り出した答えだけれど、それは以前から自分でもよくわかっていることだ。

とりわけ、妹なのに、菜津希とはずいぶん立ち位置が違うはずだ。だから私の考えを聞いたって何にもならないのだ。

「そうじゃない」

瑞樹が、あきれ顔でそう言った。

「俺が理解できないのは由澄季。世の中の女性たちはどうでもいい。お前が何考えてんのか知りたい」

…え?菜津希どころか、女の枠まで取っ払われた上に、指名されたけど。

「私は…、わかりやすいでしょう」

興味があるのは生物。友達は廣太郎とその彼女の莉子だけ。大切なものは自分の家族と、瑞樹親子。

「わかりにくい」

即答されて、唖然としてしまった。

他の誰に言われてもおかしくないけれど、瑞樹には言われないだろうと思っていた言葉だからだ。

動揺を収めるために、目の前のグラスに入ったアルコールを、再び煽った。

「どこが」

それでも納得がいかずにそう尋ねてしまったことを、後悔した。


「俺のこと、好きなの?嫌いなの?」


瑞樹が、ぎゅっと切なそうに眉を寄せて、そう訊いたから。

食器の音、話し声、バックミュージック。溢れていた音がすうっとかき消えたように感じた。

「わからないんだ」という驚きと、「言うわけにはいかない」という決意とに挟まれて、私は言葉が出なかった。

答えない私に、瑞樹は小さくため息を吐いた。


「ガキの頃からずっと一緒にいて、由澄季と離れることなんて、考えたことすらなかった」

そして、ぽつりとそう言ったのだった。それから、意を決したかのように、まっすぐに私の方を見て、こう続けた。

「なんで、東京に進学しようと思った?俺に何の相談も報告もしないで、由澄季が遠くに行くことを決めただなんて。お前から直接じゃなく、菜津希から聞かされたときは、何かの間違いだと思った」

いまだに瑞樹の口から菜津希の名前を聞くだけで、胸がちくりと痛む。私はさらに、口が重くなる。

瑞樹の方を見ていられなくなって、手元にあるグラスに視線を落とす。外側には水滴がつき始めている。

確かに、瑞樹の言うとおりなのかもしれない。純粋な幼馴染としての私たちの関係を思えば、進学先が全く話題に上らないのは不自然だろう。


ただ、それは、私が自分の恋心を隠そうとしたせい。


「嫌われたのかと、思った」


そんなはずない、という言葉が喉元まで出かかって、ひりひりする。

「でも、内心びくびくしながらこっちでお前の家に来てみたら、拍子抜けするくらいいつもどおりに、飯食わせてくれるし」

瑞樹のそんな気持ちにも、気づいたことはなかった。暢気な顔の裏で、そんなことを考えてたなんて。

「かと思えば、黙って突然留学したり。かと思えば、落ち込んでる俺を励ましてくれたり」

ふたりで過ごした時間が、次々に蘇る。


「俺がキスしたことに気付いてたり」

どきり。


「初めてだったのに抱かせてくれたり」

どきり。胸がひときわ大きく跳ねる。


「なのに、結局は菜津希を優先した。ショックを受けた俺が由澄季と距離をおいても、何の反応もなかった」

反応、できる立場でもなかったと思うけど。どうしてあの状況で、私から瑞樹に近づこうなんて、思えるだろう。


「でも、俺がつらい時はやっぱり会いに来てくれた」

ふっと、表情を緩める瑞樹に、性懲りもなくどきっとする。やっぱり、不機嫌な顔よりも、笑った顔が好きだと思う。
「ずっと、どうしたら由澄季のことがわかるか考えてたのに。どうやってこの関係を変えようか悩んでたのに。由澄季はこんな風にお酒飲んだりしてたんだ?」

ち、がう。のに。

「由澄季は、俺がいなくても今まで通りで、勉強したり、講師や友達と遊んだりしてたの?」

酔っ払った状態で、アパートの階段を上がって来た瑞樹を思い出す。瑞樹はあのままで毎日過ごしていたんだろうか。


「瑞樹は…」

「ん?」

「菜津希と別れて自棄になってたんでしょ?『順番待ち』した女の子と帰って来たじゃない」

私がそう言うと、瑞樹が目を丸くした。

「あれ、お前だったの?」

あんなにふらふらだったのに、記憶だけはあるらしい。

「俺、コンタクトしてなかったからな…。最低だ」

ごつんと額をカウンターに打ち付けている。

「私を菜津希と間違えるくらい、後悔してたんでしょ」

結局、回り回って、その結論に帰って来てしまう。

「だから、後悔したとは一言も言ってない」

むくりと頭をもたげて、瑞樹は不機嫌そうにそう言い返す。


「ただ、罪悪感は強かった。菜津希に悪いことをしたって、ずっと思ってた」

そう呟く瑞樹の横顔は、やはりつらそうに見えて。

「なら、よりを戻せばいいじゃない」

後悔と罪悪感はちょっと違うかもしれないけど、もう一度菜津希だけを大事にしてやれば、瑞樹の気持ちだって落ち着くんじゃないかと思う。


「お前さ、本気で俺のこと、嫌いなの?」

嫌いなはず、ない、のに。
「何言ってるのかよくわからない。菜津希といれば、その罪悪感はなくなるでしょう」

まったくもって、瑞樹の話の筋が見えずに、私は眉根を寄せた。

大人になってからも、瑞樹とは、一緒にお酒を飲んだことがほとんどないのだけれど、ひょっとしてすごくアルコールに弱い体質なんだろうか、って疑いながら。

「それが一番いいと思ってるの?」

同じように眉根を寄せて、瑞樹が問いかける。

「そうでしょう」

そんなこと、即答できる。


「他人事みたいに外から見た意見なんか聞いてない」

「瑞樹にとっては一番いい」

私だって、会えなくなってから、瑞樹のことをたくさん考えたのだから。

なのに。

「俺にとって何が一番いいのかは俺が決める。由澄季がどう思うかを訊いてるんだよ」


瑞樹がそう言うから、はっと胸を突かれた。

「お願い、もうちゃんと由澄季自身の気持ちを言って。俺、このままじゃ自滅しそうだ」

瑞樹が絞り出すように言った言葉は、彼の芯から出てきたような切実さを孕んでいる。何を言ってほしいのか、どうして自滅しそうなのか、全くわけがわからないのに。

胸を打たれて、ふと、瑞樹の方を見上げてしまった。


「由澄季、好きだよ」


寂しいせいだからと自分にそう言い聞かせて、聞き流すように努めた台詞が、結局はするりと耳から胸に入ってくる。

「遠回りしたけど、俺、ずっとお前が好きだった。馬鹿だから、気がつくのが遅くなったけど」

何を、言ってるんだろう、瑞樹は。

相変わらず戸惑いながらも、今度は瑞樹から目が離せなくなった。ずいぶん長い間、この顔を眺めてきたけれど、こんな表情を見たことはあっただろうか。

「由澄季が好きなんだ」

よくわからないけど、自分の気持ちを伝えようと一生懸命なことだけは、理解ができて、胸がうずうずする。

「な、泣かないで。困ってんの?いや、俺の方が困るんだけど!」

どうやら泣いているのは私らしい。気がついた私も困っている。
「まさか…、嫌だったとか?」

うろたえる瑞樹の表情が、いつもの彼らしいものだったから、ようやく私もまともに息がつける。


「どうしてわからないか、わかる?」

「ん?わけがわからない」

ようやく掠れた声が出た私に少し安心したのか、遠慮がちに瑞樹が私の涙を拭う。

小さい頃は、私がよくそうしてあげたのに。瑞樹の方がうんと泣き虫だった。今だって、私は滅多に泣いたりしないのだけれど、瑞樹のこととなると、わりと簡単に涙が出てくる気がする。

「わからないように気をつけて、私が隠してるからに決まってるでしょう」

「…そうなの?」

「知られると困るの」

そう答えた自分の声は、わずかに震えていた。


「それは、好きだってこと?」


少し見開いた、色素の薄い瞳が、私の姿をとらえている。答えようと口を開くのに、言葉が出ない。ぱくぱくするしかなくて、自分でも呆れる。「…長い間、声に出さないように気をつけてたら、言えなくなったみたい」

「はっ、なんだよ、それ」

困り果ててそう打ち明けると、瑞樹がようやく笑った。笑った…。

「じゃあ、幼馴染として好き?」

「うん」

「…それはなんで素直に返事ができるのかな」

瑞樹が首をかしげる。

「家族みたいな感じで、好き?」

「うん」

「弟みたいで好き?」

「うん」

「……なんか落ち込んできた」

肩を落とす瑞樹に、今度は私が首をかしげる番だった。

どれも間違いじゃない。

瑞樹とはずっと一緒に育ったようなもので、幼馴染っていう表現が正解だけど、実際には家族みたいで、弟みたいに思っていた時期も長かった。


「男としては?」

「ん?」

「男として見てる?異性として好き?」

「……」

全く言葉が出てこない。頭の中ですら「うん」と言えない。

「なに、これは由澄季のシークレットコードにひっかかるんだ?」

「…そんな感じがする」

呆れたように瑞樹がため息をついた。

「瑞樹が好きって言ってみて」

「そんなこと言えるか」って言い返そうとしたのに、睨みつけてみた瑞樹の顔が、思いも寄らず真剣で、とうとう言いそびれてしまった。

「ほら」

促されて、こくんと喉を鳴らした。

「み」

瑞樹はしばらく待っていたけれど、いつまで経っても言葉の続きが出ない私の様子に、はあ、と大きなため息をついた。


「じゃあ、瑞樹が嫌いって言ってみて」

「瑞樹が嫌い」

「即答かよ!」

だって。

「になりたかった」

「え?」

そう言うと、抑えつけていた想いが、どっと胸の中に溢れるみたいに感じた。

「ずっと、嫌いになれたらいいのにって、思ってた」

小さな声でそう言うと、決定的な一言を言ったわけでもないのに、声が震える。
「ちょ、わ、悪かった。泣くな。な?」

前が見えづらいやら眠いやらで、ごしごし目をこすっていたら、瑞樹は慌てて私の鞄からハンカチを出して拭いてくれた。


きょろきょろと周りを見回して、瑞樹はこほんと咳払いをしてこう言った。

「よし、店は出よう。俺が泣かせてると思われてる」

確かに、薄暗い店内だけど、ちらちらとこちらの様子を見ている人たちがいて、目が合った。


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