茶屋の娘
茶屋の娘
山道を歩きながらふと考える。
この風や雲はどこからやってくるのだろうか。
虫たちはなぜ飛び交うのか。
鳥たちはなぜさえずるのだろうか。
唐代の詩人、杜甫や李白はこの景色を見て何を思うだろうか。晩秋の山中の景色を短い詩の中にどう収めることだろうか。
私は俳句なら少しはわかる。俳句は短い。短い中に自分の思いを詰め込もうなんて野暮な考え方ではいい句は作れない。
それくらいのことは心得ている。問題はそこからだ。そこから先は忘れてしまった。というよりも途中で投げ出してしまったというほうが妥当だろう。
私は俳句もろくに作らないで入門書を二、三十頁ほど読んで部屋の隅に打ち遣ってしまった。だから、私に創作は向かないのである。
山道でも畦道でも川辺でも湖畔でも、とりあえず自然の中を散歩しながら思索に耽るのが一番だと思っている。
だが、本だけは手離せない。
書くことは苦手だが、一方で読むことは達者なのだ。
読むものといえば、ほとんどが小説で今日に至るまで夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介に太宰治といった純文学の大家に親しんできた。それにしても、同じ作品を何度読んだことだろうか。
夏目漱石の『三四郎』なんか夢にまでストレイシープが出てきたほどだ。
そんなことを考えているといつの間にか暗雲が立ちこめてきた。どこか雨宿りできるところを探さねばとしばらく辺りを見渡していた。
すると、数十メートル先に小さな茶屋があった。
さっきまで、確かにあの場所にはブナの大木が立っていたはずだが……。
どういうことか、今一度振り返って見てみると確かにある。
どうやらこの坂を上ったところにあるようだ。最近どうも乱視が酷くなったようでその茶屋らしき店の幟に書かれた文字が見えない。時折吹く風のせいもあるのだろう。取りあえず、行ってみることにした。
そして、一分も経たないうちに店の前まで来た。
店の前の幟にはさっきまで見えなかった『ひとは』という店の名前とみられる字が書かれていた。店自体はというと建てられて間もないが、昔風の茶屋を意識した造りで山道にあるそれに相応しい印象を受けた。
誰かいないか店内を覗いてみようと一歩踏み出した時、こちらの様子に気づいたのだろう。店内から声がした。
「いらっしゃいませ」
若々しい、はきはきとした声である。薄暗い店内から一人、姿を現したのはどうやら声の主であった。
「お客様はお一人様で御座いますか」
「うん、そうだ」
十六、七の色白の小柄な娘である。その声と容貌から清楚な印象を受けた。
「だいぶ天気が悪くなりましたね」
「あぁ、それで……」
「それで、ここにお越し下さったのですね」
「そうだ」
私はなぜか緊張しているのか、店頭に据えられた長いベンチにすっと腰かけた。
「お客様、じきに雨が降ってくると思われます。そちらでは濡れてしまいます。中にお入り下さい」
「そんなことはわかっている。これは一種の条件反射だ」とでも言おうと思ったが、何だか言いわけがましいのでやめておいた。
齢三十二にして最近はオヤジ臭い思考に支配されつつある。まだまだ若い青年の心でありたいと思っているのだが……。
とりあえず、こんなことを考えていても仕方があるまい。ここは適当に返事をしておこう。
「うん、まぁそれもそうだな」
「さぁ、こちらへ」
そう言われるまま暖簾をくぐり、店内へと入っていった。
どうやら中は薄暗い。天井から提灯のような形の照明器具が一つぶら下がっているだけだ。そのわりに意外と広さがある。十五、六人ほどは優に座れる席がある。外は昼間ということもあって暖かいが、店内はほど好くひんやりとしていてお化け屋敷をイメージさせるようであった。
その時、店の奥の柱時計が「ボーン、ボーン」と鳴った。
今どき柱時計とは珍しい。
薄暗くひんやりとした茶屋の店内、柱時計の鳴る音。
これはいよいよのっぺらぼうでも出るのではあるまいか。
そんなことを考えていると、狐の面を被ったさっきの娘が茶を持ってきた。
一体何の真似だろうかと思いながらも黙っていた。娘は私の座っている席のテーブルに茶をおくと、面をはずした。
「びっくりされましたか」
「あぁ、少し」
さっきの声とは違い、随分と濃艶な声を出すのだった。別人というほどではないが、照明の関係で顔もいくぶん大人びてみえた。狐の面よりもその声と容姿のほうに驚きを覚えたのだが、私はあえて平生を装おっていた。
すると、また娘は何やら言い出した。
「どういったところに驚かれて」
はて、これはまた妙なことをいうもんだ。これは、大人をからかっているのだな。
「うん、君は天女のように美しい。そして、声は雲雀にも勝るであろう」
我ながら臭いと思ったが、名ゼリフをいったつもりだ。はたして、この娘はどう出るだろうか。私は殊勝な顔つきで目の前に立っている娘を見上げた。
呆れた顔をしている。
「それでは答えになっていませんよ。普通に仰って」
またしても十代の娘とは思えない言い方とその艶っぽさ。
「普通にか。じゃあ、君の美貌と声に驚かされた」
情けないことに逆に向こうに乗せられてしまった。ここから一気に落ちるのか。
「惚れましたか」
「惚れた」
「では、一緒に寝て下さいますね」
今度はとんでもない答えが返ってきた。一体この娘は何者か。狐の化身だろうか。
そうだ、私は狐につままれているのだ。
「狐と床を共にすることはできないな」
「あら、それは失礼いたしました。でも、私は狐ではありませんよ。あなたがさっきまで見ていたブナの木です」
「ブ、ブナの木?正気か」
「はい」
「では、私を騙そうとしているわけではあるまいな」
「あるもないも、木ですから。それよりも、冷めないうちにお茶をお召しになられては」
なんだか、妙なものだ。狐につままれているのではなく、ブナの木につままれていると考えるのはおかしい。確かに木が女に化けて男を騙すなんて聞いたことがない。
まぁ、木の精霊という言葉はどこかで聞いたことがある。はたして、その手のものなのかなとも思った。
それはいいとしてとりあえず娘のいうとおり茶をもらおうとした。
すると、私の手元にはさっき運ばれてきたお茶といつの間にか草餅が二つ添えられていた。
「これは……」
「添い寝です」
「えっ」
「ホホホ」
油断するとまたこれだ。どうも近頃の若い奴は早くていけない。
「そう、大人をからかうもんではないぞ」
そういって私は草餅を一つつまんだ。
「それは失礼いたしました。あまりにもお客様の容貌が麗しゅうございますので。つい……」
こいつは厄介だ。本当に十六、七の娘なのだろうか。私がそう思いこんでいるだけかもしれない。やはり、年を訊いたほうが良いのでは。だが、若い娘に年を訊くのも気が引ける。うむ、やはり魔女の類いなのか。
私は短い時間でいろいろと考えてしまった。
それを妙に思ったのか、黙っている私を見兼ねたのか娘は私に顔を近づけて言った。
「どうされました?」
今にも接吻をしそうなほどの距離に顔を近づけてきた。慌てて私は顔を引っ込めた。
「いや、美味い。この草餅は君が作っているのかね」
その場を取り繕うようにごまかした。
「いいえ、それは下界で作ったものを仕入れてきているだけです」
「そうか」
何やらさっきまで遠くに聞こえていた雷鳴がだんだんと近くなっていく模様だ。雨足も強くなってきた。
「これはまずいな」
「本音ですか」
「いや、じゃなくて天気がだ」
「雷は大丈夫です。ここには落ちませんよ」
「そうならいいが……」
「もし宜しければ、今は他にお客様はおりません。後ろのお座敷でおくつろぎ下さいませ」
そう言って後ろを見るように娘は促した。
ふとその時、細い首のうなじが見えた。なぜか、それが木の幹に見えたのである。
やはり、この娘は……。
さっきの娘の言葉を思い出していたが、なんだか眠くなってきたので後ろのスペースに設けられた三畳ほどの座敷でくつろぐことにした。
「おタカ、そこは危のう御座る。はよ、下りてきたまえ」
「ゲンキチ、そんな高いところに逃げても無駄ですよ」
「ジロウや」
「ヤエコよ」
私はどうやら夢の中にいるようだ。小鳥のさえずりや木々のざわめきとともにいくつもの名前といくつもの人の姿が頭に浮かんできたのである。
しかし、そこには必ず枝ぶりの良いブナの木があった。そのブナの木は最初人目につかないほど小さかったが、やがて大きく太くなった。
そして、春夏秋冬めぐる季節の中で動物や人間たちの憩いの場となり、安らぎを与えていたのであった。
しかし、突然私の頭の中は真っ暗になった。と思ったら、激しい閃光とともに雷鳴が響いた。
「バリバリバリバリ、ドーン!」
その音で一気に目が覚めた。一瞬、辺りは雷に見舞われたがすぐにのどかな小春日和の美しい風景に戻ったのである。
ただ、悲しいことに私の寄っ掛かっているブナの大木は落雷のせいか、上部の枝があったと見られるところは損なわれ太い幹の部分だけが黒焦げ、寂しく残っていた。
さっきまであった茶屋は最初から幻であったのか、それともただの夢だったのか。判然としないまま、私はしばらく茶屋での娘とのやりとりなどを反芻していた。
しかし、西の空に暮れゆく日をみて私は我に返りこれから寒くなるであろう峠をあとにした。
この風や雲はどこからやってくるのだろうか。
虫たちはなぜ飛び交うのか。
鳥たちはなぜさえずるのだろうか。
唐代の詩人、杜甫や李白はこの景色を見て何を思うだろうか。晩秋の山中の景色を短い詩の中にどう収めることだろうか。
私は俳句なら少しはわかる。俳句は短い。短い中に自分の思いを詰め込もうなんて野暮な考え方ではいい句は作れない。
それくらいのことは心得ている。問題はそこからだ。そこから先は忘れてしまった。というよりも途中で投げ出してしまったというほうが妥当だろう。
私は俳句もろくに作らないで入門書を二、三十頁ほど読んで部屋の隅に打ち遣ってしまった。だから、私に創作は向かないのである。
山道でも畦道でも川辺でも湖畔でも、とりあえず自然の中を散歩しながら思索に耽るのが一番だと思っている。
だが、本だけは手離せない。
書くことは苦手だが、一方で読むことは達者なのだ。
読むものといえば、ほとんどが小説で今日に至るまで夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介に太宰治といった純文学の大家に親しんできた。それにしても、同じ作品を何度読んだことだろうか。
夏目漱石の『三四郎』なんか夢にまでストレイシープが出てきたほどだ。
そんなことを考えているといつの間にか暗雲が立ちこめてきた。どこか雨宿りできるところを探さねばとしばらく辺りを見渡していた。
すると、数十メートル先に小さな茶屋があった。
さっきまで、確かにあの場所にはブナの大木が立っていたはずだが……。
どういうことか、今一度振り返って見てみると確かにある。
どうやらこの坂を上ったところにあるようだ。最近どうも乱視が酷くなったようでその茶屋らしき店の幟に書かれた文字が見えない。時折吹く風のせいもあるのだろう。取りあえず、行ってみることにした。
そして、一分も経たないうちに店の前まで来た。
店の前の幟にはさっきまで見えなかった『ひとは』という店の名前とみられる字が書かれていた。店自体はというと建てられて間もないが、昔風の茶屋を意識した造りで山道にあるそれに相応しい印象を受けた。
誰かいないか店内を覗いてみようと一歩踏み出した時、こちらの様子に気づいたのだろう。店内から声がした。
「いらっしゃいませ」
若々しい、はきはきとした声である。薄暗い店内から一人、姿を現したのはどうやら声の主であった。
「お客様はお一人様で御座いますか」
「うん、そうだ」
十六、七の色白の小柄な娘である。その声と容貌から清楚な印象を受けた。
「だいぶ天気が悪くなりましたね」
「あぁ、それで……」
「それで、ここにお越し下さったのですね」
「そうだ」
私はなぜか緊張しているのか、店頭に据えられた長いベンチにすっと腰かけた。
「お客様、じきに雨が降ってくると思われます。そちらでは濡れてしまいます。中にお入り下さい」
「そんなことはわかっている。これは一種の条件反射だ」とでも言おうと思ったが、何だか言いわけがましいのでやめておいた。
齢三十二にして最近はオヤジ臭い思考に支配されつつある。まだまだ若い青年の心でありたいと思っているのだが……。
とりあえず、こんなことを考えていても仕方があるまい。ここは適当に返事をしておこう。
「うん、まぁそれもそうだな」
「さぁ、こちらへ」
そう言われるまま暖簾をくぐり、店内へと入っていった。
どうやら中は薄暗い。天井から提灯のような形の照明器具が一つぶら下がっているだけだ。そのわりに意外と広さがある。十五、六人ほどは優に座れる席がある。外は昼間ということもあって暖かいが、店内はほど好くひんやりとしていてお化け屋敷をイメージさせるようであった。
その時、店の奥の柱時計が「ボーン、ボーン」と鳴った。
今どき柱時計とは珍しい。
薄暗くひんやりとした茶屋の店内、柱時計の鳴る音。
これはいよいよのっぺらぼうでも出るのではあるまいか。
そんなことを考えていると、狐の面を被ったさっきの娘が茶を持ってきた。
一体何の真似だろうかと思いながらも黙っていた。娘は私の座っている席のテーブルに茶をおくと、面をはずした。
「びっくりされましたか」
「あぁ、少し」
さっきの声とは違い、随分と濃艶な声を出すのだった。別人というほどではないが、照明の関係で顔もいくぶん大人びてみえた。狐の面よりもその声と容姿のほうに驚きを覚えたのだが、私はあえて平生を装おっていた。
すると、また娘は何やら言い出した。
「どういったところに驚かれて」
はて、これはまた妙なことをいうもんだ。これは、大人をからかっているのだな。
「うん、君は天女のように美しい。そして、声は雲雀にも勝るであろう」
我ながら臭いと思ったが、名ゼリフをいったつもりだ。はたして、この娘はどう出るだろうか。私は殊勝な顔つきで目の前に立っている娘を見上げた。
呆れた顔をしている。
「それでは答えになっていませんよ。普通に仰って」
またしても十代の娘とは思えない言い方とその艶っぽさ。
「普通にか。じゃあ、君の美貌と声に驚かされた」
情けないことに逆に向こうに乗せられてしまった。ここから一気に落ちるのか。
「惚れましたか」
「惚れた」
「では、一緒に寝て下さいますね」
今度はとんでもない答えが返ってきた。一体この娘は何者か。狐の化身だろうか。
そうだ、私は狐につままれているのだ。
「狐と床を共にすることはできないな」
「あら、それは失礼いたしました。でも、私は狐ではありませんよ。あなたがさっきまで見ていたブナの木です」
「ブ、ブナの木?正気か」
「はい」
「では、私を騙そうとしているわけではあるまいな」
「あるもないも、木ですから。それよりも、冷めないうちにお茶をお召しになられては」
なんだか、妙なものだ。狐につままれているのではなく、ブナの木につままれていると考えるのはおかしい。確かに木が女に化けて男を騙すなんて聞いたことがない。
まぁ、木の精霊という言葉はどこかで聞いたことがある。はたして、その手のものなのかなとも思った。
それはいいとしてとりあえず娘のいうとおり茶をもらおうとした。
すると、私の手元にはさっき運ばれてきたお茶といつの間にか草餅が二つ添えられていた。
「これは……」
「添い寝です」
「えっ」
「ホホホ」
油断するとまたこれだ。どうも近頃の若い奴は早くていけない。
「そう、大人をからかうもんではないぞ」
そういって私は草餅を一つつまんだ。
「それは失礼いたしました。あまりにもお客様の容貌が麗しゅうございますので。つい……」
こいつは厄介だ。本当に十六、七の娘なのだろうか。私がそう思いこんでいるだけかもしれない。やはり、年を訊いたほうが良いのでは。だが、若い娘に年を訊くのも気が引ける。うむ、やはり魔女の類いなのか。
私は短い時間でいろいろと考えてしまった。
それを妙に思ったのか、黙っている私を見兼ねたのか娘は私に顔を近づけて言った。
「どうされました?」
今にも接吻をしそうなほどの距離に顔を近づけてきた。慌てて私は顔を引っ込めた。
「いや、美味い。この草餅は君が作っているのかね」
その場を取り繕うようにごまかした。
「いいえ、それは下界で作ったものを仕入れてきているだけです」
「そうか」
何やらさっきまで遠くに聞こえていた雷鳴がだんだんと近くなっていく模様だ。雨足も強くなってきた。
「これはまずいな」
「本音ですか」
「いや、じゃなくて天気がだ」
「雷は大丈夫です。ここには落ちませんよ」
「そうならいいが……」
「もし宜しければ、今は他にお客様はおりません。後ろのお座敷でおくつろぎ下さいませ」
そう言って後ろを見るように娘は促した。
ふとその時、細い首のうなじが見えた。なぜか、それが木の幹に見えたのである。
やはり、この娘は……。
さっきの娘の言葉を思い出していたが、なんだか眠くなってきたので後ろのスペースに設けられた三畳ほどの座敷でくつろぐことにした。
「おタカ、そこは危のう御座る。はよ、下りてきたまえ」
「ゲンキチ、そんな高いところに逃げても無駄ですよ」
「ジロウや」
「ヤエコよ」
私はどうやら夢の中にいるようだ。小鳥のさえずりや木々のざわめきとともにいくつもの名前といくつもの人の姿が頭に浮かんできたのである。
しかし、そこには必ず枝ぶりの良いブナの木があった。そのブナの木は最初人目につかないほど小さかったが、やがて大きく太くなった。
そして、春夏秋冬めぐる季節の中で動物や人間たちの憩いの場となり、安らぎを与えていたのであった。
しかし、突然私の頭の中は真っ暗になった。と思ったら、激しい閃光とともに雷鳴が響いた。
「バリバリバリバリ、ドーン!」
その音で一気に目が覚めた。一瞬、辺りは雷に見舞われたがすぐにのどかな小春日和の美しい風景に戻ったのである。
ただ、悲しいことに私の寄っ掛かっているブナの大木は落雷のせいか、上部の枝があったと見られるところは損なわれ太い幹の部分だけが黒焦げ、寂しく残っていた。
さっきまであった茶屋は最初から幻であったのか、それともただの夢だったのか。判然としないまま、私はしばらく茶屋での娘とのやりとりなどを反芻していた。
しかし、西の空に暮れゆく日をみて私は我に返りこれから寒くなるであろう峠をあとにした。