HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
翌日も前日と同じように舞と一緒の電車に乗って予備校に向かった。夏期講習の間だけとはいえ電車通学はいい。俺の家もいっそ舞の町に引っ越せばいいのに、とさえ思う。
そして今日の舞は昨日ほど挑戦的な服装ではない。それを確認した途端、俺は酷く安堵し、顔が不自然に緩んだ。気持ちも大きくなる。
「今日もかわいいね」
ここで重要なのは「今日も」の「も」であることは言うまでもない。わざとらしく「も」を強調して言う。
舞は俺の顔を横目で見て、それから嬉しそうに笑った。
――ホントにかわいい。
舞の喜ぶ顔を見ると俺は更に幸せな気持ちになる。どうして昨日はこの一言が言えなかったのかと悔やまれた。昨日の惨めな敗北の原因はそこだ。間違いない。
そんな意味不明の確信を抱いて、俺は舞に話しかけた。
「コンタクトには慣れた?」
「とても見やすくなったけど、ここに何もないのがまだ落ち着かない」
舞は自分の手を目と鼻の前で左右に振る。そりゃそうだろう。長い間の習慣を変えたのに何の違和感も感じないほうがおかしい。
――長い間の習慣?
俺の脳裏に何かがひっかかった。
「そういえば舞はいつから眼鏡を使ってるの?」
「……いつから?」
舞の反応を注意深く見守る。俺の顔を見ながら首を傾げた舞は、考えるように視線だけを電車の天井方向へ放った。
「覚えてない?」
おそるおそる小声で訊く。やっちまったか、と心の中がひやりとした。
「確か……中学生になったとき」
舞は眼鏡をかけているときとあまり変わらない、感情を抑えた不機嫌そうな顔でそう言った。
俺は胸を撫で下ろしながらも、ほんの少し残念に思う。いきなり核心に触れるようなことをするつもりはないが、諒一の話を自分自身で確認したいという欲求は、捨てても捨ててもどこからともなく湧いてくるのだ。
だがこれはとてもデリケートな問題だ。中途半端な気持ちで地雷を踏んだら、負傷するのは俺じゃなくて舞なのだ。
――焦るな、俺。
とりあえず話題を変えようと思う。
「それで数学はどう?」
できる限り優しい気持ちになって言ってみた。するとこちらを見た舞の目が驚きで見開かれ、すぐに視線を逸らされてしまう。その一瞬はひどく傷つくが、舞の頬が赤くなるのを見ると、俺は内心ほくそ笑んだ。
「難しいけど、先生の話が面白いから何とか頑張って聞いてる」
「それはよかった。でも俺よりできるようになるのは困るけど」
「そんなことありえない」
舞は苦笑して、本当に切なそうにため息をついた。
数学が苦手で困るのは大学入試時くらいなものだ。実は微分積分などできなくても何の問題もなく生きていくことはできるだろう。
むしろ生きていくのに必要なスキルは学問とは全然別のものだ。市村由布を見ているとそれを嫌というほど実感できる。今日もアイツと同じ講義を受けるのかと思うと、軽く疲労を覚えた。
更に話題を変える。舞も苦手な数学の話を長々と続けても嬉しくないはずだ。
「そういえば沖野から借りた本、読む?」
実はもう読み終わっていたのだが、舞に貸すのをためらっていたのだ。だいたいラノベとはいえいきなり10冊も貸すバカがどこにいるんだ、と思う。あまりにも重くて腹が立ち、もう少し相手の都合を考えて持ってこい、と沖野にはメールしておいたが、今日までヤツからの返事はない。
舞はすっかり忘れていた様子で「ああ」と言った。俺はまた内心ほくそ笑む。
「今は夏期講習のことで頭がいっぱいだから、終わってから読もうかな」
「え? 何?」
電車の騒音で聞き取れなかったふりをした。そして舞の腕に寄りかかってその耳元に小声で言う。
「今は俺のことで頭がいっぱい?」
「違います!」
「あやしいなぁ。『違う』じゃなくて『違います』って」
「揚げ足を取らないで」
「事実を言っただけだよ。どうして丁寧語になるの?」
舞がむきになってきたので俺もだんだん楽しくなる。どうして舞をからかうとこんなに楽しいんだろう。
「とにかく、私は夏期講習を頑張りたいの!」
「うん。でも俺のことを考えるのは別腹っていうか別脳?」
咄嗟に変な言葉を作ってしまった。別脳。他人には全く通じない言葉だ。
さすがに舞も顔を背けて笑い出す。
「そんな言葉、聞いたことない」
「うん。俺の造語。今年の流行語になるかもしれないから」
「絶対ならないと思う」
まずい。話が脱線している。
笑い続ける舞を一瞥して、俺は笑顔を作った。何しろ俺には今、とっておきの印籠があるのだ。気持ちもこれ以上ないほど寛大になるというものだ。
「ま、夏期講習中は勉強を頑張りなよ。俺もその間は我慢するから」
「が、我慢……?」
舞は大きく目を見開いて俺を見た。恐ろしいものを見るような目つきだ。俺は更に優しい笑顔になる。
「そう。偉いでしょ。本当は片方だけじゃなくて反対側にもしてほしいところだけど」
「ま、待って。何の話か、全くわからない」
身を縮めた舞は俺との間に隙間を作った。俺は一瞬眉をひそめる。
「昨日のことなのに忘れたの? 自分から俺にあんなことしておいて」
「ふぎゃーーーっ!」
猫が威嚇するときに出すような音がした。勿論、発信元は隣の舞だ。彼女は両耳に手を押し当てて塞ぎ、目をぎゅっと瞑っている。
「……っぶ!」
その姿と声にならない悲鳴に、不覚にも俺は吹き出してしまった。
――ほっぺにちゅーくらいでそんなに動揺して、この先どうするの?
少し意地悪な気持ちで舞を見ると、早くも立ち直った彼女は俺をキッと見据えていた。おや、と思いながら表情を改めたところに、舞がぼそぼそとつぶやくのが聞こえてくる。
「でも私、ラノベも好きですよ。面白いし、挿絵もあってお得じゃないですか」
俺は笑いながら頷いた。
「早く夏期講習が終わるといいね」
「あ、あの……それって変な意味じゃない、よね?」
舞が俺をちらりと横目で見る。勿論、俺はとても優しい気持ちで頷いた。
「うん。でも、優しくしてね」
「……はい?」
これでもかと眉に皺を寄せ、これ以上ないほど険しい顔をした舞はそのまま俺を数秒睨んでいたが、俺もこれ以上ないほど優しい顔で舞を見つめ返した。
やがて根負けしたのか舞はフッと肩の力を抜いて項垂れた。
「やっぱり清水くんは悪魔だ」
「え?」
意外な言葉に驚いて聞き返すと、舞はおそろしく長いため息をついた。それから、少し肩をすくめると「なんでもない」と言ってクスクスと笑った。
――ねぇねぇ、それってOKってことなの?
俺は無言で舞を見る。
――嫌とかダメって言わないと俺の都合のいいほうに解釈するから。
舞は俺の視線に気がつくと、眩しそうに目を少し細める。
これが電車の中でなければ危ないところだったが、幸か不幸か俺の理性は正常に働き、舞を自分のほうに抱き寄せたい衝動を必死でこらえた。
そんな俺の中の葛藤ならぬ死闘など舞は知るはずもない。電車がS市に着くまでニコニコと無邪気に笑っていた。
まぁ、舞が笑っていれば俺も嬉しいんだけど、ね。
こうして俺たちの夏期講習は二日目以降、平穏に続いていった。少なくとも、俺にとっては、の話だが――。
そして今日の舞は昨日ほど挑戦的な服装ではない。それを確認した途端、俺は酷く安堵し、顔が不自然に緩んだ。気持ちも大きくなる。
「今日もかわいいね」
ここで重要なのは「今日も」の「も」であることは言うまでもない。わざとらしく「も」を強調して言う。
舞は俺の顔を横目で見て、それから嬉しそうに笑った。
――ホントにかわいい。
舞の喜ぶ顔を見ると俺は更に幸せな気持ちになる。どうして昨日はこの一言が言えなかったのかと悔やまれた。昨日の惨めな敗北の原因はそこだ。間違いない。
そんな意味不明の確信を抱いて、俺は舞に話しかけた。
「コンタクトには慣れた?」
「とても見やすくなったけど、ここに何もないのがまだ落ち着かない」
舞は自分の手を目と鼻の前で左右に振る。そりゃそうだろう。長い間の習慣を変えたのに何の違和感も感じないほうがおかしい。
――長い間の習慣?
俺の脳裏に何かがひっかかった。
「そういえば舞はいつから眼鏡を使ってるの?」
「……いつから?」
舞の反応を注意深く見守る。俺の顔を見ながら首を傾げた舞は、考えるように視線だけを電車の天井方向へ放った。
「覚えてない?」
おそるおそる小声で訊く。やっちまったか、と心の中がひやりとした。
「確か……中学生になったとき」
舞は眼鏡をかけているときとあまり変わらない、感情を抑えた不機嫌そうな顔でそう言った。
俺は胸を撫で下ろしながらも、ほんの少し残念に思う。いきなり核心に触れるようなことをするつもりはないが、諒一の話を自分自身で確認したいという欲求は、捨てても捨ててもどこからともなく湧いてくるのだ。
だがこれはとてもデリケートな問題だ。中途半端な気持ちで地雷を踏んだら、負傷するのは俺じゃなくて舞なのだ。
――焦るな、俺。
とりあえず話題を変えようと思う。
「それで数学はどう?」
できる限り優しい気持ちになって言ってみた。するとこちらを見た舞の目が驚きで見開かれ、すぐに視線を逸らされてしまう。その一瞬はひどく傷つくが、舞の頬が赤くなるのを見ると、俺は内心ほくそ笑んだ。
「難しいけど、先生の話が面白いから何とか頑張って聞いてる」
「それはよかった。でも俺よりできるようになるのは困るけど」
「そんなことありえない」
舞は苦笑して、本当に切なそうにため息をついた。
数学が苦手で困るのは大学入試時くらいなものだ。実は微分積分などできなくても何の問題もなく生きていくことはできるだろう。
むしろ生きていくのに必要なスキルは学問とは全然別のものだ。市村由布を見ているとそれを嫌というほど実感できる。今日もアイツと同じ講義を受けるのかと思うと、軽く疲労を覚えた。
更に話題を変える。舞も苦手な数学の話を長々と続けても嬉しくないはずだ。
「そういえば沖野から借りた本、読む?」
実はもう読み終わっていたのだが、舞に貸すのをためらっていたのだ。だいたいラノベとはいえいきなり10冊も貸すバカがどこにいるんだ、と思う。あまりにも重くて腹が立ち、もう少し相手の都合を考えて持ってこい、と沖野にはメールしておいたが、今日までヤツからの返事はない。
舞はすっかり忘れていた様子で「ああ」と言った。俺はまた内心ほくそ笑む。
「今は夏期講習のことで頭がいっぱいだから、終わってから読もうかな」
「え? 何?」
電車の騒音で聞き取れなかったふりをした。そして舞の腕に寄りかかってその耳元に小声で言う。
「今は俺のことで頭がいっぱい?」
「違います!」
「あやしいなぁ。『違う』じゃなくて『違います』って」
「揚げ足を取らないで」
「事実を言っただけだよ。どうして丁寧語になるの?」
舞がむきになってきたので俺もだんだん楽しくなる。どうして舞をからかうとこんなに楽しいんだろう。
「とにかく、私は夏期講習を頑張りたいの!」
「うん。でも俺のことを考えるのは別腹っていうか別脳?」
咄嗟に変な言葉を作ってしまった。別脳。他人には全く通じない言葉だ。
さすがに舞も顔を背けて笑い出す。
「そんな言葉、聞いたことない」
「うん。俺の造語。今年の流行語になるかもしれないから」
「絶対ならないと思う」
まずい。話が脱線している。
笑い続ける舞を一瞥して、俺は笑顔を作った。何しろ俺には今、とっておきの印籠があるのだ。気持ちもこれ以上ないほど寛大になるというものだ。
「ま、夏期講習中は勉強を頑張りなよ。俺もその間は我慢するから」
「が、我慢……?」
舞は大きく目を見開いて俺を見た。恐ろしいものを見るような目つきだ。俺は更に優しい笑顔になる。
「そう。偉いでしょ。本当は片方だけじゃなくて反対側にもしてほしいところだけど」
「ま、待って。何の話か、全くわからない」
身を縮めた舞は俺との間に隙間を作った。俺は一瞬眉をひそめる。
「昨日のことなのに忘れたの? 自分から俺にあんなことしておいて」
「ふぎゃーーーっ!」
猫が威嚇するときに出すような音がした。勿論、発信元は隣の舞だ。彼女は両耳に手を押し当てて塞ぎ、目をぎゅっと瞑っている。
「……っぶ!」
その姿と声にならない悲鳴に、不覚にも俺は吹き出してしまった。
――ほっぺにちゅーくらいでそんなに動揺して、この先どうするの?
少し意地悪な気持ちで舞を見ると、早くも立ち直った彼女は俺をキッと見据えていた。おや、と思いながら表情を改めたところに、舞がぼそぼそとつぶやくのが聞こえてくる。
「でも私、ラノベも好きですよ。面白いし、挿絵もあってお得じゃないですか」
俺は笑いながら頷いた。
「早く夏期講習が終わるといいね」
「あ、あの……それって変な意味じゃない、よね?」
舞が俺をちらりと横目で見る。勿論、俺はとても優しい気持ちで頷いた。
「うん。でも、優しくしてね」
「……はい?」
これでもかと眉に皺を寄せ、これ以上ないほど険しい顔をした舞はそのまま俺を数秒睨んでいたが、俺もこれ以上ないほど優しい顔で舞を見つめ返した。
やがて根負けしたのか舞はフッと肩の力を抜いて項垂れた。
「やっぱり清水くんは悪魔だ」
「え?」
意外な言葉に驚いて聞き返すと、舞はおそろしく長いため息をついた。それから、少し肩をすくめると「なんでもない」と言ってクスクスと笑った。
――ねぇねぇ、それってOKってことなの?
俺は無言で舞を見る。
――嫌とかダメって言わないと俺の都合のいいほうに解釈するから。
舞は俺の視線に気がつくと、眩しそうに目を少し細める。
これが電車の中でなければ危ないところだったが、幸か不幸か俺の理性は正常に働き、舞を自分のほうに抱き寄せたい衝動を必死でこらえた。
そんな俺の中の葛藤ならぬ死闘など舞は知るはずもない。電車がS市に着くまでニコニコと無邪気に笑っていた。
まぁ、舞が笑っていれば俺も嬉しいんだけど、ね。
こうして俺たちの夏期講習は二日目以降、平穏に続いていった。少なくとも、俺にとっては、の話だが――。