水面に浮かぶ月
何だかんだ言いながらも、今まで決して、八木原翁は透子に体を求めなかった。

「簡単に寝るようなつまらん女にはなるな」と、八木原翁は口癖のように言うからだ。


『club S』のナンバーワンともなれば、セックスなどしなくても勝手に客がつくのだし、もちろん透子もその言葉通りに振る舞ってきた。



でも、だからこそ、言われるとわかっていながらも、“それ”でここまでのし上がってきた透子にとっては、厳しい言葉だった。



「俺を利用したいというのはかまわん。だが、俺だって、それ相応の理由もなしにタダでお前の手の上で踊ってやる気はねぇよ」


威圧するような目。


普段、一緒に飲んでいる時とはまた違う、八木原翁の初めて見せた顔。

けれど、透子は、ここでひるむわけにはいかなかった。



「私はこの街を手にします。この街で一番だと言われる女になります。そんな女のパトロンともなれば、八木原さまには今以上の箔がつくと思いますよ」


強気に言いながらも、透子の背には冷や汗が伝っていた。

八木原翁は永遠とも思えるほどの長い沈黙の後、



「何様だよ、お前。偉そうに。『今以上の箔がつく』だなんて、誰に向かって言ってやがる」


吐き捨てるように言われた。

が、八木原翁はすぐにふっと表情を崩し、



「やっぱりおもしれぇよ、お前はよぉ。さすがは俺が見込んだだけのことはあるってもんだ」


笑われて、透子は少し、気が抜けた。

八木原翁は口角を上げ、



「どこの不動産屋の、どの物件だ? すぐにでも話を通してやる」

「八木原さま……」

「それから、お前に1千万くれてやるよ。その代わり、俺の名に恥じねぇ店にしろ」


信じられなかった。

だが、これで透子にはもう怖いものなしだ。



「ありがとうございます」


透子は八木原翁に深々と頭を下げた。

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