あやまち
あやまち
私にはいつも同じ通勤電車の車両に乗り合わせる女性がいた。年は私と同じくらい。つまり、社会人一、二年の新人であろう。
最初は別に意識していなかったが二回、三回と乗り合わせの回数が増えていくに連れ、お互いが意識するようになった。同じ車両でどうしてこういつも近い距離で乗り合わせるものか。時に私は自分と彼女の間に運命というものを感じるようになっていた。
それは、ある雨の日の出来事であった。ただ雨が降っているというだけで晴れの日や曇りの日と何ら変わらなかった。いつものようにほどよく混んだ車両に乗り込んだ私はまず彼女が乗っているかどうか気になるのであった。
はたして、今日も彼女はドアの前にもたれかかるようにして立っていた。私と目が合うと顔を少し俯かせた。照れているのか顔もいくぶん紅潮してみえた。やはり、私に気があるのだろう。この時は自分がとんだ勘違い野郎であることなど一分も思っていなかった。
そして、またいつものように距離感を確かめるのであった。
まず十八メートルあるかざっと確かめる。
そして、次に小数点以下が四四になるように微調整。
これはもちろん、本当に距離を測るのではなく、飽くまでシミュレーションである。今日は二回で決まった。
『十八.四四』
測定が終わると同時に車掌のアナウンスが流れる。
「ドアが閉まります。駆け込み乗車はお止め下さい」
そして、間もなく車両が動き出す頃、私はフォームを整え彼女に向かって球を投げるふりをした。
一球目はボール。
二球目もボール。
三球目、四球目ときて、ついにフォアボール。これが、四回続いて押し出しの一点。気を取り直して、次の打者も彼女。ロングヘアーの凛とした佇まいが美しい。そのスラッとしたスタイルの長身はイチローを思わせる。
そして、再び投球フォームを整えた時、次の駅に着いた。
どうやら、他の乗客を押し退けて彼女が私の方に近づいてきた。
おや、これは乱闘か。そう思うや否や、私は彼女に腕をつかまれ無言で然るべき場所に連れて行かれた。ここで監督に成り変わった彼女に戦力外通告ならず、痴漢通告を出されてしまった。
「痴漢?僕がですか」
私の目の前にいる小太りの男は教官室で生徒に説教を垂れる高校時代の体育科の教師に似ていた。
「自覚がないのかね?」
それに対して私は
あるともないとも答えず、屁理屈を述べた。
「自覚も何も、彼女とはあかの他人ですから。まだ、付き合うも何も」
「君の妄想を述べられても困る。君は確かに毎日、彼女に執拗に嫌がらせをしていたと同じ時間帯に乗り合わせた人の証言があるんだよ」
「いえ、僕はただ彼女とのプレイを…」
バン!
机を激しく叩く音
「それが、痴漢だと言っているんだ!君にはこれから近くの警察署で取り調べを受けてもらう」
駅長か何なのか私にはわからなかったが、今の口吻といい、鬼気迫る形相といい、閻魔法王の化身にしか見えなかったその中年男に命じられるまま隣にいた警察官に手錠をかけられ、ロッカールームを後にした。
彼女との十八.四四の距離はあっという間に縮まったと思うや、それが痴漢行為だと見なされると遠くへと引き離され、二度とマウンドに立つことはなかった。
後で気づいたことだが彼女はあの日、傘を手に持っていなかった。バットを持っていなかった。外は朝から雨が降っていたのでまさか忘れてきたというのではあるまい。ただ普通の細長い傘ではなく、鞄に仕舞える折り畳み式の傘に変えたのであろうと思われた。雨が降るたびにあう私の痴漢行為に対する彼女のささやかな抵抗だったのかもしれない。
あの時、私が彼女の警告に気づいていれば、寸でのところで痴漢行為は抑えられていたかもしれない。
しかし、どちらにせよ自分のことしか考えていなかったこの時の私は彼女の意思を汲み取ることなど不可能であっただろう。なんて愚かで最低な人間なんだと今更ながら己の痴態を恥じるのであった。
もし、本当に彼女を思う気持ちがあったとしてもそれは己の胸の内にしまって墓場まで持っていけばよかったのだと自らの極論が頭に浮かぶのであった。
しかし、今となっては後の祭りだ。
私はこれから社会の冷たい目に晒されることだろう。
それでも私はこれから更正するのだ。そのため、法の裁きの基に償っていかなければならない。
二度と十八.四四の過ちを犯さぬように…。
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