水面に浮かぶ月
「でも、驚いたなぁ。きみはこういうことをしない子なんだと思っていたよ」

「セックスをすることは、人間の本能でしょう?」

「それはそうだが。でもまさかきみが、しかも僕のような中年の客の誘いに乗ってくれるだなんて」

「誰とでもするわけじゃありませんよ」


透子もベッドから降り、客の前に立って、ネクタイを直してやる。



「奥村さまが、とても素敵な方だったからですわ。そうじゃなきゃ、裸を見せるなんてこと、できません」


客は、左手の薬指に、結婚指輪を嵌め直す。

その所作は、まるで、遊ぶことも紳士のたしなみだとでも言わんばかりに自然だった。


透子はそれを気にすることなく、客の頬に軽くキスをした。



「だから、これからもよろしくお願いします」


整った笑みを向ける透子。

客は困ったように肩をすくめ、



「僕はきみに骨抜きだ。そのうち、すべてを吸い尽くされてしまいそうだなぁ」


もちろん、そのつもりです。

透子は腹の底で思いながらも、



「あら、人を魔性のように言って」


わざとおどけたように返した。

客は笑う。



「また連絡させてもらうよ。店にも、近いうちに顔を出すから」

「待ってますわ。だから、うさぎのように、私が寂しくて死んでしまう前に、必ず会いに来てくださいね」

「会えなくて寂しくなるのは、僕の方が先かもしれない」


それが客の本心であることは、容易に見抜けた。


大手飲食チェーンの社長。

またひとり、透子は大きな後ろ盾を得たのだった。

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