Let's study!!
18歳 Summer
彼はなぜ謝るのだろう?
「真面目にやったの?」
思わず、そう言ってしまった。
「ひでー…。真面目にやったよ」
その答えに、私は大きなため息をついて、頭を抱え込むしかない。瑞樹は、他人事のようにくすくすと楽しそうに笑うだけだから、呆れる。この能天気。
「じゃあなんで、テストがこんな惨憺たる結果なの」
「ん?さん…なんだって?」
「さんたんたる、結果!」
「どういう意味?」
「ひどいってことだ!!」
私がそんな言葉を叩きつけているのに、「違いないね」なんて言ってけたけた笑ってるから、瑞樹ってホントに馬鹿だと思う。
「はい、ありがと」
そう言って、にっこり笑いながら、前に貸した参考書や問題集を返してくる瑞樹。
「…一応、ノート見せて」
本当に、ちゃんと問題解いたんだろうか。それで、あんな点しか取れないんだろうか。その疑問が消えないのだ。
「うん。ほら、俺、頑張ったよ」
自信満々にそう言いながら、差し出されたノートを開くと、私は視界がくらくらと歪んできたのを感じた。
とにかく間違っている。全てが!
「…字は、いっぱい書いてあるね」
「だろ?」
満足げにそう言う瑞樹に、「褒めてないんだけどな」と呟いたけれど、奴は聞いてない。
「なあ、由澄季はどのへんに住むの?」
目をキラキラさせながら、私の顔を、ひょいと瑞樹が覗きこむから、思わずのけぞった。
うわ、びっくりした!顔が近い!
「何区にする?最寄駅はどこ?」
「…は?」
頭の中がピンク色に染まりかかっていたけれど、問われたことを反芻して硬直した。
「東京で、どこに住むか決めた?」
「そんなこと考える前に、もうちょっと勉強して、地元の大学に行きなよ」
「もうお前にその望みはないって、担任が断言してたわー」
「……」
思い描いていたキャンパスライフが、私にさよならを告げて消えて行ったのを、感じた瞬間だった。
誰も知っている人のいない環境で、ひとりで生物学に邁進する4年間(できれば6年間)を、過ごすはずだったのに…。
「な、どこに住む?」
「まだ合格してもいないのに、決めてるはずないでしょう!」
「由澄季はどこでも受かるよ。決めてないなら、俺とルームシェアしよっか」
「…しない!!」
考えただけで、ぞっとした。
ファミリー向けだか何だかの住まいを借りて、瑞樹と暮らすところを。
いや、嫌いじゃない、瑞樹のことは。ここだけの話だけど、私は相変わらず瑞樹のことを嫌いになれないでいる。
でも、その気持ちを押し隠したまま、彼とルームメイトになるならば。
週末や、大型連休になると、菜津希が泊まりに来たりするわけだ。そして、仲睦まじい二人の様子を、穏やかな顔で見守るお姉さんを演じることになるのだ。
そんなの、そんなのって…、まさに今と同じじゃないか!
「あれ?由澄季、何か怒ってる?」
怒ってるよ!この皮肉な運命に!
早い段階で、進学先が、こいつに知られたのがそもそもの間違いだったかもしれない。ふと、そう思い至って、最後まで東京のどこに住むかは言わないでおこうと固く決意した。
「ただいまー」
菜津希の声が聞こえて、私は小さく息を吐いた。
「遅かったね」
時計を見ると、もう夜の8時を過ぎている。
「んー、地区大会が近いから。おばあちゃん、もう部屋に引き上げちゃったね。お姉ちゃんも寝ていいよ」
うん、と言いながらも、体が勝手にキッチンに向かっている。菜津希の分の夕食を温めるために。
私が高校に入った頃くらいだろうか、祖母が風邪をこじらせたのは。1か月も寝込んで、回復はしたものの、健康に対する自信を失ったらしく、祖母は少し慎重になった。体を気遣って、一層早寝になった。
それと同時期に、食べ盛りの私たち3人は、祖母の用意する食事が物足りなくなった。
だから、祖母が用意してくれるものの他に、何品か、私が料理をするようになった。瑞樹も菜津希も部活や友達づきあいがあって忙しい。一方の私は、帰宅部で友達もいないから。
「おいしそー。グラタン♪」
菜津希のその浮かれた声に、ふっと、自然に笑みが零れる。
「もうわかったの?においがする?」
「うん。トースターの音とチーズのにおいで、決まりだよね。そろそろ食べたい時期だったし」
だから、料理は楽しい。かわいい妹が、喜んでくれるから。
「あれっ?これだけ?」
目の前にグラタン皿を置くと、明らかに菜津希ががっかりした声を漏らして、隣の席で瑞樹がぎくりとする。
「瑞樹ぃ…」
「あー、俺、由澄季を寝かしつけて来るわー」
「ちょっと待ちなさい!あたしの分まで食べたでしょ!吐き出せ!」
「う!げほっ、ま、マジで苦しいわ、菜津希」
ひそかに好きな人が、食べてくれるから、料理は楽しい。
だけど、こうしてじゃれ合うふたりを見るのは、嬉しくも辛く、楽しくもつまらない。心の中はマーブル模様のまま、何年も何年も淀んでいるみたいだ。
その心の入口に、重たいシャッターをがしゃんと下ろしておく。
ふあ。
あくびが出て、眠気に気がつく。私はそのまま居間に二人を置いて、お風呂に入った。
私たちの両親は、二人とも小学校の教師をしている。瑞樹の母親は、フリーライターをしている。私たちの両親は、遅くとも10時ごろには帰ってくるけれど、瑞樹の母親は何日も家にいることもあれば、何カ月も帰って来ないこともある。
だから、私たちは、こうして祖母のもとで、お互いにちょっとだけ助け合いながら、暮らしている。
温かいお湯で、体の汚れや疲れとともに、心の汚れや疲れまで、浄化しているような気がする。
毎日、瑞樹と菜津希の様子を目にした後に、浴室で零すため息は、私の心を落ち着かせるためには重要なもの。
ため息は幸せを遠ざけるなんて言うけれど、こんな共同生活を営んでいる私には、落ち込んだ顔をする場所は、トイレか浴室しかないんだから。
髪を乾かし、歯を磨いて、2階にある自室に入ると、当たり前のように瑞樹が私の勉強机に座っている。
「今日は、ここ」
いつもは明るく感じられる瑞樹の声が、こうして寝入る前の習慣の時間になると、低く感じられるのはなぜだろう。
「ん」
瑞樹が開いた教科書を見て、通学鞄から自分のノートを出し、机の上に置いた。
瑞樹は、英語が一番の苦手科目なのだ。でも、かわいそうなことに、英語という教科には、予習がつきものである。そして、ほとんど毎日授業がある。
「だめ、初めは自分でやって」
何度言っても、すぐに私のノートを丸写ししようとする瑞樹に、思わず笑いがこみ上げるけれど、頑張って怖い顔をして見せる。
「わかった」
ちょっとすねた顔も、好きだ。毎日のように見るのに、毎日のように好きだと思う。
甘酸っぱい感情が胸に広がるのを感じながら、私はベッドに横になる。こうして、机に向かう瑞樹の横顔を見つめている時間が、一日の内で一番好きだ。
高校3年生にもなってるのに、まだ四苦八苦して辞書を引いているところも。
私のノートを大事そうにめくるところも。
ときどきちらりと私の様子をうかがうところも。
全部全部好きだ。
そんな瑞樹の様子をしっかり目に焼き付けてから、ようやく私は分厚いレンズの眼鏡を外して、枕元に置いた。
「まだ眠れないの?」
いくらか時間が経ってから、瑞樹がそう問いかけるのも、毎度のことだ。私が小さく頷いて見せるのも。
私は寝つきが悪い体質だ。体を起こして動いているときには、ちゃんと眠気を感じているにもかかわらず、横になってから眠りに落ちるまでに、ずいぶん時間がかかる。
それなら、9時なんかにベッドに入るなって、菜津希にだって言われる。だけど、それを10時にしても12時にしても、結局1時間くらいは眠れないってことに、もう気がついた。
目を閉じていると、頭に温かい手を感じた。薄く目を開くと、瑞樹が微かに微笑む。
「まだ、写しちゃだめ、だから、ね」
良い子、良い子、ってしてもらうみたいに。瑞樹に優しく頭を撫でられると、少しずつ眠くなる。
いつもは瑞樹の方がうんと幼いくせに、一日の最後には、ちょっとだけお兄ちゃんみたいになる。
「わかってるよ」
落ち着いた声が聞こえると同時に、瑞樹の息がふわりと温かく頬にかかって、なんだかこのまま死んでもいい、と思ってしまった。
その直後、死んだかと思うくらい深い眠りの中に落っこちた。
無言で、向かいの家の鍵を開けて、玄関に入る。夏の朝は早い。すでに日は昇っているのに、1階に人の気配はない。
ダイニングのテーブルに、私が用意した弁当と、祖母が作った朝食の乗ったトレイを置く。
それから、階段を上っていく。
そして突き当たりにあるドアを開けたら、そこだけは、季節を間違えたのかと思うくらいの気温だ。
「さむっ」
いつもながら、どうしてこいつは風邪を引かないんだろうと思う。これだけ設定温度の低い部屋で、タオルケットひとつかぶってないくせに。
あ、なんとかは風邪引かないんだっけ。頭の中でだけ毒づいておく。
身震いしながら、瑞樹の枕元にあるはずの、エアコンのリモコンを探すのも、私の朝の日課だ。
あ、あったあった。壁際に目当てのリモコンを見つけて、眠る瑞樹の向こう側へと手を伸ばした時。
「ぎゃっ!」
投げ出されていたはずの瑞樹の両腕が、私の背中に回ってきて、ぺしゃんと体勢を崩した私は、猫が尻尾を踏まれた時そっくりな声を上げた。
「…ぅおわあ!!」
私に下敷きにされた瑞樹も、さすがに目が覚めたらしく、変な悲鳴を上げた。
はっとしてお互いに距離を取ったものの、不自然な近さで目があったその時、瑞樹はこう呟いたんだ。
「ごめん、間違えた」
どきんどきんって、乙女らしくときめいていた胸の音は、あっという間にずきんずきんっていう残念な音に変わった。
「寝ぼけてる暇ないよ。とっとと起きろ」
「あてっ」
いつもより幾分、強めに彼の額をぺちっと叩いて、私は瑞樹の部屋を出た。誰もいないリビングを抜けて、玄関から外に出る。預かっている合鍵で玄関の鍵をかけた瞬間。
ぼろぼろと涙が出てきて、自分でもびっくりした。
私はあまり泣く方ではない。泣いても何も解決しないってわかっている。泣く暇があったらやるべきことがあるって考える。
でも、「この件」に関して、私にやるべきことは何もない。
この恋は、進むことも退くこともできないままで、私はただ、痛みに耐えながら、この位置で立ち尽くしているしかない。
瑞樹が何を間違えたのかは明白だ。
寝惚けていたから、似ていないのに、私を菜津希だと勘違いしたのだろう。と、いうことは、ああやって、瑞樹は菜津希を抱き寄せることも、あるのだろう。
ごしごしと涙を素手で拭い、頭を振る。そんなこと考えたって、どうにもならないのに。
いつの間にか、すっかり力が強くなっていた、瑞樹の腕の感触を、温度を、ありありと思い出す。
胸が痛いやら痺れるやら、頭がおかしくなりそうだった。
思わず、そう言ってしまった。
「ひでー…。真面目にやったよ」
その答えに、私は大きなため息をついて、頭を抱え込むしかない。瑞樹は、他人事のようにくすくすと楽しそうに笑うだけだから、呆れる。この能天気。
「じゃあなんで、テストがこんな惨憺たる結果なの」
「ん?さん…なんだって?」
「さんたんたる、結果!」
「どういう意味?」
「ひどいってことだ!!」
私がそんな言葉を叩きつけているのに、「違いないね」なんて言ってけたけた笑ってるから、瑞樹ってホントに馬鹿だと思う。
「はい、ありがと」
そう言って、にっこり笑いながら、前に貸した参考書や問題集を返してくる瑞樹。
「…一応、ノート見せて」
本当に、ちゃんと問題解いたんだろうか。それで、あんな点しか取れないんだろうか。その疑問が消えないのだ。
「うん。ほら、俺、頑張ったよ」
自信満々にそう言いながら、差し出されたノートを開くと、私は視界がくらくらと歪んできたのを感じた。
とにかく間違っている。全てが!
「…字は、いっぱい書いてあるね」
「だろ?」
満足げにそう言う瑞樹に、「褒めてないんだけどな」と呟いたけれど、奴は聞いてない。
「なあ、由澄季はどのへんに住むの?」
目をキラキラさせながら、私の顔を、ひょいと瑞樹が覗きこむから、思わずのけぞった。
うわ、びっくりした!顔が近い!
「何区にする?最寄駅はどこ?」
「…は?」
頭の中がピンク色に染まりかかっていたけれど、問われたことを反芻して硬直した。
「東京で、どこに住むか決めた?」
「そんなこと考える前に、もうちょっと勉強して、地元の大学に行きなよ」
「もうお前にその望みはないって、担任が断言してたわー」
「……」
思い描いていたキャンパスライフが、私にさよならを告げて消えて行ったのを、感じた瞬間だった。
誰も知っている人のいない環境で、ひとりで生物学に邁進する4年間(できれば6年間)を、過ごすはずだったのに…。
「な、どこに住む?」
「まだ合格してもいないのに、決めてるはずないでしょう!」
「由澄季はどこでも受かるよ。決めてないなら、俺とルームシェアしよっか」
「…しない!!」
考えただけで、ぞっとした。
ファミリー向けだか何だかの住まいを借りて、瑞樹と暮らすところを。
いや、嫌いじゃない、瑞樹のことは。ここだけの話だけど、私は相変わらず瑞樹のことを嫌いになれないでいる。
でも、その気持ちを押し隠したまま、彼とルームメイトになるならば。
週末や、大型連休になると、菜津希が泊まりに来たりするわけだ。そして、仲睦まじい二人の様子を、穏やかな顔で見守るお姉さんを演じることになるのだ。
そんなの、そんなのって…、まさに今と同じじゃないか!
「あれ?由澄季、何か怒ってる?」
怒ってるよ!この皮肉な運命に!
早い段階で、進学先が、こいつに知られたのがそもそもの間違いだったかもしれない。ふと、そう思い至って、最後まで東京のどこに住むかは言わないでおこうと固く決意した。
「ただいまー」
菜津希の声が聞こえて、私は小さく息を吐いた。
「遅かったね」
時計を見ると、もう夜の8時を過ぎている。
「んー、地区大会が近いから。おばあちゃん、もう部屋に引き上げちゃったね。お姉ちゃんも寝ていいよ」
うん、と言いながらも、体が勝手にキッチンに向かっている。菜津希の分の夕食を温めるために。
私が高校に入った頃くらいだろうか、祖母が風邪をこじらせたのは。1か月も寝込んで、回復はしたものの、健康に対する自信を失ったらしく、祖母は少し慎重になった。体を気遣って、一層早寝になった。
それと同時期に、食べ盛りの私たち3人は、祖母の用意する食事が物足りなくなった。
だから、祖母が用意してくれるものの他に、何品か、私が料理をするようになった。瑞樹も菜津希も部活や友達づきあいがあって忙しい。一方の私は、帰宅部で友達もいないから。
「おいしそー。グラタン♪」
菜津希のその浮かれた声に、ふっと、自然に笑みが零れる。
「もうわかったの?においがする?」
「うん。トースターの音とチーズのにおいで、決まりだよね。そろそろ食べたい時期だったし」
だから、料理は楽しい。かわいい妹が、喜んでくれるから。
「あれっ?これだけ?」
目の前にグラタン皿を置くと、明らかに菜津希ががっかりした声を漏らして、隣の席で瑞樹がぎくりとする。
「瑞樹ぃ…」
「あー、俺、由澄季を寝かしつけて来るわー」
「ちょっと待ちなさい!あたしの分まで食べたでしょ!吐き出せ!」
「う!げほっ、ま、マジで苦しいわ、菜津希」
ひそかに好きな人が、食べてくれるから、料理は楽しい。
だけど、こうしてじゃれ合うふたりを見るのは、嬉しくも辛く、楽しくもつまらない。心の中はマーブル模様のまま、何年も何年も淀んでいるみたいだ。
その心の入口に、重たいシャッターをがしゃんと下ろしておく。
ふあ。
あくびが出て、眠気に気がつく。私はそのまま居間に二人を置いて、お風呂に入った。
私たちの両親は、二人とも小学校の教師をしている。瑞樹の母親は、フリーライターをしている。私たちの両親は、遅くとも10時ごろには帰ってくるけれど、瑞樹の母親は何日も家にいることもあれば、何カ月も帰って来ないこともある。
だから、私たちは、こうして祖母のもとで、お互いにちょっとだけ助け合いながら、暮らしている。
温かいお湯で、体の汚れや疲れとともに、心の汚れや疲れまで、浄化しているような気がする。
毎日、瑞樹と菜津希の様子を目にした後に、浴室で零すため息は、私の心を落ち着かせるためには重要なもの。
ため息は幸せを遠ざけるなんて言うけれど、こんな共同生活を営んでいる私には、落ち込んだ顔をする場所は、トイレか浴室しかないんだから。
髪を乾かし、歯を磨いて、2階にある自室に入ると、当たり前のように瑞樹が私の勉強机に座っている。
「今日は、ここ」
いつもは明るく感じられる瑞樹の声が、こうして寝入る前の習慣の時間になると、低く感じられるのはなぜだろう。
「ん」
瑞樹が開いた教科書を見て、通学鞄から自分のノートを出し、机の上に置いた。
瑞樹は、英語が一番の苦手科目なのだ。でも、かわいそうなことに、英語という教科には、予習がつきものである。そして、ほとんど毎日授業がある。
「だめ、初めは自分でやって」
何度言っても、すぐに私のノートを丸写ししようとする瑞樹に、思わず笑いがこみ上げるけれど、頑張って怖い顔をして見せる。
「わかった」
ちょっとすねた顔も、好きだ。毎日のように見るのに、毎日のように好きだと思う。
甘酸っぱい感情が胸に広がるのを感じながら、私はベッドに横になる。こうして、机に向かう瑞樹の横顔を見つめている時間が、一日の内で一番好きだ。
高校3年生にもなってるのに、まだ四苦八苦して辞書を引いているところも。
私のノートを大事そうにめくるところも。
ときどきちらりと私の様子をうかがうところも。
全部全部好きだ。
そんな瑞樹の様子をしっかり目に焼き付けてから、ようやく私は分厚いレンズの眼鏡を外して、枕元に置いた。
「まだ眠れないの?」
いくらか時間が経ってから、瑞樹がそう問いかけるのも、毎度のことだ。私が小さく頷いて見せるのも。
私は寝つきが悪い体質だ。体を起こして動いているときには、ちゃんと眠気を感じているにもかかわらず、横になってから眠りに落ちるまでに、ずいぶん時間がかかる。
それなら、9時なんかにベッドに入るなって、菜津希にだって言われる。だけど、それを10時にしても12時にしても、結局1時間くらいは眠れないってことに、もう気がついた。
目を閉じていると、頭に温かい手を感じた。薄く目を開くと、瑞樹が微かに微笑む。
「まだ、写しちゃだめ、だから、ね」
良い子、良い子、ってしてもらうみたいに。瑞樹に優しく頭を撫でられると、少しずつ眠くなる。
いつもは瑞樹の方がうんと幼いくせに、一日の最後には、ちょっとだけお兄ちゃんみたいになる。
「わかってるよ」
落ち着いた声が聞こえると同時に、瑞樹の息がふわりと温かく頬にかかって、なんだかこのまま死んでもいい、と思ってしまった。
その直後、死んだかと思うくらい深い眠りの中に落っこちた。
無言で、向かいの家の鍵を開けて、玄関に入る。夏の朝は早い。すでに日は昇っているのに、1階に人の気配はない。
ダイニングのテーブルに、私が用意した弁当と、祖母が作った朝食の乗ったトレイを置く。
それから、階段を上っていく。
そして突き当たりにあるドアを開けたら、そこだけは、季節を間違えたのかと思うくらいの気温だ。
「さむっ」
いつもながら、どうしてこいつは風邪を引かないんだろうと思う。これだけ設定温度の低い部屋で、タオルケットひとつかぶってないくせに。
あ、なんとかは風邪引かないんだっけ。頭の中でだけ毒づいておく。
身震いしながら、瑞樹の枕元にあるはずの、エアコンのリモコンを探すのも、私の朝の日課だ。
あ、あったあった。壁際に目当てのリモコンを見つけて、眠る瑞樹の向こう側へと手を伸ばした時。
「ぎゃっ!」
投げ出されていたはずの瑞樹の両腕が、私の背中に回ってきて、ぺしゃんと体勢を崩した私は、猫が尻尾を踏まれた時そっくりな声を上げた。
「…ぅおわあ!!」
私に下敷きにされた瑞樹も、さすがに目が覚めたらしく、変な悲鳴を上げた。
はっとしてお互いに距離を取ったものの、不自然な近さで目があったその時、瑞樹はこう呟いたんだ。
「ごめん、間違えた」
どきんどきんって、乙女らしくときめいていた胸の音は、あっという間にずきんずきんっていう残念な音に変わった。
「寝ぼけてる暇ないよ。とっとと起きろ」
「あてっ」
いつもより幾分、強めに彼の額をぺちっと叩いて、私は瑞樹の部屋を出た。誰もいないリビングを抜けて、玄関から外に出る。預かっている合鍵で玄関の鍵をかけた瞬間。
ぼろぼろと涙が出てきて、自分でもびっくりした。
私はあまり泣く方ではない。泣いても何も解決しないってわかっている。泣く暇があったらやるべきことがあるって考える。
でも、「この件」に関して、私にやるべきことは何もない。
この恋は、進むことも退くこともできないままで、私はただ、痛みに耐えながら、この位置で立ち尽くしているしかない。
瑞樹が何を間違えたのかは明白だ。
寝惚けていたから、似ていないのに、私を菜津希だと勘違いしたのだろう。と、いうことは、ああやって、瑞樹は菜津希を抱き寄せることも、あるのだろう。
ごしごしと涙を素手で拭い、頭を振る。そんなこと考えたって、どうにもならないのに。
いつの間にか、すっかり力が強くなっていた、瑞樹の腕の感触を、温度を、ありありと思い出す。
胸が痛いやら痺れるやら、頭がおかしくなりそうだった。