HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
ソファの横を素通りして、書斎の戸口から内部を覗き見ると、口内の写真が多数掲載されている冊子を片手にした父が、俺に気がついて目を上げた。
「珍しいな。どうした?」
父はいまいち掴みどころのない性格だ。激しく怒るようなこともなければ、腹を抱えて笑うなんてこともない。感情の起伏が乏しいというべきか、あるいは表現するのが下手くそというべきか……。
勿論、上機嫌のときもあるし、酔えば愉快そうな顔もする。だが非常にわかりにくい。もともといつも難しいことを考えているように見える顔のせいかもしれない。
「父さんはどうして歯医者になろうと思ったわけ?」
咄嗟に俺はそう言っていた。会話の糸口が見つからず、父が手にしている冊子が妙に目に付いただけだったのだが。
「簡単に言えば、俺の親父も歯医者だったからだろうな」
「あ、そう」
当たり前の答えが返ってきて拍子抜けした。俺は父の書斎に入って行き、本棚に並ぶいろいろなジャンルの本の背表紙を眺める。経営関係の本があるかと思うと、その隣にはベストセラー作家のミステリーが並び、その次は酵素について書かれた本だ。
――酵素?
首を傾げたところで父の声がした。
「お前のじいさんが優秀な歯科医だったら、俺は違う道を選んだかもしれないな」
「え? じいちゃんってヤブだったの?」
父は少し笑った。
「まぁ、近所では悪名高い歯医者だったことは間違いない。まだ使える歯を抜くのは日常茶飯事で、診断も不的確な上、処置も下手だった」
「それはひどい」
「そういう自分の父親が嫌いで、評判が悪い歯科医院である自分の家が嫌いだった。でも、あるとき思った。このまま親父の代で終わってしまうと、この辺りでは我が家が悪いイメージのままだ、と。そしてそのイメージはかなり長い間払拭できないだろう、と」
俺は頷いていた。確かに一度定着した悪い印象は簡単には消えない。特に近所の評判というのは目に見えない割に根強いものだ。
「そうなると迷惑を被るのは自分や自分の家族だということになる。ま、親父に借金があって逃げることもできなかったんだが」
親父は鼻で笑ったが、じいちゃんを恨んでいる様子は感じられず、俺はしばし親父の顔をじっと見つめてしまった。
「そう決めたのはいつ頃?」
「ここで歯科をやろうと思ったのは大学を卒業する頃だな」
「じゃあ歯学部に行こうと思ったのはどうして?」
「歯学部以外には金を出さないと母親に言われていたからな」
俺はばあちゃんの顔を思い出した。父の少し気難しそうな顔はばあちゃん譲りだろう。目が細く切れ長で、その見た目だけでも冷たい感じがする人だ。実際は冗談も言う面白い部分もあるが、全体的な評価としては外見と中身が違わぬケチで我の強い老婦人なのだった。
「なるほどね」
そう考えると俺は恵まれているな、と思った。両親は「歯学部に進め」とは言わない。
――いや、聞いたことがないだけで、もしかしたら歯学部に進学してほしいと思っているかもしれないな。
顔を上げると、父と目が合った。
「進路のことか?」
「うん。先生には両親と話し合ってこいって言われてる」
父は持っていた冊子を机の上に置き、改めて俺に向き合う。そしてあっさりと言った。
「お前の人生だからお前のしたいことをすればいい。興味もないのに歯学部に進む必要はないな」
予想通りのセリフだったが、すぐに「うん」と返答することができない重い言葉だった。
「でも、そしたら、どうするんだ?」
――もし俺も寛人も笑佳も継がなかったら?
父は俺の顔を見たまま、フッと皮肉な笑みを浮かべた。今夜は機嫌がいいようだ、と思う。
「お前に心配されるようになるとはな。興味などないくせに」
「そういうわけじゃない」
――ぶっちゃけ、親父の言うとおりだけど。
それでも自分の家のことが気にならないわけがない。俺自身が歯医者になりたいとは思わなくても、自分の家が歯科医院じゃなくなったらどうなるのか、ということが心配なのだ。
「それよりもお前は自分のことをしっかり考えるんだな。お前にはお前にしかできないことがあるはずだ。時間はかかっても、それを見つけることが重要だと思うぞ」
「父さんってずいぶん楽天的だね」
俺は思わず苦笑した。進路を決めるこの大事な時期に、そんな悠長なことを言っていたら、数年後にはものの見事に路頭に迷っているはずだ。今からどんな社会人になりたいのかを考えて進路を選択しなければ、何もかもが手遅れになってしまう。
「お前には余計なアドバイスをする必要はないと思うからだよ」
「そう?」
「自分で自分の生き方くらい決められるだろう。それでお前は何に興味があるんだ?」
全面的に信頼されているのか、あるいは息子の将来に過度の期待をしていないのか、微妙にわかりにくい父の反応に戸惑いつつ、俺はようやくここに来た目的を思い出した。
「ずっと数学や哲学が面白いと思っていたんだけど、急に脳に興味が出てきたんだ」
「のう?」
「伝統芸術の能とかじゃなくて、頭脳の脳。それも人間の脳」
父は鼻の頭をかいた。どうもピンと来なかったらしい。そして腕組みをして言った。
「その研究は金になるのか?」
――金だぁ!?
顔が引きつった。すぐに回れ右をする。
「もう少し考えてくる」
俺はそのまま親父の書斎を出て、リビングルームを素通りし、自室に戻った。
「珍しいな。どうした?」
父はいまいち掴みどころのない性格だ。激しく怒るようなこともなければ、腹を抱えて笑うなんてこともない。感情の起伏が乏しいというべきか、あるいは表現するのが下手くそというべきか……。
勿論、上機嫌のときもあるし、酔えば愉快そうな顔もする。だが非常にわかりにくい。もともといつも難しいことを考えているように見える顔のせいかもしれない。
「父さんはどうして歯医者になろうと思ったわけ?」
咄嗟に俺はそう言っていた。会話の糸口が見つからず、父が手にしている冊子が妙に目に付いただけだったのだが。
「簡単に言えば、俺の親父も歯医者だったからだろうな」
「あ、そう」
当たり前の答えが返ってきて拍子抜けした。俺は父の書斎に入って行き、本棚に並ぶいろいろなジャンルの本の背表紙を眺める。経営関係の本があるかと思うと、その隣にはベストセラー作家のミステリーが並び、その次は酵素について書かれた本だ。
――酵素?
首を傾げたところで父の声がした。
「お前のじいさんが優秀な歯科医だったら、俺は違う道を選んだかもしれないな」
「え? じいちゃんってヤブだったの?」
父は少し笑った。
「まぁ、近所では悪名高い歯医者だったことは間違いない。まだ使える歯を抜くのは日常茶飯事で、診断も不的確な上、処置も下手だった」
「それはひどい」
「そういう自分の父親が嫌いで、評判が悪い歯科医院である自分の家が嫌いだった。でも、あるとき思った。このまま親父の代で終わってしまうと、この辺りでは我が家が悪いイメージのままだ、と。そしてそのイメージはかなり長い間払拭できないだろう、と」
俺は頷いていた。確かに一度定着した悪い印象は簡単には消えない。特に近所の評判というのは目に見えない割に根強いものだ。
「そうなると迷惑を被るのは自分や自分の家族だということになる。ま、親父に借金があって逃げることもできなかったんだが」
親父は鼻で笑ったが、じいちゃんを恨んでいる様子は感じられず、俺はしばし親父の顔をじっと見つめてしまった。
「そう決めたのはいつ頃?」
「ここで歯科をやろうと思ったのは大学を卒業する頃だな」
「じゃあ歯学部に行こうと思ったのはどうして?」
「歯学部以外には金を出さないと母親に言われていたからな」
俺はばあちゃんの顔を思い出した。父の少し気難しそうな顔はばあちゃん譲りだろう。目が細く切れ長で、その見た目だけでも冷たい感じがする人だ。実際は冗談も言う面白い部分もあるが、全体的な評価としては外見と中身が違わぬケチで我の強い老婦人なのだった。
「なるほどね」
そう考えると俺は恵まれているな、と思った。両親は「歯学部に進め」とは言わない。
――いや、聞いたことがないだけで、もしかしたら歯学部に進学してほしいと思っているかもしれないな。
顔を上げると、父と目が合った。
「進路のことか?」
「うん。先生には両親と話し合ってこいって言われてる」
父は持っていた冊子を机の上に置き、改めて俺に向き合う。そしてあっさりと言った。
「お前の人生だからお前のしたいことをすればいい。興味もないのに歯学部に進む必要はないな」
予想通りのセリフだったが、すぐに「うん」と返答することができない重い言葉だった。
「でも、そしたら、どうするんだ?」
――もし俺も寛人も笑佳も継がなかったら?
父は俺の顔を見たまま、フッと皮肉な笑みを浮かべた。今夜は機嫌がいいようだ、と思う。
「お前に心配されるようになるとはな。興味などないくせに」
「そういうわけじゃない」
――ぶっちゃけ、親父の言うとおりだけど。
それでも自分の家のことが気にならないわけがない。俺自身が歯医者になりたいとは思わなくても、自分の家が歯科医院じゃなくなったらどうなるのか、ということが心配なのだ。
「それよりもお前は自分のことをしっかり考えるんだな。お前にはお前にしかできないことがあるはずだ。時間はかかっても、それを見つけることが重要だと思うぞ」
「父さんってずいぶん楽天的だね」
俺は思わず苦笑した。進路を決めるこの大事な時期に、そんな悠長なことを言っていたら、数年後にはものの見事に路頭に迷っているはずだ。今からどんな社会人になりたいのかを考えて進路を選択しなければ、何もかもが手遅れになってしまう。
「お前には余計なアドバイスをする必要はないと思うからだよ」
「そう?」
「自分で自分の生き方くらい決められるだろう。それでお前は何に興味があるんだ?」
全面的に信頼されているのか、あるいは息子の将来に過度の期待をしていないのか、微妙にわかりにくい父の反応に戸惑いつつ、俺はようやくここに来た目的を思い出した。
「ずっと数学や哲学が面白いと思っていたんだけど、急に脳に興味が出てきたんだ」
「のう?」
「伝統芸術の能とかじゃなくて、頭脳の脳。それも人間の脳」
父は鼻の頭をかいた。どうもピンと来なかったらしい。そして腕組みをして言った。
「その研究は金になるのか?」
――金だぁ!?
顔が引きつった。すぐに回れ右をする。
「もう少し考えてくる」
俺はそのまま親父の書斎を出て、リビングルームを素通りし、自室に戻った。