水面に浮かぶ月
失礼なことを言っているのは、百も承知だ。


下手をすれば、八木原翁を怒らせ、ナンバーワンどころかクビになる可能性だってあるのだから。

でも、八木原翁すら落とすことができないのなら、この街を手にすることなどできるはずがない。



「じゃあ、お前、俺と寝るか?」

「そんなことでよろしいのでしたら、いくらでも」


八木原翁はふっと口角を上げた。



「俺と寝ることが『そんなこと』とはなぁ。ナメられたもんだぜ」

「セックスなんて、ただの手段ですわ。この街を手にするためなら、私は何だってしますもの」

「どうしてそこまでこだわるんだ?」

「もう二度と、あの地獄のような日々に戻りたくはないんです」


八木原翁は、「地獄?」と反芻させた。


透子は息を吐く。

今まで誰にも言わなかったことを、それでも初めて言葉にする。



「6歳でした。誰もいない部屋の中で、食べるものもなく、ごみを漁り、下痢と空腹で半狂乱になった。でも、涙は渇いて出なかった。声も、出なかった」

「………」

「本物の地獄を見たんです。だけど、私は死ななかった。辛うじて生き残ることができたんです。だから、もう、上を見るしかないじゃないですか」


透子は膝の上で拳を作った。



「私は、勝ちたいんです」


八木原翁は、しばらくの後、席を立った。

ただ一言、「帰る」と言い捨てたので、ママも黒服たちも僅かに焦った顔になっていた。


だが、やるだけのことはやったのだから。


後悔はない。

むしろ、少し楽になったとさえ思ったほどだ。



これが、今の自分が持てるすべて。

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