やわらかな夜
俺と目があった有村は微笑んでいた。

「滝本くん」

彼女の口から出てきたのは、いつも呼んでいた俺の名前じゃなかった。

「私、この子をちゃんと育てるわ」

ふくらんだお腹をなでながら有村が言った。

微笑んだその顔は、俺の知らない母親の顔だった。

「滝本くんも、大切な人と幸せになってね」

そう言った後、有村が椅子から腰をあげた。

「――あの」

俺は有村を呼び止めると、
「――元気なお子さんを、産んでください」
と、言った。

やっと、言えた。

初めて、彼女に言えた。

そう言った俺に、彼女は微笑んで、
「さようなら」
と、言った。

「さよなら」

俺が返すと、彼女は背中を見せた。
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