哀しき血脈~紅い菊の伝説3~
会社帰り、遠山春海は街の小さな花屋に立ち寄った。薔薇の花束を買うためだった。
彼女は特に薔薇の花束を好んで買っていた。彼女の息子、信が好んでいるからだった。
「いつもありがとうございます」
花屋の店員が満面の笑みをたたえて春海に薔薇を手渡した。十八歳くらいだろうか、少しぽっちゃり目のかわいらしい印象を持った店員だった。きっとアルバイトなのだろう、私にもそんな時期があった。春海は昔を偲んで彼女に微笑み返した。
花屋を出たとき、ショーウィンドウに映る自分の姿を見て春海は溜息をついた。信と暮らすようになって何度転居を繰り返したのだろう。陽の光を浴びることが出来ない信を世の中は異質なものとして受け入れてはくれない。何度となく説明をしてきたが、それは受け入れられなかった。この街もきっとそうなのだろう。
いつまで暮らすことが出来るだろうか。
痩せこけた自らの頬を見て春海はまた溜息をついた。
街は既に街灯に照らされている。
信はきっと私を待っていることだろう。春海は歩みを早めた。
今のところ春海はこの街が気に入っていた。信の特異性を理解して接してくれる鏡という一家がいたからだった。彼女たちは自分と同じ母子家庭だったが、陰に籠もったところが無く、その娘美鈴は信を可愛がってくれて学校に行くことが出来ない信の勉強をみてくれている。
しかし、いつまでもそれに甘える訳にも行かなかった。
いくら勉強をみてくれているといっても中学生には限界がある。知識を持ったプロに任せたい。春海はそう思っていた。
いくつかの角を曲がり、公園の前を通ると春海は立ち止まった。
そこには暗い陰の気配があった。
微かな憎悪の気配が感じられた。
(ここで人が死んだな)
春海はそう理解した。
彼女のこうした勘はよく当たっていた。子供の頃から彼女は人の死に関して敏感だった。幼い頃はそれが誰にでもある普通のことだと感じていてよく口に出していたが、その度に大人達から白い目で見られていた。やがて物心がついた頃、それが自分にだけある特異な能力であることを知ったとき、人の死を感じても口に出すことをやめた。
それでも春海を見る周囲の目は変わらなかった。春海を見る恐怖の視線は彼女を孤独に追いやっていた。
だから春海には信の孤独が痛いほどよくわかった。
一人で遊ぶしかない信の孤独がよくわかった。
だから美鈴という年の離れた友人が出来たときは嬉しかった。
この街には長く住んでいたい。春海はそう願っていた。
そんなことを考えながら歩いていると彼女の住むアパートの前に出た。
錆びた階段を上り彼女の部屋の鍵を開ける。
中には誰もいなかった。
春海は数本がまとめられた薔薇の花束をテーブルに置くと隣の部屋の呼び鈴を押す。
明るい声とともに美鈴の母、美里が姿を現した。
「あら、春海さん。お帰りなさい」
屈託のない笑みを浮かべて美里は春海を招き入れる。
「今日は早かったんですね」
テーブルに紅茶を用意しながら美里が言った。
「ええ、今日は早い時間に契約が取れたので…」
春海が応える。
春海は保険の外交員をやっていた。成績は中の上、歩合制の給料だが親子二人が質素に生活して行くには十分な額を貰っていた。
「大変でしょう?。保険の外交員というのは」
美里は春海に椅子を勧めるとそう言った。
「はい、でもなんの資格もない私が出来るのはこれくらいですから」
春海の声は疲れていた。
美里は春海が紅茶のカップに口をつけるとの見ると美鈴の部屋の扉を開けた。
ほどなく信が姿を見せる。嬉しそうな表情が顔いっぱいに広がる。
「おかあさん、お帰り」
そう言うと信は春海の胸に飛び込んでくる。
「うん、ただいま」
春海は信の頭を撫でながら応える。
それからひとしきり世間話を美里と交わすと春海達親子は自分たちの部屋に入った。
「今日ね、新しい友達が出来たんだ」
部屋に入るなり信は絵美とのことを春海に話した。
「よかったですね。でも怪しまれませんでしたか?」
春海は敬語を使って信に訪ねた。
「大丈夫、そこは上手くやったよ」
信は春海の買ってきた薔薇の花束を手にする。赤く凛として咲き誇っていた薔薇が見る見る干涸らびていく。
「僕、学校に行けるような気がする」
干涸らびた薔薇をゴミ箱に捨てると信は春海の顔をじっと見つめた。
「大丈夫ですか?」
春海は過去のことを思い起こして信に訊いた。
「大丈夫、少しの間なら陽の光の下でも平気だし、力も少しついてきた感じなんだ。勿論完全防備だけどね」
信は自信を持って答える。
確かに学校に通うことは信にとっていいことだと思う。けれども過去に起こった出来事が春海の心を押しとどめようとする。だが、今回は信がそれを望んでいる。春海は彼の希望を萎えさせたくは無かった。
「わかりました。明日手続きをしてきましょう」
春海の答えに信はまた満面の笑顔を見せた。
彼女は特に薔薇の花束を好んで買っていた。彼女の息子、信が好んでいるからだった。
「いつもありがとうございます」
花屋の店員が満面の笑みをたたえて春海に薔薇を手渡した。十八歳くらいだろうか、少しぽっちゃり目のかわいらしい印象を持った店員だった。きっとアルバイトなのだろう、私にもそんな時期があった。春海は昔を偲んで彼女に微笑み返した。
花屋を出たとき、ショーウィンドウに映る自分の姿を見て春海は溜息をついた。信と暮らすようになって何度転居を繰り返したのだろう。陽の光を浴びることが出来ない信を世の中は異質なものとして受け入れてはくれない。何度となく説明をしてきたが、それは受け入れられなかった。この街もきっとそうなのだろう。
いつまで暮らすことが出来るだろうか。
痩せこけた自らの頬を見て春海はまた溜息をついた。
街は既に街灯に照らされている。
信はきっと私を待っていることだろう。春海は歩みを早めた。
今のところ春海はこの街が気に入っていた。信の特異性を理解して接してくれる鏡という一家がいたからだった。彼女たちは自分と同じ母子家庭だったが、陰に籠もったところが無く、その娘美鈴は信を可愛がってくれて学校に行くことが出来ない信の勉強をみてくれている。
しかし、いつまでもそれに甘える訳にも行かなかった。
いくら勉強をみてくれているといっても中学生には限界がある。知識を持ったプロに任せたい。春海はそう思っていた。
いくつかの角を曲がり、公園の前を通ると春海は立ち止まった。
そこには暗い陰の気配があった。
微かな憎悪の気配が感じられた。
(ここで人が死んだな)
春海はそう理解した。
彼女のこうした勘はよく当たっていた。子供の頃から彼女は人の死に関して敏感だった。幼い頃はそれが誰にでもある普通のことだと感じていてよく口に出していたが、その度に大人達から白い目で見られていた。やがて物心がついた頃、それが自分にだけある特異な能力であることを知ったとき、人の死を感じても口に出すことをやめた。
それでも春海を見る周囲の目は変わらなかった。春海を見る恐怖の視線は彼女を孤独に追いやっていた。
だから春海には信の孤独が痛いほどよくわかった。
一人で遊ぶしかない信の孤独がよくわかった。
だから美鈴という年の離れた友人が出来たときは嬉しかった。
この街には長く住んでいたい。春海はそう願っていた。
そんなことを考えながら歩いていると彼女の住むアパートの前に出た。
錆びた階段を上り彼女の部屋の鍵を開ける。
中には誰もいなかった。
春海は数本がまとめられた薔薇の花束をテーブルに置くと隣の部屋の呼び鈴を押す。
明るい声とともに美鈴の母、美里が姿を現した。
「あら、春海さん。お帰りなさい」
屈託のない笑みを浮かべて美里は春海を招き入れる。
「今日は早かったんですね」
テーブルに紅茶を用意しながら美里が言った。
「ええ、今日は早い時間に契約が取れたので…」
春海が応える。
春海は保険の外交員をやっていた。成績は中の上、歩合制の給料だが親子二人が質素に生活して行くには十分な額を貰っていた。
「大変でしょう?。保険の外交員というのは」
美里は春海に椅子を勧めるとそう言った。
「はい、でもなんの資格もない私が出来るのはこれくらいですから」
春海の声は疲れていた。
美里は春海が紅茶のカップに口をつけるとの見ると美鈴の部屋の扉を開けた。
ほどなく信が姿を見せる。嬉しそうな表情が顔いっぱいに広がる。
「おかあさん、お帰り」
そう言うと信は春海の胸に飛び込んでくる。
「うん、ただいま」
春海は信の頭を撫でながら応える。
それからひとしきり世間話を美里と交わすと春海達親子は自分たちの部屋に入った。
「今日ね、新しい友達が出来たんだ」
部屋に入るなり信は絵美とのことを春海に話した。
「よかったですね。でも怪しまれませんでしたか?」
春海は敬語を使って信に訪ねた。
「大丈夫、そこは上手くやったよ」
信は春海の買ってきた薔薇の花束を手にする。赤く凛として咲き誇っていた薔薇が見る見る干涸らびていく。
「僕、学校に行けるような気がする」
干涸らびた薔薇をゴミ箱に捨てると信は春海の顔をじっと見つめた。
「大丈夫ですか?」
春海は過去のことを思い起こして信に訊いた。
「大丈夫、少しの間なら陽の光の下でも平気だし、力も少しついてきた感じなんだ。勿論完全防備だけどね」
信は自信を持って答える。
確かに学校に通うことは信にとっていいことだと思う。けれども過去に起こった出来事が春海の心を押しとどめようとする。だが、今回は信がそれを望んでいる。春海は彼の希望を萎えさせたくは無かった。
「わかりました。明日手続きをしてきましょう」
春海の答えに信はまた満面の笑顔を見せた。