水面に浮かぶ月
『club S』は、いつも通り、華やかだった。
透子はその日、髪をアップにし、シンプルだがラインの綺麗な白のドレスを選んで着た。
そして、その卓に呼ばれたのは、人が少し減った頃だった。
八木原という客がいる。
大企業の会長で、政財界にも強い存在感を示していて、誰もが知る、ひどく気難しい老人だ。
八木原翁は、忘れた頃に、ふらりとやってきては、フリーでちょこちょこと飲んでいくだけの客である。
チャンスがあるなら、と、すべてのキャストが内心で思っているだろう。
今まで、透子も、ヘルプについたことは何度かあったが、様子見程度に留めていた。
だが、しかし、狙うなら今日しかないと、どうしてだか強く思った。
透子は姿勢を正し、強い決意を持って、卓に向かった。
「失礼します」
八木原翁は、透子を一瞥するが、特に気にする風でもなかった。
「お久しぶりですわね。私のこと、覚えてらっしゃいますか?」
「お前は養豚場にいる豚の顔の違いがわかるのか?」
嫌味で返された。
だが、こんな程度のことでひるむ透子ではない。
透子は八木原翁に笑顔を向けた。
「少しだけ、私の話にお付き合いください」